一周年と二万打の記念に
(生きてることになんの意味も見出せない。毎日呼吸して飯食ってちんけな心臓が稼動してる、ただそれだけのことに、)






広い筈の空を覆う煙は途切れることなく漂い続け、雲ひとつない青空が広がるのは滅多にない。経済の発展により怒涛のごとく各地に建設された工場は、無差別に大気や河川を汚染する。それでも尚、裕福な暮らしのみ追い続ける性悪な人間共は、自らの首を絞めていることも気づかずに目を覚まさないままだ。

汚い手を使ってでも金をせしめようとする者も、十分な休息を得ず過剰な労働を強いられる人々も、芥の散らばる薄汚い路地に、行く当てもなく膝を抱える少年も、どれも皆同じ人間だというのに。それなのにこうして格差が生じる訳は一体なんだと言うのか。




明日も見えない灰色の街。





さよなら








捨てられた孤児を見つけたのはこれが初めてではなかった。

この街には誰の保護も受けられない未成年者が溢れ返る。この子供だけではなく、周りを見渡せば同じ境遇の人間を見つけることは実に容易い。
腹を空かせているくせに働きもせず、―――否、こんなところに子供の働き場は存在しない。働けないのだ。始終灰が舞っているような工場ばかりの街では、あんな餓死寸前の子供など、大した労働源にはならないから。
子供に限らず、働く力を持っていない者はすべて、汚らしい地面の上で丸まり朝を待つ。

子供や老人が圧倒的な数を占める―――限界を超えた人々は、遺体を埋葬されることもなく、凄然と腐っていく。灰が舞うのと同時にこの街は死者の臭いで埋め尽くされる。
酷く劣悪な環境だ。それでも信じられないことにここではそれが普通であり、当たり前であり、至極当然のこと。だから誰も気にも留めない。


その中で、捨てられた孤児を見つけたのはこれが初めてではない筈なのに、何故だか惹かれるものがあった。それがなんなのかはよくわからない。けれど確かに、他のとは違う、何かがこの子供にはあった。




「お前も孤児か」
壁に凭れてじっと空を仰ぐ、まだあどけない少女―――いや少年は、声をかけても身動きひとつしなかった。もしかしたら、と思い軽く肩を揺する。肉など少しもない、骨ばかりの身体が少しだけ身じろいだ。どうやら生きてはいるらしい。
「こんなところで、何してる」
そんな意地の悪い問いかけ、無意味だと知っていた。けれどそれ以外、何を話せばいいのか少しもわからなかったのだから仕方がない。―――それ以前に、どうしてかこんな子供に話しかけようとしている自分が不思議だった。
返事を期待していた訳ではなかったけれど、少年は深く息を吸い込み声を発した。がらがらにしゃがれた老人のような声音だった。

「空、見てる。……青い空」

青い空? 少年の言葉につられて宙を見上げる。今日も空は曇っている、太陽など少しも見えやしない。まして青空など、どこにも。
「……今日も空は灰色だが」
「そうなの? ずっと青いと思ってた」
不可思議な少年の言動に顔を顰める。青い空を見てるだの、ずっと青いと思っていただの、どこかおかしい。まさかと思い少年の顔を覗き見ると、少年の白い睫毛で縁取られた瞳は、深く濁ったまま光を映してはいなかった―――というのは冗談で、少年のその瞳は綺麗な銀灰色だった。珍しい色だ。
けれどその瞳の焦点が合っているのかといえば、そうではなく。極度の近視という訳でもなさそうだった。
「目が、見えないのか」
「うん。でも見えなくてもわかるから、別にいい」
「見えなくてもわかる……?」
「色とか、そういうのはわからないけど。知ってる? 見えないから見えるものもあるんだよ」
この子供と話していると次第に頭が痛くなってくる、ということに気づいた。何を言っているのかまったく理解できないのは自分だけではないだろう。
「お兄さんには、多分わからないよ。僕の見える世界は」
腹は立たない。生意気なことを言う子供だとも思わない。ただこの少年の見る世界に少しだけ興味があった。自分の眼には救いどころのない堕ちた世界でしか映らないのに、この少年の見えない瞳には、どう映っているのだろうか。
「でもお兄さんもわかるでしょう? そこら中に、重たい空気。皆、疲れてる。働きすぎだね。生きるために、必死になって働いてる」
「そうだな」
「お兄さんだって、疲れてるみたい。こんな人生もう嫌だ―――って、うんざり、してるんじゃないの」
「……お前も、そうなのか。うんざりしてるのか」
「ううん」
少年は静かにかぶりを振った。
「光が失せた世界は、お兄さんが想像しているよりずっと酷だよ。でもさっきも言ったとおり、見えなくてもいい。このおかげで、見たくないもの、見なくて済むから。……だからうんざりしてるんじゃなくて、―――ほっとしてるんだよ」

言葉にならなかった。
何か言おうと口を開いても、出てくるのは僅かに吐き出された息のみ。
けれどこの少年は、自分に何ごとかを言ってほしい訳ではないようだった。慰めも励ましもいらないようだった。それなら自分には、何を言ってあげることもできない。この少年は、そんなこと微塵も望んでもいないのだから。

「お兄さん、警察軍とかいう人でしょう」
「……なんでわかった?」
「だから、僕感覚ひとつ足りないから、他のが鋭くなっちゃったの。お兄さんからは、なんだか硝煙のにおいがする。イコール沢山の人を殺してきた!」
笑顔でなんてことを言う奴だと思った。けれどそれは事実だから、何か綺麗ごとを言うつもりも、適当にあしらうつもりも毛頭ない。素直に肯定する。
「正解だ。軽蔑するか?」
(お前の言うとおり、俺は―――
「どうして? お兄さんの仕事でしょう、それは。なら仕方ない、そうしなきゃお兄さんが生きていけなくなる。わかるよ」
見かけとは裏腹に、随分あっさりとした割り切り方をする。少年は浅く息を吸い込み、でも、と切り出した。
「でも、なんとなくで、惰性で毎日生きているような人には、殺されたくないな―――僕は」
「ああ……」
「そんな人に、誰かの命を奪う権利はないと思うし」
「……そんな回りくどい言い方しないで、直に言えばいいじゃねぇか。『お前に人を殺す資格なんてない』。けどお前も、差別すんのか? あなたは毎日目標を持って立派に生きています、だからあなたには―――
「ごめんなさい、言い方間違った」
「は?」
「誰も、どんなに偉い人だって、他人の命を奪っていい道理なんてない。そう信じてる。僕が言いたかったのは、うんと……とにかく、誰も殺してほしくない、よ。殺したとか殺されたとか、そんな軽々しく使っていい言葉じゃないでしょう? そんな簡単な問題じゃ、ないでしょう? 皆、精一杯、生きてるんだから」

(生きてる―――ことの定義なんて、もう)

「それは―――綺麗ごとの類か?」
「……どうしてそうなるの? 僕はただ、自分の思ったとおりのことを言っただけだよ」
「そうやって、自分にはなんの力もないからと言い訳して見て見ぬふりをして、ちゃちな言葉で取り繕って自分だけ救われようとしているんじゃないのか」
口先だけで体裁を整えて、甘いことばかり言う夢見がちな人間がこの世で一番嫌いだった。理想ばかり語っていないでいい加減現実を見ろ、そう怒鳴り散らしたくなる。
見えても見えなくても関係ない。この腐臭の漂う街だけではなくて、社会全体を築いているのは紛れもない自分たちなのだ。

「……教えてあげようか、僕が誰も、殺してほしくない理由」
けれど少年は言葉に詰まった様子もなく、淡々と語り出す。
「初対面で言うことでもないと思っていたけど……。僕は自分が、どうしてこんなところにいるのかも、わからない。うんと小さな記憶はね、あるよ。あるけど、いい思い出じゃない。イメージが赤なんだ」
「赤……?」
「そう。僕の左眼、縦に大きな傷があるでしょう。これね、多分……親につけられたと思うんだ。身体中にある、中々癒えない傷跡も込みで推測してみたらね、もしかしたら、自分は虐待の末に、捨てられたんじゃないかなあって、思った」
あはは。少年は笑えることでは決してないのに、それでも声を上げて笑った。それもまた、自分にとって不可思議な行動でしかなかったが、この少年にしてみればもう笑うしかないのだろうと思った。
「一歩間違えれば僕は死んでたかもしれない。でも殺してしまった方にも深い傷が残ると思ったら、こうして生きていることにほっとした。やっぱりお兄さんの言うように、ただの綺麗ごとなのかもしれないけど、ね」
「違う」
瞬時に口をついて出てきた強い否定。
「……お前みたいなのを、世間ではお人よしと呼ぶんだ」
「ふふ、お兄さんも、結構なお人よしだと思うよ。あ、そうだ、お兄さんの名前、教えて」
今更な質問ではあったけれど、名を名乗る。珍しい名前だね、と少年は笑った。自分は笑えなかった。
「僕にも名前、あったのかなあ」
「名前も覚えてないのか?」
「うん。―――ねえ、」
街一帯に立ち並ぶ工場の、いくつもの煙突から吐き出されるガスの下で出会ったこの少年は、自らを不幸と定義しない子供だった。初めて会うタイプだ。自分の周りの人間は、皆総じて悲劇の役者ぶる。
視力も失った脆弱な身体で、それでもまだ生きている子供に、それでも尚笑っている子供に、自分は何をしてあげられるだろうか。何ができるだろうか。―――今まで生きてきて、初めて誰かに何かしてあげたいと思った。
「僕をほんの少しでも哀れと思うのなら、……名前、を、ちょうだい」
「な、まえ……?」
初めて少年は、切なげな微笑をその顔に貼りつける。
「せめて、『僕』として死んでいきたいから」

(俺ができること―――この子供に、個体を識別する名称を与えること)


―――……アレン」


ありがとう。
そう言って、心からの笑顔だろう、夏に咲く眩しい花のように、アレンは笑った。
「アレン、アレン、アレン、アレン、アレン。今日から僕はアレン。へへ」
何度も何度も、確かめるようにその名を呟く。何が嬉しいのか、よく理解できなかった。けれどアレンが喜んでいるのだから、それがすべてなのだろう。
「……時間だ。もう行く」
しゃがみ込んだ姿勢から立ち上がり、背を向ける。深入りしすぎたのかもしれない。―――どこにでもいるような孤児なんかに。
(どうかしてる)
「あっ、神田!」
だるそうに首だけで後ろを見やると、アレンは満足そうな笑顔だった。
見えない目を細めて、
「また、……」
言いかけた言葉を飲み込み、一瞬不安そうな、迷った表情をする。

「元気で!」


それが自分が最後に見た笑顔だった。











後日、少年に会いに同じ場所へ赴くと、そこにアレンはいなかった。アレンはどこにもいなかった。そこにいたのは、静かに眠るひとりの子供。

―――……っ」
痩せこけた身体を丸めて眠る少年を前に、漸く思考が巡り出す。狂った脳内では悲鳴が上がりオーバーヒート寸前。けれど何が起こったのか、なんて少し考えればわかることだった。
そう、ただ死んでいただけ。
よく見かけるだろう。子供が足掻くこともせず死んでいくことを、自分はよく知っている筈だろう。この目で何度も見てきた光景だ、何も特別なことなどない。

「アレン」だった子供はあの日と同じ場所に確かに存在していた。「アレン」だった、と過去形なのは、あまりにも違う人間に自分の目には映ったから。あの日出会った、生き生きとしていた「アレン」と、今網膜に映し出されているこの子供とを結びつけることは難しかった。
だってあの綺麗な色をした瞳は固く閉ざされていて窺うこともできないし、あの世界を語った口は薄く開いてはいたけれど少しも動く気配はなく、だから「僕はアレンだ」と名前を名乗ることもないのだ。これではこの目の前の少年が「アレン」であると認めることができない。

これは本当に「アレン」なのか。疑問に駆られつつも少年の隣に腰を下ろす。自分を守るように自身を抱き締めているこの子供。きっと壁に寄りかかりちっとも晴れない空を見上げながら死んでいったのだろう、背中は狭い路地の壁にぴたりとくっついている。おそらく力の抜けた身体は重力に逆らうこともなく沈んで―――それよりも、左目に存在する赤い傷跡が証明している。この子は確かに「アレン」なのだ。昨日出会った不可思議な子供に違いないのだ。
さらりとした、瞳と同じ彩色の髪に、触れたいとは思いつつも触れることはなかった。触れた途端、少年を喰らった死が、自分をも侵食してしまいそうだった。だからただ、少年のかわりにと空を見上げる。せめて最後くらい晴れればよかったのに、生憎の曇り空。最悪の出発だ(どこへ?)。



さあ、少しでもこの哀れな子供に関わった罰だ、半端なやさしさを分け与えた罰だ、しっかりと後片づけをしようじゃないか。

「名前なんて、やらなければよかった」
今更悔いたってしょうもない。
背中と膝の裏に腕を差込み、持ち上げる。死が侵食したって構わない。どうせ何人もの命をこの手で奪ってきたのだ。少年を抱くこの腕で、大勢の人間を殺めてきたのだ。怖いものなど何もない。
少年の身体はもうただの抜け殻で、中身なんかまったくないんじゃないかと疑うくらい、重さが感じられなかった。詰まるところ、栄養失調か何かだったのだろう。それで視力をなくしたという話を聞いたことがある。



どこへ「アレン」を連れて行こうか。
一番空が見えるところ――――――あのとき、自分は教えなければよかったのだろうか、ふと思う。青い空を見ていると少年が言ったとき、曇っているなどと言わずに適当に相槌を打っておけばよかったのだろうか。そうしたら、少年は今も生きていただろうか。出会った日のように、顔を綻ばせて。

考えた結果、一面が花畑で広々とした丘に埋めてやることにした。その辺で拝借したスコップで深く穴を掘り、周りに咲いていた花を引き千切ってその中に敷く。冷たい土の上で眠るよりいいような気がした。
痩せ細った小躯を花の上に寝かせ、その上に土を被せたら終いだ。一回一回土をかける度に、息ができなくなるなと思ってしまう。死者は呼吸などしないのに、そう、思ってしまう。
「はっ……馬鹿げてるっつーの」


そこらで拾ってきた大きめな石を墓標にしただけの簡素なつくりの墓が、赤や黄色といった明るい色に囲まれてでき上がった。
「名前―――俺のつけた、名前」
死ぬためにつけてあげた訳では決してなかった。けれど少年は自分の死期を悟っていたのだろう、だから死ぬ間際に出会った自分に名前をくれと言った。
自分はそのためだけに利用されたのだ。自分だったから、なんて自惚れ。名前をくれるなら誰でもよかったのだろう。それが例え自分と同じ境遇の孤児でも、お高くとまった成金や財閥でも、お国のためにと同胞を次々と殺していく警察軍でも、きっと誰でも。
とんでもない子供だ。名前を貰うより、食料を乞う方がずっと頭のいい生き方だったのに。とんでもなく馬鹿で、しょうもない―――



―――お兄さんだって疲れてるでしょ?)
(そのとおり、疲れてるさ。毎日毎日同じことの繰り返し)(この先何年経とうが、こればかりは変わらない。平凡で詰まらない俺の一生)(うんざり―――してんだ)



「悪いな」
墓石に名を彫ろうかと思ったけれど、彫る道具が何もない。
「俺だけこの場所を知っていればいいだろ」
(俺だけ、お前の名前を知っていればいいだろ)
けれど名前もない墓石があまりにもお粗末で、これでは少年も浮かばれないと思い、自分の制帽を引っかけた。
周りは赤や黄色や橙、茂る緑、日傘代わりの制帽は群青。これで空も晴れ渡っていて真っ青だったなら言うことは何もなかったのに。



(うんざり―――していた)(けれど何かがすとんと心に落ちた)(少年を埋めて、自分の中にあった感情がやっと感情らしくなった。人間らしくなった)
(どこにいたって関係ない)(これが俺だ。これが自分だ)(軍だろうがなんだろうが、それがなんだ)(俺は自分の行き方を自分で決めた、後悔などないし、あってはならない)(多くの人間を殺めたのだから、ここから逃げることなど許されない)(苦しくても辛くても、形振り構わず生きるべきだ)




自分はずっと中途半端に生きていて、けれど皆そうだと錯覚して今まで生きてきた。なんとなく日々過ごしているのだと、この子供に会うまでは。







(簡単だ、実に簡単なことなんだ。ただ生きたいから生きる、それだけでいい。意味なんかなくたって、それでもう十分なんだ)






All's well that ends well.





070711
070923 訂正
かつてフリーだったもの

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