------------- 下ろされる暗幕


「この数々の罪を償える方法はたったひとつ……それは僕が死ぬこと。ただ僕という人間が、どんな恥辱に塗れた人生を進んだのか、形に残してから死のうと思いました。こんなにも長くなってしまったけれど、これを手記として、世に残します。父が守ってきた家を元奴隷の僕が蔑ろにする訳にはいかないので、せめて、あなたへ捧ぐ。僕らの間に何があったのか、僕があなたや周りの人たちをどう思っていたのかまで、すべて余すところなく記したつもりです。――真実を、あなたに……一九二×年三月二十五日……」
そこまで読んだところで、男は分厚い日記のような冊子を閉じた。すべて読み終わるのにかなりの時間を要したのは、分量の所為だけではなく、詳細な描写によって当時の記憶がまざまざと甦り、逐一胸が詰まってしまって中々読み進められなかったためだ。
男はそれを書き記した少年を唯一の主としていた。異国で畜生以下の暮らしを強いられていたが、善良な人間に引き取られ異国へ渡り、広い屋敷で孤独にしている少年と出会ったのがすべてのはじまりだった。小さな主は男の生涯とも言える存在だった。必ず守ることを誓った。その感情に名前をつけるならば、迷わず愛とした。
蔵での惨劇を、少年が生きているうちに語られることはなかった。いつの間にか部屋から姿を消した少年を探し、辿り着いた北の土蔵で目にした光景は、今でもほんの少しだって忘れることはなかった。忘れられはしなかった。
手足と呼び、使役していた人間を、少年は生気の失せた顔で抱えていた。赤黒く染まっている金槌が少年のそばに転がっているのを目にした途端、そこで何があったのか、少年が何をしてしまったのか気づいてしまった。神も赦しはしないであろう行為を、彼は、
「ずっと、苦しんでいたのか、お前は」
男が仕えた家は俗に言う名家だった。その痛ましい事件が起きたのは、当主が亡くなり、養子である少年が跡目を継ごうかという頃だったため、男はすべてを隠蔽しようとした。闇に葬りなかったことにしてしまおうと試みた。少年もそれに納得したと思っていた。けれど、そうではなかった。
この手記を見つける十日前に、彼はこの自室で、自ら命を絶った。男が少年の背に残る忌々しい烙印を削いだのと似たようなナイフで、頸動脈を躊躇いもなく切ったのだ。
跡継ぎが死んでしまった以上、血縁者から次の当主を出すしかなかった。
「これを見つけてしまったのは……偶然なのか、それとも、必然なのか……」
死してもなお、男が主と呼ぶのはたったひとりだけだった。少年以外を主人と認めることは、男にはできなかった。だから、今日づけでこの屋敷を出ていくことにした。最後に永遠の主人である少年の部屋を片づけていこうと遺品を整理していると、本棚に見慣れない一冊が並んでいるのを見つけた。それが、彼の手記だった。
無遠慮なノック音に沈みかけた意識が浮かび上がる。重厚なドアから顔を出したのは、少年とその手足によって土蔵に軟禁されていた青年だった。
「おい、もうそろそろ時間だぞ」青年は男の手にする本に視線を留める。「……なんだそれ」
「これは……アレンが……若さまが書いたものだ。お前がここへ連れられてきてから、そして彼が一生を終えるまでが、綴ってある。ここまで書くのは大変だっただろうに……」
「へえ……全部、読んだのか」
「さっき読み終えた。お前のことも、大分申し訳なく思ってたらしい。お前の人生を変えたことを悔やんでいるくだりが何度も出てくる」
「全部俺が自分で決めたことだ。あいつが後悔する必要は少しもねえってのに、馬鹿じゃないのか」
「そう言うな……頭では理解していたんだろう、でも、割り切れなかったのさ。汲んでやれ」
少年の手記を持ち、東洋の青年を連れて部屋を出る。もうここへ戻ることはないだろう。男が愛した少年の生きた屋敷に、もう二度と、足を踏み入れることはないだろう。
「さあ、行こうか」
少年は死ぬ前に、人知れず莫大な財産を処分していた。多くは孤児院への寄付であり、残りは長らくこの屋敷を支えてきた使用人たちへ配分された。新たに業突く張りの人間が当主の座に就いたときには一銭も残っていなかった。
手記とは別に遺された男宛の手紙には、あの東洋人を頼むと記されていた。主の頼みごとならば無碍にする訳にはいかなかった。男は、青年を引き連れて屋敷から出ていくことにした。青年もそれを了承した。
「ここはまるで、牢獄みてえだった」屋敷の門がふたりの背後で閉ざされたとき、高くそびえる屋敷を振り返って青年は漏らした。「誰も彼もがここに囚われて、身動きできずに藻掻いて――蔵に閉じ込められてたって、それだけはわかったぜ。俺もそうだったからな」
「……違いない」
館の中でしか展開されない物語に終止符を打ったのは、その中心にいた少年だった。これを悲劇と呼ぶにはあまりにも軽々しい気がした。カーテンコールなどあってはならないし、一旦下りた幕が再び上がることもないのだ。
「それでも、どれだけ囚われていてもいいから、俺はずっと……あいつのそばにいたかった。誰よりも、近くに」
目を静かに閉じれば、目蓋の裏に愛しい日々が甦った。掴もうとすればたちまち崩れる残像は、偽善を繰り返していつしか本当になったような、世界の終わりによく似た遺骸だった。


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