何か特別なことを願っただろうか、
丹念にちぎってセピアに埋められたら











「あのね師匠」
呼びかけても答えない男のその反応にはもう慣れていた。それには構わず僕は続けようとするけれど、まるでひとりで喋っているみたいでなんだか淋しい気もして、それでもただ隣にいるだけでいいじゃないかと、高望みすべきではないのだと自分に言い聞かせた。
「明日は雪が降るんですって」
その後に続く予定であったもの、「寒くなりましたしね」「困りますよね」「積もったらどうしよう」「雪は嫌ですよね」。どれも違うようで僕は口を噤んだ。冷たい風に襟元を寄せ合わせる。吐く息はもう白く、素肌は冷え切っていて冬の到来を感じさせるには十分だった。男は何ひとつ喋らない。
「師匠、」
道はずっと先まで伸びている。赤茶色の石畳を木枯らしが舐めていく。からからと音を立てて飛ばされる色素の失せたような葉、赤はもうない。応えもない。
今までにも何度となくあった沈黙にも種類があった。安堵するような、躊躇するような、怒気すら孕んだような、張り詰めたような、それが正しいあり方なのだと思えるような、―――触ると切れてしまいそうな。そのどれもとは違う今。この沈黙はなんのため。手を引けど応えもないのは、何故(あなたは何を考えているの)。
「戻り、ませんか」
訳もなく哀しくなったりなどしない。そこには必ず理由がある。そしてそれ故に湧き上がる感情には理性など関係なく、だから今みっともない顔を晒してしまうのもどうか許してほしい。もう一度だけ、「師匠、」と呼びとめようとする。それでもなんの素振りすらなければ諦めがつくというものなのに、男はいつも見透かしたようにそこで。
足が止まる。
「いっ」
「甘えるな、馬鹿が」
男が容赦なく弾いた長い指が僕の額に当たる。じんわりと痛む額を押さえる僕を見下ろすその目は、冷たくなりきれていない眼だった。少なくとも吹きつける北風よりはあたたかい。
「…………だって、」
(不安になりもするでしょう、だってここはぼくとあのひとの思い出が眠るばしょ)(あのひとを置き去りにしてしまったところ)
一年をかけて戻ってきた、記憶はまだ新しい。ここで僕は生きていた。確かに生を望んでいた。男が何を思ったのか知らないけれど、何か意図したこともあるのかもしれないけれど、できることなら二度とここへはきたくなかった(あなたにだけは嘘を吐きたくなどないから素直に白状するけれど)。あの人のいない空白の一年は長く、きっと僕は変わってしまった。それが何より哀しいと思う。あの人は何も変わりはしないのに僕の時間だけが動いてしまって、あの人とより隔てられる。それを自覚してしまうのが嫌だった。だから無理を承知で尚も請う。
「ねえ、戻りませんか」
「いつまでも過去にしがみついているな」
違う、違う。僕は首を横に振る。過去にしがみつきたいのではない、ただ切り捨てたいのだとどうか気づいてほしい、そう切に願う。会えもしないのなら、いっそそちらを選んだ方が楽になれるのだから。
忘れたい。あの人を失った痛みから、今も尚持続する喪失感から、早く逃れたい。そう望むのはいけないことだとわかっていてもどうしてもそう思ってしまう僕は、大した親不孝者だろう。
「……あ、」
僕は声を上げる。視界にちらついたのは真っ白な雪だ。いよいよ冬が訪れたらしい。あの人が掻き消えた季節。ふたりにしか伝わらない暗号ををつくったのもこのくらいの頃だった。
「師匠……」
もう懇願の色は滲ませない。諦めがついたというのが正しいけれど、だけれどもうひとつだけ望んでもいいと神さまが僕の欲張りを許してくださるなら、もうひとつだけ願えるなら、
「僕はこれ以上、変わりたくないです」
(あの人が愛してくれていたままの、僕でいたい)
男は何も言わなかった。
吐く息は一瞬にして白く曇り、消えていく。まるで男が吐き出す紫煙のようではないか、空気中を頼りなげにたゆたうそれは。実際に見上げて確認した訳ではないけれど、煙草を連想させる男が僕を見る眼は多分、雪のように白々しい。










071111
本誌の義理親子は犯罪に近い。何あのふたりでつくった文字とかって! ぴゅ、あ……!
(ていうかあのボタンの装飾、もしかしていいとこ出の人だったりして、ね!)

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