きみはヴェランの影を抱く/080321







ぴゅっ、


―――どっちもどっちの擬音語がぴったりだ。目の前を通った黒い物体をアレンが追いかけていった。「待てよ! 待てったら!」オレの静止の呼びかけに耳なんか貸してくれないことは最早わかりきっていることだった。常識ともいえる、かもしれない。オレは諦めて後を追う。面倒なことをしてくれるものだ、あれで気がついたら迷子になっていましたとかいうのが過去に何例あったと思っているのだろうあのくそがき。一度お盛んな太陽を睨みつけ―――ようと思ったけれど目に刺激が強すぎた。


「アレン!」

茹だるような夏の暑さの中、人気のない方をどんどん、どんどん突っ切っていく後ろ姿は猫のように機敏だった。曲がって曲がってまっすぐ行って、次第に道が細くなっていく。薄暗くもなった。多分オレがこうしてついてこなかったらアレンはまず間違いなく迷い子になっていた筈だった。後で感謝の程を百字程度で述べてもらおう。

次の煉瓦づくりの壁を曲がったとき、アレンに追いついた―――突っ立っていた。ぼけっと。なんのアクションもなしに。動作は零。そして、―――アレンは動き出した。
「そいつ、」
「うん」
動かなくなっていたのはアレンだけではなかった。先程目の前をぴゅっ―――と横切っていた黒い物体、野良猫の姿がそこにあった。見るからに元気そうだったあの猫だ。アレンはその細腕と神の腕で薄汚れた猫を抱いた。硝子細工でも扱うかのようにそれは丁寧で繊細だった。

「もう腐りかけてる―――たった今死んだ感じじゃあない、かな。これは、うん。もうちょっと、前に死んでいたみたいです。可哀想にね」
腐りかけたそれを、抱くのか。ぎうと。強く抱けるのか、お前は。肉が零れ落ちそうなのにすべて集めて。

「……猫は、死期を悟ると、姿を消すんだ。自分が弱ってるときに、敵から身を守る本能だとか、具合が悪くなると、暗く静かなところに身を潜めようとする本能だとか、あるけど」
「………………」
アレンは何も言わなかった。無口に猫ばかり抱き締めていた。
「お前はどう思う?」
「……さすが博識さん、と褒めようかと思ったのに、人に訊いたりもするんですね。吃驚です」
「うん。本からの知識だけじゃなくて、お前のが、聞きたかった」
アレンならば、どういう返しをするのかと興味が湧いた。それだけのことだった。
「僕は、……家族を哀しませたくなかったんだと、思います。死んじゃうより、ただいなくなった方が、希望が持てるでしょう。―――この猫ね、リボンがついてるから。飼い猫だったんですよきっと。賢い子ですよね。愛されて育ったんだろうな」
―――猫がそんな高等なこと考えられるとは思わないけど―――じゃあ、さっきの猫はどう解釈する?」
さっきの猫―――自分たちをここへ呼び寄せた影。猫は今死んだものではなくて、死してから数日経っているものとアレンは言う。それならばあの見失った影の正体を、どう説明づけることができる。―――少しだけ、意地の悪い質問かと思った。それでもアレンは澱みなく、すらりと歯節に出した。


「なんでもかんでも、理由つきで説明しなくちゃいけないってことはないと思いますけど―――さっきのは、だけど淋しくって、孤独は嫌で、ひとりきりで腐っていくのには耐えられなくて、誰かに見つけてほしかったこの子の、幻影ですよ」
きっと。


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