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(みんなわたしの邪魔をする)






かつんカツンかつン、甲高い音を立てて足早に過ぎ去る。壁は冷たい光に揺らぎ陰鬱と湿っている(苦手だった)。どうにか靴音を響かせないように努力しても精々これくらいが限界だった。
暗がりに身を潜ませときどき立ち止まるのは見つからないようにするためと別の音を聞き分けるためだ。別の音というのは、―――別の音というのは、私以外の、誰かのものだ。雨音とかそういうのではなく誰かが意図的に起こす音だ。私は耳を澄まし、ときどき立ち止まり、通り過ぎた蝋の火を吹き消して進んだ。

教団での生活は長かったしすぐに慣れたのに、同じようなつくりでこうも雰囲気が違うとどうしていいやらわからなかった。私は、どこへ進むべき、どちらへ、進むべき。(だれか、)。膝がかくりと折れたのが脳まで伝わったのも遅かった。気がつけば壁だけではなくて床の冷たさまで感じている。それまで消し進んできた明かりまでいつの間にかなくなった。この先に灯火はない。目を細めて凝らしてみてもこの廊下がどこまで続いているのかまったく見えない。一寸先どころか目蓋を開き眼球が空気に触れたところから既に闇だ。―――私は嫌いではない。嫌いでは、なかった。ただ暗夜だけは不得手だった。昔から夜の闇は得意ではなく狭く暗い場所に座り込んでいるのが小さな頃のお気に入りだった。例えば衣装棚の中とか机の下。なんの違いがそうさせるのかは私自身のことではあるのにきちんと説明することはできないけれど。―――――――――――――――立たなければ。立たなければ。
早く立たなければ飲み込まれる。
誰か! 声を張り上げた。誰か! 誰かいないの! 声を。もういっそ見つかることはどうだっていいと思った。自暴自棄になったのかもわからない。気づいたら勝手に喉は震え出していたのだ。誰か! だれか、! 虚しく跳ね返りそこら中にわんわんと木霊して終わった。
―――そうだった私はひとりなのだった。長らく忘れていたけれどわたしはひとりでいたのだった。他に誰か、私の味方となり得る人がいる訳でもないのだろう、と思った(よくは知らない覚えていない)。

荒い息を整えると幾分冷静さも取り戻し、周りを窺うことに気が向いた。
終わったの。終わったの。終わったのだ。長い長いシンフォニーの後が今なのだ。やっと最後の一振り、一小節が鳴り止み区切りがついたのだ。ほうと安堵の息が漏れた―――怯えていたわたしはもう消え去っただろう(XX染色体の過去、そう、それはわたし)。そう思うと足が羽のように軽くなりすんなりと立ち上がることができた。(わたし、私は、)。







慰めてちょうだい
哀れなたましい
哀れなわたし








何か捨ててしまって気持ちが悪い。何か忘れてしまったような気さえする。それはなんだったか、形をなしていたものか目に見えないものか簡単には手に入らないものか痛みとともに消し去れるものか。私にはわからなかった。―――私はだれ? 白い彼が私の肩を掴んで揺さぶった。わたしはだれ、がくがく揺れる脳髄のその奥で私は考える、わたしはだれ。
「きみは、きみは、エクソシストでしょう。ぼくが、わからない?」
長いシンフォニーの後の長い回廊、紆余曲折ずっと続く思考の渦中に入り組む彼の声、私は漸く行き着いた。―――おどけないピエロなどいるのものか。





(080415)
ノアもしくはただの狂わせ。
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