オレは知らないうちに目で追っている。彼女はそんなオレを知らない。いつも同じ鞄を提げていつも同じバス停で降りていく彼女はオレのことを、多分知らない。オレはそのひとつ後に降りる。彼女はオレよりひとつ前に下りる。 家に帰ると弟が玄関で立ち竦んでいた。オレはあの全然まったく兄に懐かない弟がオレを出迎えてくれたのかと思いちょっと気恥ずかしそうにわざわざ悪いな、ただいま、と言うと見事に無視されたのでそうではないことを知る。 「なに、どったの」 「……お前のその舌足らずな口調が気に喰わない」 「あり、気に障ったなら、謝らない!なんだよ!みたいなー」 「言葉、不自由なの。学校行けよちゃんと」 「行ってんよー、今日も勉学に勤しんできたさあー。なのにお前ときたら、兄を出迎えるでもなく、玄関なんぞで、何やってんの」 オレはまだオレたち以外の一卵生双生児という奴らを拝見したことがない。もし見かけたらぜひともお友だちになって、きみたちはお互いをどれくらい尊重してるのかとか訊いてみたいと常々思っているのだった。 別にすきでもきらいでもない弟。結構かなりすごくきらわれている兄。なんか虫けらみたいに扱われる兄。一応ふたり分のご飯はつくってくれるけれども明らかに盛り方に差があるのは何故だろう。 「そこに、なんか、いるの?」口にするのも憚られる、Gとか。 「小さいお前が足元にいたら、オレは間違いなく原型なきまでに踏み潰す。踏み殺す」 「あー、えっと、もしもの話してるんじゃないんだけども、脊髄反射はやめろよー、お前の兄は兄だぞ」 「豆腐の角に頭ぶつけて死ね。芋がどろどろに溶けたカレー鍋で溺死しろ。喉にティッシュ詰まらせて窒息死した二日後には三途の川を渡れ」 「……今日にでもと言わない辺りはお前のやさしさなんかな?」 今日の弟は珍しく饒舌だった。いつもなら取り合ってもくれない。ひたすらオレだけが喋る。もしかしたら機嫌がいいのかもしれないと思った。 「お前がいなけりゃオレはもう少しましな性格をしていただろう」弟は言う。「お前の所為で全然ちっとも面白くない人生をオレは送る羽目になった」更に、「なんでよりによってオレと一緒に生まれたんだ」、などなど。滔々と。淡々と。恨み言が沢山。十八年間、積もりに積もった恨み言が延々と続いた。オレは曲がりなりにも兄だから、望まれていないようではあるけれどそれでもこの子の兄だから、黙ってずっと聞いていた。段々念仏のようになってきても寝るのは我慢した。どうやら機嫌はよくても気分は最低らしかった。 それから暫く待つと弟はやっと息を吐いた。 「もう終わり? 満足?」そう問うと、返ってきたのはいいやという短い返答だった。「なんてこった、オレはあとどんだけの痛い言葉たちたちたちを浴びなければならないんだろう」 「お前のことだから、どうせ右から左だったんだろ」 「いいや左から右だ」 「……お前はいい死に方なんて、したくてもできねえよ」 いい死に方って、なんだ? 悪い死に方とは、なんだ。 「それを決めんのはお前じゃないさあ」 「いいやオレが決める。できればお前が最高に悪い死に方してくれることを祈っている」 「――なんか、近い将来、お前に殺されそうだ」 「お望みとあらばいつでも、自殺もしくは通り魔に見せかけてうまく惨殺してやる。これ以上捻じ曲がって生きていくのはごめんだからな」 「こっえー弟」 弟はそれ以上なんとも言わずにキッチンへ戻っていった。炊事洗濯等は一日中ぶらぶらしている弟の担当だった。オレにはちゃんと学校へ行けというくせに、自分はどうなのだ。弟はオレと違って勉学の面で落ちこぼれだった。追及するのも可哀想な気がして、そのことに触れたことは一度もなかった。 次の日もオレは飽きもせず彼女を目で追っていた。彼女は窮屈なバスの中で身を縮こめるようにしていた。真っ白い絹糸のような髪がバスの振動に合わせてさらさら揺れた。彼女とオレが並んだら結構目立つかもしれないと思った。けれど肩を並べようとは思わなかった。 見ているだけでいい。知り合いにならなくてもいい。ここから見ているだけでいい。彼女の瞳と目が合わなくても構わない。彼女がオレを知覚しなくとも結構だった。崇高な気配。オレのような下賎な輩が近づいていい存在ではないと本能的に感じているのだ。そばに寄るだけで穢してしまいそうだった。だからオレはいつも彼女のずっと後ろで息を潜めるようにじっとしている。 そして今日も彼女はいつもと同じバス停で降り、オレはいつもと同じひとつ後のバス停で降りた。そのひとつ前に降りていればこんな残酷な気持ちに襲われることはなかったのかもしれない。 いや、どちらにしろオレの行く末は決まっている。 家までの道は泥濘だった。空は茜。赤く濁って地上を染めている。もし玄関の扉を開けてもリビングの扉を開けてもトイレの扉を開けても弟の姿が見えなかったら、我が家に弟の影がオレが帰宅したときになかったらまずはじめに手を洗ってから弟を殺そうと考えて両手を開いたり閉じたりしながら暗い道を歩いた。 「別にお前のこと嫌いじゃないけど」 愛している訳でもない。 「別にオレのものじゃないけど」 誰かの薄汚れた手に触れられるのが許せない。 「別にこのポジションに不満はないけど」 もしかしたらが捨てきれない。 「別に、楽しくなんかないけど」 先を見越して喜んでいる自分がいるから。 「残念ながら、豆腐の角に頭ぶつけて死ぬのはお前だよ」 人生という人生に絶望して自ら命を絶った、そういうことにしておこう。弟は一度開きかけた唇をニヒルな笑みに変えた。言おうとしていた言葉はわからない。弟が持っている不満の数々などオレには予測不可能だった。 「まあいいか、」 唯一無二の弟のためにラビという名前をあげるから、かわりにオレはディックをもらう。 「見てくれは同じだから、誰だって気づかないさね」 |
青い鳥なんていない
(090112)
(ラビとディックのふたごぱられいる) |