( き み が 、 と て も こ わ い ) 



最低な気分だった。何が最低って、とにかくすべてにおいて最低と言うしかなかった。なんだかすごく気持ちが悪い。オレの想定し得なかった現実が押し寄せてくるのは、抗えないと知りつつも大きな波にもがき苦しむくらいの恐怖すら覚えた。オレはゆっくり息を吸い込んだ。たっぷり体内に循環させてからそれを吐き出そうと思ったのに、オレの動揺を知ってか知らずか、問題の彼に妨げられてしまった。もう一度、オレの呼吸でも止める気だったのだろうか(……最っ低)。
「お前、意味わかってる?」
たとえばこの世界にオレと彼のたったふたりしか地に足をつけていないのなら、まだ救われると思った。彼は彼で、オレはオレで、ただ関わらないまま、交わらないままいけばいいことだからだ。
「お前、そんな簡単なことじゃねえよ?」
けれど実際には、この世界には溢れ返る程の人間が存在していて、彼は彼で、オレはオレで、たったひとりで生きていくことなどあり得ない。拍動がやまない限り彼はオレではない誰かと関係を持つだろう。
「なあ、お前、本気で言ってんの?」
頷くな。首を縦に振るな。いいえと言え。首を横に振れ。
――けれど馬鹿みたいに呪文みたいに心中で唱えた希望と理想が叶えられることはなかった(ああ、やっぱりお前は)。
「あのね、」彼の薄い唇は心なし青味がかっていた。「これはただの気まぐれとか、そういう簡単な話じゃないんです」
どうしてお前はそんなに冷静でいられるのかと問い詰めるのはそれこそ簡単な話だったけれど、できなかった。理由は考えたくない。
「たとえば今この僕の立場がキミだとして、キミは一体どうするのか? 選んだ答はきっと今の僕のように、悩んで悩み抜いたものである筈だ。そうでなければ、誰も到底納得しない」
「じゃあお前の答は悩んで悩み抜いたものじゃない。何故ならオレが納得していないから」
屁理屈のような返答にも彼は困ったように笑むばかりだ。それも仕方がない、真実オレは彼の、アレンの出した答がとても理解できない。
「どうしてお前が教団を出ていかなきゃならないんさ」
「言いましたよ、」
「だって本当に、お前が、……お前が、そうであるかもわからないのに!」
「梃子でも言いたくないんだね、ラビ」
オレと彼の頭上で煌めいているのは月とか星とか、そういう綺麗なもの。それに照らされているのがオレと彼。誰の胸中を表しているのか周りの木々は風に煽られて、ともすれば彼の細い声を逃してしまいそうになる。こんな心許ない明かりでは、彼の姿も見失ってしまいそうになる。
「たった一滴でも敵の血が入っていれば、僕はどうなるかわからない。でも戦うことはひとりでもできるでしょう」
「馬鹿げてる、死にに行くようなものだ」
「キミにはそう映るかもしれないけど、僕は、生きに行くんだよ」
はっきりした口調に迷いの色は少しも滲んでいない(救えない、)。そういえば一度口にしたことは絶対に曲げない奴だったと、思い返す。そんなところで発揮してくれなくたって構わないのに、怖ろしい程、彼はその性質を歪めないのだ。オレがこんなにも最低な気分なのも、彼がこういう人間だから。
彼は孤独を感じるかもしれない。ただそれはきっと完全な孤独ではない。誰にでもやさしい彼は、誰でにもやさしい彼だから、関わるすべての誰かを助けようとするだろう。そしてオレはそれを想像して勝手に傷つくだろう。
――オレの望みはたったひとつだったのに」
聞かれたくないと願いながら口にした、矛盾さえ孕むその言葉が木々のざわめきによって掻き消されたのは偶然か否か?
「なに、聞こえなかった、」
(お前の隣にずっといるのはオレだったんだ)、なんて、それこそ馬鹿げている。



嗚咽と鶩 / 18 Apr. 2010
原作がああだからノアねたはむずかしくなった
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