( 赤目補正の有効範囲 )



それで、昨日、弟を殺し損なうのは、オレ。
そして、昨日、逃げおおせたのが、弟。
「どうしてか……」自室の天井の、いつつけたのだかまったく記憶にない染みを見つめる。「大体が、おかしかった」
オレの弟はオレに対して辛辣だった。多分オレを兄として見ていないからだ。というかそもそも血が繋がっていることすら必死で記憶から消し去ろうとしている節があると思われる。ただ弟もオレも記憶力ばかり発達しているから毎日顔を合わす限りはそれは不可能に近いのだ。だから弟は半ば諦めの気持ちでオレを苛めようとする。無駄なことではあるけれどオレは特に気にすることもないので好きなようにさせてやっている。まあまあよく言えば放任主義。悪く言えば無関心。弟はオレを十分すぎる程きらっているし、むしろ干渉されることを望んでいる筈がないのだ。
と、そういう風にオレは今までやってきたのだけれども。
「おいくそやろう」およそ兄とは遠くかけ離れた響きがドアの向こうでした。「遅刻なんて真似、みっともねえからやめろよ」
「お兄ちゃんて呼んでくれたら、行ってあげるけど。どう」
オレは内心で、昨日の今日でよく話しかけてこられるなと弟の神経の太さに驚いていた。むしろオレの方がこの部屋から出ていくのが嫌だった。
「死ねよ。オレの飯喰わないんなら二度とお前の分はつくらない」
「飯ったってお前、ただ食パンが、テーブルの上にどかっと放置されてるだけじゃんよー。飯の定義を疑うぞ、どこからが飯で、どこからが飯じゃないの」
「朝から屁理屈言ってんな。お前って本当むかつく」
「オレは別にむかつかないけどさあ、自分にー」
ぎこぎこと腰かけている椅子を軋ませる。今、我々の会話はすべてドア越しでなされている。これが兄弟の朝の風景なのだろうかと思ったけれど、もう随分前からオレは気づいている。兄弟なんてものは名ばかり。ただ血が繋がっているというだけの関係にあえて名前をつけるなら、だ。それだけだったので、オレたちは他の兄弟たちとは一線を画すようだった。つまり疑問を持つこと自体が不毛なのだ。
弟は尚もドアを隔ててオレへ向かう。
「お前が寝てる間にお前をカレーの海で溺死する夢をみさせながら現実にカレーをぶっかけて窒息死させる計画を実行することをここに宣言する。これは独立戦争である。反抗勢力は完膚なきまでに叩きのめす」
「お前じゃあこの国は引っ張っていけませんー。王座はオレのものだ。そしてお前のものも、オレのもの。オレのものは勿論、オレのもの。ジャイアニズム精神、ここにきわまれり!ってなー」
「何寝言言ってやがる。すべてお前に奪われて、もうたいしたもん持ってねえよオレは」
「弟よ、意味を理解してくれ。お前のものは、余すところなくオレのものだ」
言えば、少々の沈黙の後、弟は更に無気力な色を乗せて呟いた。
「だからさあ……オレはお前に、最初に母胎戦争で負けたんだよ」
オレは弟に聞こえないくらいの声で返す。
「……ばあか」
母胎戦争? 面白いことを言う。やはりあれはオレの弟であるのだと無意識に教えてくれたらしい。うっかり忘れかけてしまいそうなオレに。うっかりなかったことにしてしまいそうなオレに。
口では大きらいと言いながらその実それは裏返しの、つまりは天邪鬼なのだ。弟はオレのことが好きで慕いたくてしょうがないのだ。だってオレは羊水の中で弟とすべてを賭けて戦った覚えなどないのだから。弟は、そういう訳でいつまでもオレの少しでも近くにいようとする。より多く記憶に残ろうとする。
少しの情けのようなやさしさに見せようとしているのにずっと前から気づいていたけれど、それでもオレは知らないふりをしてきた。
「なあ、オレの可愛い弟よ」
「なんだ、ただのくそやろう」
呼びかければすぐに声は返ってくる。あくまで兄と呼ぶ気はさらさらないらしい。
「お前さあ、最近彼女でもできた?」今度はすぐに返ってこなかった。オレはまた残酷な気持ちを持て余してしまう。「……どーしてすぐに答えられないの。ほら、お兄ちゃんに、なんでも話してごらんなさい」
昨日のバス停で見た光景をオレは少しも忘れていない。見間違うことなどあり得ない。彼女のそばに立っていたのはオレと同じ顔をした可愛くない弟だった。弟は彼女のさらさら揺れる真っ白い髪の毛に触れた。なんの躊躇もなく手を伸ばしたのだ。家へ帰っても一日中暇している筈の弟はどこにもいなかった。
「……同じ家に暮らしているだけなのに、お前に全部報告する義務なんか、微塵だってないだろうが」
やっとドア越しに返ってきたのはそんな素っ気も愛想もない言葉だった。
「……否定しないのねー」
彼女が弟のものになっている事実はオレを一層悪へと助長させる。彼女は誰しもが触れていい存在ではない。
「なあ、お前、昨日のこと忘れた訳じゃないだろ?」
昔から愛されている古典的手法をもってオレは弟の殺人を試みた。結果はご覧のとおり、失敗してしまった訳なのだけれど。敗因は、なんてことはないオレを上回る筋力である。弟は首を絞めているオレの両手を引き剥がし、更に押し倒して上に被さるオレの腹を膝で蹴り上げてくれた。その後で弟は唇だけを動かして何かを呟いたのだ。生憎オレには聞き取れなかったけれど。
「……これ以上、オレから何を奪うっていうんだ。オレを殺してどうする? オレの命、ほしかった?」
「お前の命になんか興味ないよ」
オレがほしいと思ったのはお前という存在だ。お前を示す記号がどうしてもほしかったのだ。逆に言えばそれしかいらない。それだけあればオレには十分だった。
「あの子、あの白い子、オレずっと見てたの。バスん中。あの子がオレより一個前で降りんのくらいしか知らないけど」
「なに……あいつが、好きってことかよ」
「んな単純な言葉で片づけてくれるな。いいか、よく聞け? あの子はお前みたいなのが気安く触れていいもんじゃないの。お前、あの子を穢すな。あの子に近寄るな。じゃないとオレ、腹立って腹立って、おかしな気持ちなまま、お前を殺しちゃうだろ」
天井の染みが広がっているみたいだ、と思った。オレの心は。
「狂ってるよ、お前」
あのときと同じだった、それは。唇の動きがまったく同一だった。あのときと同じように、けれどはっきりと聞こえる声音で弟はそう呟いた。
「イエス、否定はしない。しかし弟よ、お前もその血を引いているのだよ」
まだら模様の染色を止める術を残念ながらオレは知らない。更に言えばその上から重ね塗る術もオレは知らない。弟はそれでも弟という位置から抜け出せないらしくいつだってもがいているように見える。自分で自分の首を絞めているようにも見える。
兄弟なんてのは案外こんなものなのかもしれない。そう思って、いや、違うか、と頭を振った。
「もう一度だけ言う、」
唯一無二の弟はそんな風に前置いてから、殊更静かに吐き出した。
「狂ってるよ、お前」







せせこましさが
振り分ける



(100817)
(青い鳥の続きみたいな……)
(結局殺してませんでした彼はそれでも無意識に兄だったんです)

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