明日のない想像
後悔した夜
戻らない朝
届かない声
誰かが口を塞いだ
ならばあなたはどこへ
ぼくはどこに
(たぶん、永遠なんて存在しない)
アプリオリと
アポステリオリの












じとりとした手のひらを握り締めた。響き渡る甲高い踏切音や目の前に下がる遮断桿、流れ落ちる汗すらもどこか遠く感じる。日が落ちて何時間も経っているくせに、滝のような雨が降ったくせに、温度は一向に下がらない。これだから夏は嫌いなんだ――いつかあなたが言っていた言葉を思い出したら、じわりと滲んだ汗がこめかみを滑り落ちていった。





あなたに出会ったのはただの偶然だった。
悪夢みたいな場所から逃げ出した際に盗んできたなけなしの金で、行けるところまで行こうと人を乗せて動く電車というものに飛び乗るつもりだったのに、そのときの僕は切符の買い方を知らなかった。というよりも乗り方すら知らなかった、という方が正しいだろうか。改札を通れず不審な顔をする駅員に追い返された僕は、券売所でぼんやりと突っ立っているしかなかった。買い方を教わることもできなかった。
大人は平気で嘘を吐き、僕を縛りつけるためならなんだってする。この世で一番信用ならない生きものだと僕は思い知らされていた。折角決死の思いで逃げてきたのに、数キロも離れることのないままあの家へ連れ戻される。いや、むしろ駅までこられたことが既に奇跡だったのだ。もう一度あの手が僕を捕らえるのを待つよりほかない、そう思った矢先だった。
――坊主、どこまで行きたいんだ?」
着ている衣服もぼろぼろで生傷の痛々しい子供に、あなただけが近寄ってきた。身体が大きく、背中に垂れた赤髪と銜え煙草、僕が警戒心を持つには十分すぎる男だった。それに何より僕の嫌いな大人――それがあなただった。
「電車に乗りてえなら、切符を買わんと乗れんぞ」
僕はあなたの声など聞こえていないように振舞った。それなのにあなたは僕の頭を鷲掴みにして券売機の真ん前まで無理に引きずっていった。何をするのかと文句のひとつでも言ってやりたかったけれど、敵意より恐怖が先立った。また僕を狭い部屋に閉じ込めていた男のように暴力を振るわれるのではないかと思うととてつもなくおそろしく、抵抗らしい抵抗もできなかった。
「金入れて、行きたいところまでの金額を押すだけだ」
僕には行きたいところなんてなかった。ただここではないどこか、そしてずっと遠くまで、そのふたつが満たされれば僕は満足だった。その辿り着いた先で生きていけるだろうかなんていう不安に惑うことはなかった。あれより生死に怯える場所なんてそうそうある筈がない。僕は知っていた。あそこは、地獄と等しい。
「……おい、さっさと買え。後ろに並んでるだろうが」
あなたの言葉からして、より遠い場所に行くためにはより金がかかると気づいた。僕はあるだけの金を投下した。金の数え方はなんとなく理解していて、それと近い数字を震える指で押した。出てきた切符の使い方もすべてあなたが教えてくれた。そうしてやっと僕は改札を抜け、ここではないどこかへ連れて行ってくれるだろう電車に、――ああ、あなたがなけなしのやさしさを振るってくれなければ、僕は今生きてはいなかったかもしれない。
なけなしのやさしさ、それはつまり僕の大嫌いな暴力だ。裸足で駅まで駆けてきた所為だろうけれど、僕の足の裏はずたずたで血に塗れていて、もしかすると男はその血を辿ってきたのではないかと思った。見つけた、と空気を震わせて男は怒鳴った。
「見つけた、見つけた、俺の愛しい子――
男はそう呟きながら僕のもとへ走り寄ってきた。僕はお前の子ではないし嘘を吐くならもっとましな嘘を吐け、そう言い返してやりたかったけれど、そんなことできる訳がなかった。あなたに対するおそれは一瞬でどこかへ吹っ飛んだ。男に対してのおそれも湧き上がってこなかった。やっと地獄の巣穴から這い上がったと思ったのに、僕はまた逆戻りだ――(大人はなんて汚い)。
「おい、てめえ、本当にこいつの父親か?」
近づく男にあなたは声をかけた。男は何か訝しむように眉根を寄せたけれど、すぐに表情を崩し偽った笑顔を貼りつけた。それがものすごく気持ちが悪かったのと、どうしようもないこれからの現実に吐き気がした。
「ええ、本当に、この子の父親ですが――それが何か?」
「どうにも信用ならねえんだが……親なら、こんな状態で歩かせるか?」あなたはちらりと僕を見た。おそらく血だらけの足以外にも身体中の痣が気になったのだろう。「こいつの傷、てめえがやったんじゃねえのか」
「はは、何を言ってるんです。さあアレン、帰るよ、おいで」
男の目には強烈な劣情の色が浮かんでいた。この男とあの巣へ戻れば、今まで以上の苦痛を与えられるだろうことは瞬時に予想できた。ただそれでも僕がこの男から逃れられる可能性は零に等しく、だから僕は頭を垂れるしかなかったのだけれど――それより早くあなたの拳が男の左頬を打った。男はそのまま数歩吹っ飛び、何がなんだかわからない様子で暫く呆然としていた。それは僕も同じだった。そして漸く自分が殴られたのだと知ると、男はまさに鬼のような形相であなたを睨んだ。僕は今でもそのときの男の表情が忘れられない。
「おい、俺とくるかあいつと戻るか、好きな方を選べ。ただし間違うなよ、好きな方ってのは、お前が生きていけそうな方だ」
あなたは僕にとても惨い選択をさせた。男とあなた、どちらを選んだにしても恐怖がつきまとってくることは明白だった。僕は大人が嫌いで、けれど僕の知る大人という存在はほんの一部でしかないのかもしれないと思いはじめていたのも事実だった。僕は際限なくつづく暴戻の日々から抜け出したかった。だから、僕はあなたの手を自らの意思で引いた。
「決まりだ」にやりとあなたは笑みを浮かべた。男への侮蔑も込められていたかもしれない。「この坊主は俺がもらう」
「待て、貴様、そんなことをすればどうなるか――
「どうもならん。どう見てもこいつはてめえの子じゃねえだろ。てことは、可哀想な子供を救った俺は、感謝されるべき側の人間ってことだ」
男が改札を抜けようとする前に、あなたは僕を横抱きにしてホームまで走った。タイミングよく滑り込んできた電車に飛び乗ると、男が追いかけてくるのが窓から見えた。酷い暴言と思いつく限りの卑俗な言葉を吐いて――そして最後に、確かに、こう言ったのだ。いつかお前を迎えに行くからな、と。





あの男に捕らえられていた忌々しい記憶は、いつまでも鮮明に僕を苛む。
僕が本当の両親の顔を思い出せないのはもういい。彼らがまともに僕を育ててくれた記憶はない。酒瓶がそこかしこに広がり、煙草の煙がいつも蔓延しているような環境で生きてこられたのは奇跡としか言いようがないし、そんな僕が攫われたところで彼らもなんとも思わなかっただろう。愛されていなかった、子供ながらに感じていたことだ。
ただアルコール臭と紫煙にまみれていた方が、僕は余程しあわせだったに違いない。男に連れ去られた僕を待っていたのはたった六畳半の、
(……ああ、)





何がどうなっているのかよくわからなかったけれど、あなたについて見知らぬ駅で僕は降りた。見よう見真似で改札を抜けた。あなたは僕の方を振り返り、再度尋ねた。本当に俺でよかったのか、と。よかったも何もあの場ではあなたを選ぶしかなかった。僕は大人が嫌いで信用の対象にはならないと思っていたけれど、その大人に庇護されなければ生きていけないということも知っていたのだ。あなたである必要はない、それでもあなたしか頼りにできない――僕は返事のかわりに首を縦に振った。
「……ずっと気になっていたんだが……お前、口はきけないのか」
今度は首を横に振った。喋ることができない訳ではなかった。
「喋りたくないってか? 面倒くせえ奴だな」
喋ることができない訳ではなかったけれど、男が僕に喋らないことを強要した。その習慣が深く根づいてしまっていて、今更声を出すのははばかられた。何よりまだ僕に声が残っているのかも疑問だった。けれどあなたは僕に喋ることを強要しなかった。この違いは、大きかった。
それから僕はあなたのそばで毎日を過ごしはじめた。あなたは何も知らない僕に色々なことを教えてくれた。言葉の意味やものの名前、日常生活におけるルールや死の概念まで、生きるために必要なありとあらゆる知識を与えてくれた。それだけではなく、あなたはぶっきらぼうに振る舞いながらも隠すようにやさしさもくれた。実の両親でも、もちろんあの男でもしてくれなかったことをあなたはしてくれた。一緒にあたたかいご飯を食べてくれたり、一緒にお風呂に入ってくれたり、一緒に同じベッドで眠ってくれたり、僕が悪い夢にうなされているときは特別だと言って抱き締めてくれたりした。それだから僕はあなたのことを本当の父親のように思い込んでしまうこともしばしばだった。男のことを忘れる日など一日としてなかったけれど、それでもずっと平穏な日々を手に入れることができたのだと錯覚した。いつまでつづくかわからない、先の見えない不確かな平和――僕はそれでも構わなかった。今が幸福ならそれでいいと思っていた。あなたを大切に思うなら一刻も早くあなたの前から去るべきだったのに、僕はそれにしがみついてしまったのだ。





そして振りかかる最大の不幸。僕の最大の罪が浮き彫りになった夜。きつく握り締めた両手が、僅かに震えているのがわかる。僕の両手はもはや真っ黒だった。確かに暑いのに鳥肌が立っていて、心臓が忙しない。足元から何か形のない黒いものに侵食されていく感覚に僕は身を強ばらせた。





そのときはすぐにやってきた。足音すら立てずにひそりと息を潜ませて、僕らの背後にゆっくりと近づいていた。僕はもとよりそれに気づけなかったし、あなたもおそらく自分を過信していた。
突発的に降り出した豪雨が弱まった間に、あなたと僕は今夜の夕飯の買い出しに出かけた。折角の誕生日なのだから何か食べに行かなくてもいいのかと紙に書いて尋ねれば、あなたは誕生日を祝われる歳でもないと答えた。
「最近はお前がつくるからご無沙汰だが、俺は自分で料理なんぞしたこともねえんだよ。外食ばっかだったからな、かわりにカロリーの高いコンビニ弁当を食う」
何がどうかわりになのかまったくわからなかったけれど、あなたがそれでいいと言うならば僕があれこれ口を出すことでもなかった。
「しかしお前、なんでまた俺の誕生日なんぞ知ってる? お前に言ったことなかっただろう」
僕はあなたの免許証を勝手に盗み見たことを告白した。だってあなたときたら僕に本名も生年月日も何もかも教えてくれなかったのだ。単純に酔狂な人なのか、それとも違う理由からなのか、僕を養ってくれている人の情報を少しでも得たいと思うのは当然だろう。あの男に関しては何を知ることも一切できなかったけれど。
家からコンビニまで徒歩で行ける距離で、かつそこに駐車すると出すのがとても面倒だということから僕とあなたはふたつ傘を差して家を出た。僕があなたに引き取られて既に五年は経過していたけれど、相変わらず僕は声を発したりしなかった。はじめから口がきけない体で過ごしてきた訳だから、今更何か喋ったりするのも気恥ずかしかった。だからあなたと並んで歩いてもまったく会話を交わさなかった。不思議なのは、それでもあなたは僕の言いたいことがわかることだった。紙に書いてすらいないのにまるで僕の心を読んでいるかのように、あなたはひとりで言葉を紡いでいった。はたから見ればひとりごとの酷い大人だっただろう。
コンビニのオレンジ色の籠がふたつ山盛りになる程、あなたは弁当やら惣菜やらデザートやら、何から何まで突っ込んだ。店員が明らかに驚いた顔でこちらを見て、あなたは逆に何食わぬ顔でそれをレジに置いた。弾き出された金額は目玉が飛び出るくらいには衝撃的だったけれど、あなたにとってそれは端金らしく、釣りはいらないと言って多く金を渡してさえいた。
あなたはふたつ、僕もふたつ、両手にぎっしりと詰まったレジ袋を抱えて帰路に着こうとした。雨はまだ止んでいないどころか強まってさえいて、傘を差して帰るのが困難だった。どうするのかとあなたに目で問うた。やはりこの視線だけで、あなたは僕が何を言いたいのかわかったらしかった。
「……お前と相合い傘、か? 馬鹿、冗談だよ。そんな趣味ねえし、第一これじゃ傘なんぞ意味ない」
僕は確かにと頷いた。雨粒は風で横降りになっていて、傘を差したところで濡れるのには変わりなかった。
「仕方ねえ、」
あなたは観念したように咥えていた煙草の火を消してコンビニのごみ箱に投げ入れた。ここには店で買った商品から出るごみだけしか捨ててはいけないと書いてあるのにと思っていると、わかってるよと言われた。
「煙草一本くらい多めに見てくれるっての。おら、走って帰るぞ。中身濡らしたりぐっちゃにしてみろ、お前をベランダから釣り下げてやる」
あなたはやると言ったら必ずやる人間だと痛感していたので、僕は何度も頭を縦に降った。そしてコンビニの軒下で傘を畳み、家まで全速力で僕らは駆け出した――正直、ここからのことはあまりよく覚えていない。曖昧で、朦朧とした記憶しかない。
視界は悪かった。なんと言ってもあの雨が僕らの視界をとことん遮っていた。だから近づいてくる男もわからなかった。男が何を手にしていたのかも見えなかった。あなたもおそらく気づいていなかっただろうし、まさかあの男が僕らの居場所を突き止めて報復してくる可能性を考えたとしても、あのときのようになんとでもなると思っていただろう。
平穏が崩れ去るときはこんなにも呆気ないものなのだと、この身をもって思い知った。そしてそれをありがた迷惑にも思い知らせてくれたのは、数年前僕を閉じ込めて逃さなかった男だった。外に出て色々なものを知った今ならわかる、男は僕を愛玩動物として育てていたのだ。飯や寝床や衣服を与え、風呂に入れ身なりを清潔にさせ、撫で回し細い鎖で繋ぎとめる――はじめのうちだけは。変わったのはそれから暫くしてのことだ。男は、僕を痛めつけるようになった。
ある日苛々とした様子で男は帰ってきた。いつもならばそのまま食べものを差し出す筈だったその手は僕の頬を殴っていった。それだけでは飽き足らず、男は殴られて蹲る僕の横腹を何度も蹴り飛ばした。内蔵が歪んで痛みと気持ち悪さが僕を襲った。耐え切れず嘔吐したところで男は暴行を止めてくれはしなかった。ちゃんとした思考の確立されていなかったあの頃の僕は、甘んじてそれを受け入れるしかなかった。恨めしいだとか憎いだとか、そういう感情は少しも芽生えなかった。おそらく男は昼の世界がうまく回らなくなったのだろう。そして僕に八つ当たってストレスを発散していたに違いない。僕も暫くはそれに耐え続けていたけれど、とうとう男から逃げ出すことを決意した。このままでは死んでしまうと自分の吐き出した血溜まりを見ながら思った。死というものを理解していた訳ではなかった。ただ、死というものの存在を感じ取った。爪先から冷えていくような、そんな感覚だった。
雨が僕をしたたかに濡らす。こんな雨の中走ったものだから当然何から何までずぶ濡れだった。道路に川ができていてそれを心許ない街灯が照らしていた。気がついたらあなたの血も一緒になって流れていっていた。何が起こったのかわからなかった。心拍数が跳ね上がり呼吸が苦しくなった。両手から力が抜けて濡らすなと言われていたビニール袋を地面に落としてしまった。言いつけを守れなかった。僕は悪い子だ。悪い子で、だから、殴られても当然で、それは、お仕置きで、
「いつかお前を迎えに行くと、言っただろう?」
男の薄い唇が弧を描いた。漏れたのはぞっとするような静音。その足元にあなたが転がっていた。訳がわからなかった。あなたはぴくりとも動かない。男の手に鈍く光る銀色の物体。あなたがどこか刺されたか切られたのだと知る。苦しい、うまく息ができない、吸えない、吐けない、動けない、もう、ああ、
車に轢かれて動かなくなってしまった猫を抱く僕に、どんなに会いたくてももう二度と会えないこと、それが死だと、そう教えてくれたのは、あなただ。
「あっぁああああああぁあああああああああああああああああああぁああああああぁあぁあぁあああああああああああああぁあぁあぁあああぁああああああああぁああぁああああああああぁああああああぁあぁあああああああああああああああああ!!」
あなたのおかげで僕はここまで生き延びられたのに、あなたは僕の所為でその身を破滅へと追いやられた。僕があなたを死へ追い込んだ。それを罪と言わずしてなんと言うのだ。感謝などできよう筈もない。あのとき助けてくれてありがとうなどと、口が裂けてもその言葉を僕は口にすべきではない。
赦されない。
赦されない。

赦されない。


「おまえが、しね」

雨が和らぎはじめる。




(声を上げて泣けばよかった、叫べばよかった、主張すればよかった、今更そんな簡単なことに気がついた、あなたはどうしたって戻らないのに)
僕の耳を劈く踏切の音といつまで経っても上がらない黒黄のバー。夜の闇に紛れていつしか僕は本当に声を失う。ここで生きている意味も、もう見出すことができない。交互に点滅するふたつの赤いランプがいやに視界にちらついた。
(僕はあなたを愛していたんだ、)
悪い大人に惹かれた馬鹿な子供が線路の真上で立ち往生する。明滅する光。近づく鉄の塊。世界から音が遮断する。世界から僕が遮断される。さよならか、いや、それとも、












(20110731/The worst birthday.)
師匠ハッピーバースデー。暑苦しい夜に、暑苦しいものを書いていました。
師匠はちょっと刺されたくらいじゃ死なないので死んでません。死ねたはつまり、男のことです。
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