( 見よ、わたしはあなたの誉れとなる。 )
イリジウム






――とんでもねー夢みた……」謎の背骨の痛みに背中を支えながら身体を起こすと、どうやら自分は堅い床の上で意識を飛ばしていたのだと知る。「んだよ……まさかこれが初夢か……?」
夢の内容はこうだ。正月早々、顔も覚えていない身内が明らかに日本人ではない子供を突然連れてきた挙句、お前が最適だろうということになったとか一応お前の縁者だとか必要な書類は全部この封筒に入っているとか一言二言残して強引にその子供を置いていくという、今どきドラマでも流行らないような破天荒すぎるもの。俺の事情など明らかに無視な上、というかお前ら誰だよそしてこいつは誰だよふざけんな糞じじいめが、と盛大に罵ってやりたいのだが、いかんせん徹夜明けの身体に力が入らず、そのまま俺は失神するがごとく睡魔に導かれ――そこまで思い出したところで、視界の端に、妙に白いものが入り込んだような、気が、
「夢じゃ……ねーのか、よ……」
そして残念なことに、気の所為でも、ない。思わず手のひらで額を押さえつけ、俺は天井を仰ぐ。十くらいのガキが確かにそこにいる。
どこからどう繋がっているのかわからない縁故だし、というより本当に血縁関係にあるのかすらあやしいし、――いや、そもそも、何故俺だ。二十歳そこそこで馬鹿当たりしたのはもう七、八年も前の話で、その後の売れ行きもぱっとしない俺の名が何故上がる。こんな八畳間のボロアパートでその日暮らし状態の俺が最適だという結論に何故なる。一時期舞い込んだ巨額の印税も、食費やら光熱費やら、借金の完済に丸ごと当ててしまった。金を無心されたときも、もう手元に金がないことはきちんと告げた筈だ。電話口で思いきり吐かれた溜息と、その後に吐き捨てられた役立たず発言を俺は忘れちゃいない。つまり、俺は厄介者を体よく押しつけられたのだ。
「……チビ」その厄介者は、居間の片隅で膝を抱え座り込んでいる。「お前、そこでずっとそうしてるつもりか?」
(……いや、)、そうさせているのは俺か。俺が訳わからん状況なのだから、こいつはもっと訳がわからんだろう。
老人のような白髪に、子供らしからぬ生気の失せた顔、そうやって黙り込んだまま身動きひとつしないガキを連れてきたのは、もう何年も顔を合わせていない親族だった。昔から周りに反発してきた俺だが、安定とは無縁の職業に就いたとき、とうとう縁を切られたと思っていたのはもしかすると俺だけだったのかもしれない――なんて考える俺ではない。厄介者同士仲よく暮らせるだろうと笑っていたじじいどもを、今すぐ墓石の下に突っ込んでやりたいくらいには憤慨している。
「……お前、どこの血入ってんだよ。名前は? 歳はいくつだ?」
昔から公言しているとおり、俺は子供が大がつく程嫌いだ。よたよたの足取りでうろちょろしているかと思えばぎゃあぎゃあ騒ぎ出し、しかも一度泣き出すとなかなか泣き止まない。そういうのを見ると本気で殴り倒したくなってくるくらいには、嫌いだ。しかし俺は既に成人している世間一般でいうところの大人だ。譲歩してやるのは常識的に考えてこちらだろうと、俺は隅っこで微動だにしないガキの前に腰を下ろす。明らかに日本人ではない顔立ちだが、まさか日本語が通じないということはあるまい、と思ったのだが。
「おい、聞いてんのか」
返事もなければ目も合わせようとしないのに苛き、無理矢理頭を鷲掴もうと手を伸ばした途端、か細い悲鳴が漏れる。次いで声を震わせながら発したのは、多分、許してくださいという意味の英語だった。どうやら声を出せないのではないらしいが、ここで断っておくと、俺は高校英語で挫折した身だ。日本語という立派な語学があるのだから外国語などやる気にならない、というのを何度も教師らに述べてきたがそれはまあ建前で、要するに英語などというものは昔から俺の理解を超えた言語だった。
「めんどくせーな……」 こうなったらおそらく何も喋らないだろうと立ち上がる際に舌打ちを零すと、またしても怯えられる。
(何が仲よくできるだろうだ、あのハゲどもが!)
大体、タイミングが悪すぎる。細々とつづけてる仕事がうまく進まず三徹中だったのをまさか狙ったのでもないだろうが、意識朦朧としていた俺に厚い茶封筒と子供ひとり押しつけてさっさと帰っていった糞じじいどもはまったく本物の糞である。墓石にはとりあえず糞であると刻んでやろう。それにしても何がなんだかわからなかったがそのときの俺は既に限界だった訳で、すぐに追いかけてどうこうする気力もなく、そのまま倒れ込むように眠りについてしまった訳で――俺はこのチビのことなどまったく、少しも、これっぽっちも知らされていないのだ。
本人に訊くよりも早いだろうと、俺は玄関に放り出したままだった封筒を開く。中には数枚の書類やら保険証やら、ひととおり同封されていたのだが、
「……縁者って……姻戚って意味かよ……」
母方の親戚が身寄りのない外国の男と結婚して生まれたのがこのガキらしく――はっきり言って俺とはなんら関係がない。
一ヶ月前に父親が、それからまもなく母親がおっ死んだようだが、それでも厄介払いのように俺に預けようとするあたり、疎ましく思われているのは明白だった。おそらく父親も同じように肩身の狭い生活を送っていたのだろうことはなんとなく察することができる。
「お前も大変だったんだろうが、」粗方目を通した後で、俺はテーブルの上に封筒と書類を放る。「俺も俺で、生きていくのがやっとなんだよ。俺は、しがない物書きだからな。……わかんねえか」
アレン・ウォーカー、父親は英国人、歳は十一になったばかり、忌々しいのはこの後だ。
「……あなたも、ぼくを、すてますか」
銀色と形容するのがいいだろうか、あまりにも曇りのない目で見つめられると視線を逸らしたくなる。濁りに濁ったあのハゲどもとは大違いだなとなんとはなしに思いながら、こっちへこいと相変わらず縮こまったままのガキを呼び寄せる。はじめは躊躇していたが、眉尻を下げた明らかに怯えている表情でのろのろと近づいてくるその姿が、俺のなけなしの良心を刺激する。
「日本語使えんなら、最初からそうやって話せっつの」
傷痕が縦に走った白い頬を、抓り上げるように触れる。この傷はいつ、どこで、どのようにできたのか、そんな知りたくもない情報をきちんと載せているあたり、食えない古狸は余程俺を怒らせたいらしい。
「お前、母親のことどう思ってんだ?」
小さく身体を震わせながら、目の前の十一の子供は、それでも俺を直視しつづける。
「……おかあさんは、……ぼくを、あいしてくれました。ぼくも、おかあさんが、だいすきです」
「こんなになってもか」
「ぼくが、いいこじゃないからだって、おかあさんはいいました」
母親が日本人とはいえ、両親のもとではあまり日本語で会話していなかったのだろう。不慣れな言語で、子供はなおもゆっくりと言葉を紡ぐ。
「おかあさんは、おとうさんがしんでから、ちょっとこわくなったけど、でも、ほんとうは、やさしくて、」
「……わかったよ、俺が悪かった、もういい」
「ぼくが、おかずのこすから、うまく、しゃべれないから、おかあさん、すごくおこるの」長い睫毛を掻い潜るように、色のない水滴が零れ落ちる。「でも、ぼくのこと、せかいじゅうで、いちばんだいすきって、ほっぺに、ちゅって、」
「もういいって……」もういい、と繰り返し言いながら、俺は頬に当てていた手を背中に回す。「お前が母さん大好きなのはわかったから」
なんと言うんだったか、こういうの。親から虐待されていた子供は、けれど親を変わらず愛するだかなんだか――このガキの言葉にも、おそらく嘘はないのだろう。しゃくりあげる子供をあやす術など当然俺は心得ていないが、見よう見真似というやつだ。ゆっくりと背中をさすってやりながら俺はどこか諦めを感じていた。この目の前の弱ったらしい生きものを捨て置ける人間は、さすがに鬼畜と言わざるを得ない。
「俺と……ここで暮らすか?」
不慮の事故で夫を亡くした妻は精神を病み、最愛の子供に暴力を振るうようになった、らしい。それから暫くして妻は心中を謀ったのだが、運がいいのか悪いのかこの子供だけが助かった。長袖を着ているから見えないが、頬だけではなくきっと体中に暴行の痕はある。厄介払いだと思ったのはここからだ。なんとも重い人生を背負わせたものだ、と会ったこともないチビの母親に辟易する。
「ここへきたのも何かの縁だろうし、お前が望むように、俺はしてやりたい」
子供嫌いの俺だが、腫れもの扱いされてきた過去からとてもひとごととは思えないのだから仕方がない。それにこの不幸を一緒くたに背負ったような子供を見捨てて置ける程、人間として腐ってはいないつもりだ。――となんだかんだ自分の行動を正当化するようなことばかり繰り返しているが、要するにあのハゲた糞じじいどもと同類になりたくないだけだ。単純に。
「……だって、たいへんって、」
「さっきはああ言ったが、金なら親戚連中から搾り取れるだけ搾り取るし、まあ平気だろ。だからお前が決めろ」
「え、う、」
泣き止みはしたが、さすがに十の子供に身の振り方を決めさせるのは酷だっただろうか、またうんともすんとも言わなくなってしまった。
「……しゃーねえな……」あまり選択の幅を狭めるようなことはしたくはない。「じゃあ、ここにいたくないならそう言え。後は俺が、なるたけお前のいいようにする」
「ここ、に……」
「意味はわかるな?」
親に振り回されて生きていくなどまっぴらだった。俺は俺の生きたいように生きるのだと、勘当を承知で家を出た。好きなことをして食っていくことがどれだけ大変かわからなかった訳ではないが、喧しく自分が決めたことやりたいことに逐一口出しされ、親のいいように生きていくのがこの先ずっとつづくのだと思うといても立ってもいられなくなったのだ。
「大事なことだ。今俺がここにこうしてあるのも俺自身が決めたことのように、お前も自分で選ぶんだ」他人の指図の上にでき上がった人生など、楽しくもなんともない。俺はそれを実感している。「……この家で、俺とふたりで暮らすのは、嫌か」 チビは俺の腕に躊躇いがちに手を乗せる。袖口から覗く手首はあまりにも肉がついておらず、人間の身体というのはここまで痩せ細ることができるのだとおそろしくなる。
「……あ、の……」小さなこの子供の態度からもしかすると、自分の意見を主張することさえ阻まれていたのかもしれない。「ぼくは……ここに、いたい……」
けれど嫌かそうでないかだけ言ってくれればいいと思っていたのに、搾り出されたのはしっかりとした自己主張だった。
「ここに、おいて、ください」
たったそれだけだが、たったそれだけで十分だった。



(20120210/何故正月とか言ってるかと言うと、元旦に上げたかったけど間に合わなかったやつを今頃発掘したからですね/歳の差というかおっさん×少女が好きで書いたんですが、到底一話でやれる内容じゃありませんでした。詰めすぎ/設定として、アレンは母親の言いつけで頑張って日本語を話そうとするものの、感情が高ぶったときとか反射的につい英語が出ちゃうというのを考えていましたが、残念ながらそこまで辿りつけず/成長したらきっと関係も変わるはず)
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