コールタールの夜













「あんまり、うちの子を誘惑しないでほしいな」
ゆうわく、とラビは口の中でそっと繰り返した。突如現れた上から下までを黒い衣装で包み、どこか気だるげな空気を纏う男は、そこで自分がまだ名乗り出ていないことに気づいたようだ。にこりと笑って頭上に乗せたシルクハットを掴むと、それを腕に抱えて軽く礼をする。
「名乗らないなんてスマートじゃないね? いけないいけない、家族からどやされるところだった。申し遅れた、オレはノアだよ」
「……それ、名前じゃないじゃん」
ラビの的確でしかない一言にも、男は「こっまかいな、」と眉をひそめるだけだ。
「なんであいつもこんなのを好きになったんだか。オレの方がお前より全然いいと思わない? ていうか、オレの方が顔もいいし性格もいいしさ、絶対あっちの方も相性ばっちりだと思うんだよ、お前なんかより!」
ああ嘆かわしい、と舞台俳優顔負けの酔いしれた手振りで男は空を仰ぎ見る。ラビはといえば、まるで面識のない敵――そう、この男は敵だ。その敵に何故こうも蔑まれなければならないのか、そんな謂れはないと汚い言葉で逆に罵ってやりたいくらいだった。けれどラビはその先を考え、その口を閉じた。不用意なことを言って逆上でもされれば自分はどうなることかわからない。ノア、とは、下手に手を出してはならないと散々刷り込まれてきた程の、それくらいに厄介な存在だった。
――お前、やっぱ邪魔だわ」
不意に、男が口を開く。その唇の動きを追っているさなかで、ラビはあろうことか男の姿を見失った。ひた、と首にかかる微かな圧力に、ラビは無意識に自身の身体が強張るのがわかった。男の気配が背後にある。いつの間にか。そう言うのが妥当だった。
「なんとか言えって。ん?」
ただ指を頸動脈に添えられているだけなのに、ラビの心臓は最悪の結末を想像し収縮する。
「……だって、オレは、なんのことだかさっぱり、」
「あっはっは、そうかなる程、どうやらきみは痛いのがお好きらしいな」
ぎり、と更なる負荷を加えられたとき、何か身の内に侵食されたような、入り込まれたような、得体の知れない気味の悪さを感じた。本能でこいつはやばい、と察する。けれど身動きすることは憚られた。
「お前、うちの、……白いの、知ってるだろ?」
「知らねえよ、そんなやつ……大体、ノアと出くわしたのも、お前がはじめてさ」
「じゃあなんであいつはお前に惚れたんだ。お前が何かしたとしか思えねえだろう」
これだ。これがラビにはわからない。まったく身に覚えのないことを責められても、ただ知らないと言うしかない。
「な、ほんと、言ってることがよくわからないんだけど。オレはノアと会ったこともなかったし、その、白い奴ってのも知らない。人違いじゃねえの?」
そんな訳ねえだろ、と憎悪という憎悪を押し殺したような男の声が鼓膜に伝わる。
「エクソシストで、隻眼で、赤毛の若い男。これは誰だ」
「……オレっすね」隻眼で赤毛の男、だけならばまだ選択肢はあったが、生憎若年と括られればそれまでだ。「でも、やっぱ、オレはそんなノア知らない」
「……アレンという名に聞き覚えは?」
肌に触れているからか、すぐそばに近づいているからか、ラビの僅かな変化も男は見逃しはしなかった。
「オレってね、自分が吐くならいいけど、嘘吐かれるのは大嫌いなの」
「わか、った」考えるより先に、というのはこういうことだ。ラビはほとんど反射的にそう答えた。「けど、嘘吐いた訳じゃ、ない。あれは――オレは、人間だと、ばかり、」
「人間さ」
男はそっとラビの首筋から手を離す。
「お前らより遺伝子が優秀なだけで、オレたちは人間だよ」
その声色に何か哀愁のようなものが込められていたような気がして、ラビはおそるおそる振り返る。男は、けれど飄々とした顔で笑っているだけだった。
「勿論、あいつもそう。なあ、なのにどうして出会っちゃったの?」
「それは、」
ラビはたった数日前の記憶を遡る。任務先で訪れた街角のパン屋、焼きたての香ばしいにおいに惹かれるようにエクソシストのラビとノアのアレンは出会った。店先でほんの少しだけ言葉を交わしただけだった。何よりアレンは男でラビもまたしかり、まさか恋の対象にされるなど夢にも思わない。けれどおそらく、男の言いたいことはそういうことではないのだろう。もっと、抽象的な意味だ。言葉に詰まるラビを尻目に、男は盛大に溜息を吐く。
「ま、いっか。眼帯くん、お前を殺せばそれで済むもんな?」
にこりと微笑んでみせる男にラビは怖気さえ抱いた。
「……気のせい、ではない訳」
「はっきりお前に恋をしたって、面と向かって言われたオレに訊くのか?」
「……は、」
「お前の脳味噌は鈴かよ。話の流れでわかんだろ」
オレの脳味噌がそんなに軽い訳ねえだろと思いつつ、ラビは「いや、そうじゃなくて、」とどうにか否定を挟む。
「だってオレ、あいつに会ったの一回だけだぜ?」
「それが?」
「それが、って……」
「たった一回だろうが、お前にオレの家族は恋しちまったんだよ。だから、」
ああ、ノアというものは、あやしい美しさがあるのかもしれない。ラビは耽美な男の笑みから目が離せなかった。
「死んでくれ」





February 27, 2012
最近ラビが本当にかわいくてこうなった

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