かすりもしない傷を乞い、えらべもしない痕を請う。 (じゃあオレは、溺れ死ぬことを、選ぼうか) 孔雀の王冠
あれんくんがしんだよ。そう聞かされて、けれどオレは彼女が何を言っているのか理解するまでに相当の時間を要した。アレンくんが死んだよ。リナリーは瞳に涙すら滲ませず、淡々と、いっそ冷たくも見えるその表情で、到底信じられないことをオレに向けて言い放った。だから当然、馬鹿なことを言ってるなよ、とオレは反論した。 「アレンが死んだ訳ないだろ、だって現にアレンはここにいるんだぜ」 「やめて、そういう冗談好きじゃない」 「それはこっちの台詞さ」 そう、アレンは今もオレの隣にいた。オレの隣で、今もなお、変わらない笑顔を浮かべている。これが現実でないならばなんだと言うのだ。まやかしか。まぼろしか。いずれにせよ、非現実的すぎる。 「リナリー、四月なんてまだ先だぞ。ていうかそんな嘘、全然笑えねえからやめてくれ」 「認めたくないのはわかるけど、これは事実よ。アレンくんは死んだの。あなただってわかってるでしょう、血まみれのアレンくんを抱えて教団まで連れて帰ってきたのはラビじゃない」 「――なにそれ」は、とオレは笑い飛ばす。「そんなの、オレの記憶の中にない」 ぴくりとリナリーの片眉が僅かに跳ねた。オレの記憶は絶対だと、言外にそう含めたのが彼女にも伝わったのだろう。あっそう、と忌々しげに顔が歪んだのも、おそらくそれに腹を立てた所為だ。 「そう思いたいなら――勝手にそう思ってれば」 リナリーは悪意と底抜けの力を込めてオレの部屋のドアを閉めていった。けたたましい音に反射的に耳を塞ぐも、もう遅い。 「……なんだあ、あいつ。意味わっかんね」 なあ、と同意を求めるようにオレはすぐそばにいる筈のアレンに視線を走らせたが、アレンはそこにはいなかった。 「……アレン?」 慌てて紙類で溢れ返った室内を見渡すも、どこにもアレンの影はない。喉が鳴る。口腔はからからに乾いている。次の瞬間には部屋を飛び出すオレがいた。長い回廊を駆け抜ける途中で先程勝手に怒って出ていったリナリーを追い越した。背後からラビ、と驚いたような声がしたがそんなものに耳を傾けている余裕はオレにはない。何を考えるでもなくオレの足はまっすぐにアレンの部屋に向かった。アレン、と半ば叫ぶように部屋に押し入れば――ベッドに横たわる、白い少年が、確かにそこにいる。オレはほっと安堵の息を吐き、アレンの顔がよく見えるようにベッド際に腰を下ろした。シーツはひんやりと冷たく、まるで何日も主が留守にしていたようだった。 「なあ、急にいなくなんなって……さすがに、オレもびっくりするからさ。リナリーの言うことなんか気にすんなよ。お前は、オレのそばにいれば、それでいいんさ」 そっとアレンの頬に触れる。白く、なめらかな肌だ。 「な、アレン、そろそろ起きた方がいいんじゃないの。夕飯だってもうすぐだぞ。お前あれだ、何食べたいって言ってたっけ。教団に帰ったら……ああ、違うか、教団の皆と飯食いたいって、それだけだっけ? お前も変なこと言うよなあ、オレだけじゃ駄目なのかよ、ちょっと嫉妬! ……なんつって」 ぎ、と軋む音が立った。開けられたドアの隙間から微かに明かりが差し込む。 「あなたは一体、誰と話をしてるって言うの」 「……またお前かよ、そんなに暇なのか?」 まるでオレたちの仲を邪魔し、あるいは引き裂こうとしている無粋な輩のようではないか。リナリーはつかつかと歩み寄り、そちらを向こうともしないオレに何かを投げつけた。いてえなと不平を吐きつつ、オレは飛んできた小さな紙袋を開ける。中から出てきたのは、よく見知ったリボンタイだった。――血まみれで、大部分が赤黒く変色している。 「これ……なんで、」 「アレンくんの遺品」リナリーの唇は、ゆっくりと弧を描く。「彼の遺体は、もう燃やすからね」 言っている意味がまるでわからない。アレンのシャツの襟にはこれと同じタイがしっかりと結ばれているのに、けれど、オレの手の中にあるものも、紛れもないアレンのものだ。何故かそれだけは、わかった。 「……なんなんさ、……」腹に力がまったく入らず、口から漏れたのはおそろしく小さな声だった。「リナリー……死んだのは、……誰、だって?」 「きみが哀しむから、雨が降るんだよ」 窓から身を乗り出し晒したアレンの手のひらに、ぽつりぽつりと雨粒が溜まっていく。急に降り出した雨は段々と勢いを増し、ついにはアレンの袖までも濡らしてしまった。 「何やってんさ、いいから、窓閉めろよ」 「ねえ、ちゃんと聞いてる? この雨は、言うならきみの涙ってこと。泣けないきみのかわりに泣いてくれてるんです」 「そんな馬鹿な」オレはこういうことを平然と言ってしまえるアレンが嫌いだった。「世界中が哀れんで、世界中が悲壮に暮れて、世界中が嘆いたら、毎日、雨はやまない」 晴れている日なんて三百六十五日、一日たりともなくなる。そんなでは困るなとも思いながら、けれど日照りするのと大洪水、どちらがましなのだろうとふと考えた。それは飢え死にと溺死、どちらの方法で死にたいと問うのと同じことだ。 「違うってば、」 「お前みたいに暢気なこと言ってる奴が他にもいたら、そうなるだろうさ。大体――大体オレは、哀しくなんてない」 「だから、泣けないきみのかわりって言ってるでしょ」 「なんでオレだけが泣けないことになってんだよ。お前の思考回路ほんと読めねー」 「もう、うるさいなあ!」 アレンはびちょびちょに濡れた手でオレの服を鷲掴みにする。 「おっいぃいい、おまっ、ふざけんな!」 「それでも!」ぐっと顔を近づけられる。それでも、とアレンは繰り返した。「きみが哀しむから、こんなに土砂降りなんだよ」 アレンの目蓋がゆっくりと押し上げられた。あの日となんら変わらない笑みを浮かべ、あの日とまったく同じ声でオレの名を呼ぶ彼は、 「死んだのは、アレンくんだよ」ああ、と誰かが低く呻くような声が聞こえた。それはおそらく、オレのものだ。「わたしが彼のリボンを持ってきたって、内緒だからね」 ――何かが弾けたかのように突然眼球を襲った激痛に耐えきれず、オレはほぼ反射的に目をかたく瞑った。そうすると当たり前のように視界から光が消えた。痛みがおさまり次に目蓋を開いたときには、アレンが消えていた。 何が最良だったのかはわからない。ただオレには失ったという結果だけが残った。ひとりで戦うことはやめろと散々言っておいたのにそれを守らなかったアレンにも腹が立っているし、たった一瞬でもアレンから目を離してしまった自分自身にも腹が立っていた。胸を貫かれだくだくと血を流すアレンを教団まで連れ帰ってきたのはオレだし、治療をするからと言われても微かに息をしているアレンを腕に閉じ込めたまま離せなかったのもオレだ。オレにはわかっていたのだ。ここで何をしたところで、アレンに生き延びる道はない。ここで死ぬのだと。 手を見る。指の腹にはリボンタイに染みたアレンの血糊がこびりついている。アレンをここへとどめられない役立たずの手なら、なくてよかった。その方がましだった。 「……もうすぐ、はじまるよ。きちんとお別れしてあげようよ」 「ん……、」 オレの中身は今や空っぽだ。アレンという存在がどれだけオレの身のうちを占めていたのか、今の今まで気づけなかったことが悔やまれる。 改めてリナリーの顔を直視すると、彼女の目元は可哀想なくらい腫れぼったかった。苦々しげに顔が歪み、口は笑っていても眉はハの字、これが一体どういうことなのか、幾分冷静になった頭なら行き着いた先も冷静だった。 ひとりの少女を戦いに巻き込んでしまったことを、アレンは言っているのだろう。哀しくなんてない。こんなことは、オレたちの生きる世界ではただの日常だ。 「それに慣れちゃ駄目ですよ。きみは楽になるかもしれないけど、麻痺してしまった心はもう元には戻らないんだからね。痛みを感じてよ。毎日のことだって流してほしくないし、なかったことになんてしてほしくない、きみには」 「オレに説教なんかしやがって……お前はどうなの、お前は。そんなに言うならアレンが泣いとけばいいじゃんさ」 「僕は駄目」手遅れです、と言ってアレンは笑う。「僕はもう、人間ではないからね」 「……どういう意味?」 「人の死を悼まなくなったら、もうそれは人間じゃない。ただの悪魔ですよ」 あまりにもさらりと言ってのけたものだから、オレはもうそれ以上何も言えなくなってしまった。アレンは長くつづく泥沼のような戦いのなかで、何かを大事なものを失ってしまったように、見えた。 |