20121007 COMIC CITY SPARK 7




白皙の君
▼なんて純粋なのだろう。自分には決して、もう二度と持ち得ないものだ。生まれたばかりの赤子のような、何も知らない目をしている。どうしてそこまで純粋でいられるのだろう。本当のことなんてオレにはもう言う勇気がない。嘘と虚勢で塗り固めてしまった方が酷く楽なのだ。蝋のようにかたく、いずれとけてしまうと知っていたとしても。オレが繰り返し語る虚偽も、有体に言えばもしもの話も、それがどんなに自分の心を傷つけるものであっても、彼は疑うということを知らないのだ。極端な話、オレがものすごい難病であったとして、オレが生きるためには彼が死ななければならない(そんなことはまさかあり得ないからたとえにできる)というとき、何も、誰もじゃあ死にますなんて言う筈がないし、彼だったら一晩くらい悩むかもしれないが、結局行き着く先はひとつだけだ。きみが助かるなら、などと言ってしまうのだ。きっと。もう何度かそれに近いことを言ってみたりした上での、九割方そうなると決まっている、予想だ。だからオレはその純真さが羨ましいと思う反面、とてつもなくおそろしい。いつか現実に実行してしまうのではないかと。しかし誰かのために命をも落としてしまったそのときは、正真正銘、誰がなんと言おうが、疑う余地すらなく彼は神の子だったということなのだ。
▼彼にはすべてを話しました。だって、この人なら信じられると思ったのです。彼の口から零れる言葉の大半は嘘と寓話めいた物語で占められていて、何ひとつ本当のことは言ってくれないけれど、だからこそ僕の話を頭ごなしに否定せずに最後まで聞いてくれるだろうと信じられたのです。まず僕は彼にこう尋ねました、きみは生まれ変わりを信じるか、と。彼は面白い題材ではあると思うと答えたので、僕はそのまま、じゃあこれは信じるか信じないかはきみの自由だけれど、ひとつだけ昔話をさせてくださいと言いました。「昔と言っても本当に昔、僕が生まれるよりもっと前の話なんですけどね。でもこれは誰かに聞いたのではなくて、僕がはっきりと、鮮明に、記憶していることです。いつもきみが僕に聞かせてくれるような面白い話になるかどうかは、ちょっとわかりませんが」彼は珍しく神妙な顔つきで、一言一句逃さないように僕の話に耳を傾けているのがわかりました。まるでいつもとは立場が逆で、僕は少しうれしくなったりもしました。「僕が僕になる前の人は、ドイツ人の若い男性でした。彼はまだ医師になり立てで、多くの人を救うという希望で胸が満ち溢れていました。それなのに、彼は結局誰ひとりとして救うことができないまま、その短い生涯を終えました。さあ、何故でしょう?」「……ちょっと待って、謎かけなんさ?」彼の問いは無視して僕はつづけました。「答えは簡単です、殺されてしまったからです。それでね、この話、ここからが僕としては面白いかなって思うんですが、彼が殺されてから、まだそれ程経っていないんですよ。勿論新聞でも調べましたが、僕の記憶と齟齬はありませんでした。そしてその犯人は、いまだに捕まっていない。だけど、僕は、――彼は、犯人の顔を見た。これがどういうことだか、わかりますか?」
▼まったくもって意味がわからなかった。彼はいつものような柔和な笑みを浮かべ、今度こそオレの返答を待っている。正直なところオレの脳味噌の処理能力が追いつくまで待ってほしかったが、オレならばすぐにわかるだろうという妙な期待を込めた眼差しを向けられては、無理矢理口を開くしかない。「……何殺?」勿論わからないなどと答える選択肢は与えられてはおらず、一体どういう方法で殺されたのだかを苦し紛れに尋ねれば、すぐさま毒殺だと返ってくる。「とにかく酷い腹痛と嘔吐感でしたね。できるなら、もう二度とあんな経験はしたくありません。それで、僕が言いたいこと、わかりませんか? ああ、もしかしてなんの毒だったか気になります? 毒は当時殺鼠剤に使われていたもので、入手は容易でした。だけどそんなことはどうでもいいんです。僕は、……ああ、違いますね、彼は、犯人を知っているんです。知りながら、誰に告げることもできずに死んでしまった。だからいまだにこの事件は解決できていない。まだこの世界のどこかで、彼を殺した犯人はのうのうと生きているかもしれないんです」頭の中で必死に彼の言葉を繰り返す。生まれ変わりを信じるか、と彼は一番はじめに言った。信じている訳がない、けれど興味はあった。彼が今話しているのはそういう話なのか? 殺されたドイツ人医師とやらが、つまりは彼の前世なのだと、そう言いたいのか? これはオレが今まで彼に話して聞かせていたようなどんな脚色された物語よりも、ずっと現実味がなかった。ただ、オレは彼が嘘を吐けない人間であることを反吐が出る程よく知っている。純粋で、無垢で、野蛮な発想などとてもできないような。それなのに――今、目の前にいる彼はどうだ。「……ドイツに行きたがってたのは、……ドイツでの任務には、率先して向かうのは、」「犯人を捜すためです。見つかりっこないのはわかっています、でも、なかったことにはできませんから」「もし、もし見つけたら、お前は――」「僕の性格は、きみが一番わかっているでしょう?」オレは、これ程までに底冷えのする、美しい微笑みというものを見たことがなかった。ああそうか、と心中で頷く。何かを疑うことを知らない人間は、何かを疑うことを知らないからこそ、酷く盲目的になるのだ。彼はもはや、聖戦すらついでの事柄なのだろう。オレが何よりも記録を重視するのと同じように。「彼を殺した犯人の顔を知っているのは、僕だけなんです。だったら、僕がやらなければならないことは、たったひとつしか――ありませんよね?」誰かのために。彼が繰り返し口にしていた言葉だ。彼はどこも曲がっちゃいない、憎たらしい程にまっすぐだった。自分のことなどいつも後回しで、死んでいようが生きていようが、誰かのためになるのならそれが彼の生きる目的になるのだ。それならば、どんなに惨いことを考えていたところで、やはり正真正銘、疑う余地すらなく彼は神の子だったのだろう。

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