あるいはきみの、そのきみの/20120507



へんなやつがいる、とすぐにわかった。そいつは高校生らしからぬ髪色をして、頬に大きな傷跡があって、授業中以外は常にイヤホンを耳から外さないようなやつだった。休み時間を迎えるとすぐにそうして耳を塞いでしまうので、誰がそいつに話しかけようと、そいつは聞こえないふりをしているのだかはわからないが、とりあえず完全に無視するような奴だった。変な奴だと思ったからオレはそいつに関わる気なんてまったくなかったのに、でもそいつがどのようにして一日を終えるのかということには興味があった。そいつの席はオレより前だったので、気づけば授業中は黒板よりもそいつを注視していた。
まず、右利きのようだ。それから、授業態度は意外と真面目で、ノートもきちんと取っている、ように見える。何故か腑に落ちないのが、必ずといっていいほど教師陣はそいつに問題を当てないこと、つまり黒板に問題を解かせないし教科書も読ませない、といったことだが、それを除けば至って普通だった。ただやはり、鐘が鳴り授業が終わるとすぐに机の中からイヤホンを取り出して装着する。余程他人に話しかけられたくないのか、単に騒がしいのが嫌いなのか、それとも異常に音楽が好きなのか? とにもかくにも、休み時間中はそうして音楽を聞きながら静かに机に向かっている。図書委員からの報告によれば、放課後は、またしてもひとりで図書室にこもっているらしかった。
そういえば、あいつ、自己紹介はどうしていたんだったか。入学式が終わり、このクラスになって最初にやったことは自己紹介だった。出席番号順にひとりずつ立ち上がって――ああ、そうだ。いなかった。そいつは入学式にこなかった。だからひとりだけ自己紹介なんていう面倒くさいものをパスしていたのだ。だからオレは、そいつの名前すら知らないのだ。名乗りもしていない上に、誰もそいつの名を呼ばないのだから。
しかしそんな奴でもイヤホンを外さなければならない時間はある。体育の前だ。話しかけるならそのときしかないと妙な使命感に燃え、オレはロッカーからジャージを取り出してとりあえず体育館までそいつのうしろにくっついていった。さすがにないだろうと思っていたのだが、道中奴はイヤホンを外さなかった。ガードがかたい。が、さすがに着替える段階ではどうしたって無理だろう。この辺で男を目で追うオレというちょっとよろしくない図に気づいたが、なんかもう全体的に遅い。クラスメイトからはちょっと怪訝な眼差しを向けられているが、ここまできたら引くに引けない。オレはやるぜ!
さり気なくそいつの隣に陣取り、オレの目論見どおりそいつがイヤホンを外した瞬間にオレは「なあ、」と声をかけた。
「なあ、お前、名前なんて言うの?」
ナンパかよ……と聞こえた気がしたが、気にしない。
「あっ、まずはオレから名乗んなきゃな! オレ、ラビっていうんだけど、お前は? ほら、入学式休んでたじゃん? だからオレ知らなくて」
言っておくが、オレに落ち度はなかったと思う。ちゃんとにこやかな顔もできたと思うし、話し方も明朗だったと思う。なのにオレは失敗した。あろうことか、そいつはオレを見向きもしなかった。完全なる無視、完全なるシカトである。さすがにオレも心が折れたので、それ以降話しかける計画は断念した。人間は、無視されるのが一番きついということを学んだ。
それから何日か経つと、オレももうそいつの観察はすっぱりとやめていた。こっちがいくら近づこうと思っても、向こうに打ち解けようとする気が微塵もないのならそれは無駄な労力だ。オレは無駄なことが嫌いだ。危うく男の尻を追いかけるオレという図が定着しかけていたので、それはそれでよかった。クラスの連中も皆口をそろえてあいつは変な奴だと言った。オレもそれで間違いがないと思うし、変な奴には、近づかないのが一番だ――それが正論。しかし、そうも言っていられないときがある。人間性が試される瞬間にオレは不運にも遭遇してしまった。
夜中中新作ゲームをぶっ通しでプレイしていた所為で極度の睡眠不足に陥っていたオレは、五時間目を華麗にサボタージュすると適当な空き教室でぐっすり眠り込んでいた。それから自然と目が覚めたのはもはや奇跡レベルだが、起きた頃には時刻は午後五時を回っていた。やばい、と思うのと同時に外の雷雨に気づく。奇跡というか、起きることができた要因は窓に打ちつける激しい雨音によるものだった。置き傘なんてねえよと毒づきつつ、慌てて帰り支度を整えて玄関に向かう。ありがたいことに一本だけ傘立てに放置されていた可哀想なビニール傘があったので、それを拝借することにした。傘は使ってあげないと、という持論のもとだ。よい子は真似するべきではない、と思う。そこでオレは軒先で立ち竦む奴を発見してしまったのだ。五月とはいえ雨が降ればそれなりに冷える、あんな貧弱な身体つきでは濡れれば風邪だって引いてしまいそうなものだ、それを、オレはちらとでも考えてしまった。イヤホンを耳に突っ込んで、やみそうもない空をじっと仰いでいるそいつを、どうしてもオレは無視できなかった。いや、もう、一度くらい無視されたくらいでなんだ。なんだったら、オレが濡れて帰ればいい。雨に濡れて風邪を引いたことなど一度だってないくらいの健康優良児なのだから。
「……あのさ!」
イヤホンをしていたし、この雨だから普通に声をかけたくらいでは気づかないだろうと思い、オレはそいつの肩も掴んだ。そいつは尋常ではないくらい驚いたようで、光の速さで振り返った。今まで気づかなかったのだが、そいつの目の色は暗いような明るいような、不思議な色を帯びていた。
「あ、急にごめんな? 傘ないみたいだったから――」驚いた拍子にそいつのポケットからプレーヤーが滑り落ち、かしゃんと音を立てて地面にぶつかる。「わっ、悪い!」
慌てて拾い上げたがプレーヤーの画面は真っ黒で、もしかして壊してしまったのではないかと焦るオレの手に、そいつの冷たい手が重なる。ふるふると首を左右に振ると、そいつはものすごく困った顔をして、ゆっくりとイヤホンを外した。ちょっと待ってという意味だろう手振りをし、鞄の中から何故かメモ帳とペンを取り出し、何かをそこに書きつけると一枚紙を破き、オレに寄越した。綺麗な字だ。ただ、どんな反応を示せばいいのかわからなくなるような内容だった。そいつは人を無視するような奴ではなかった。小さい頃からあまり耳がよく聞こえない、というようなことが、その紙には書かれていた。プレーヤーも元々電源が入っていないだけで、壊れた訳ではないから安心して、というのも。
「じゃ、いっつもイヤホンをしていたのって……」
呟くと眉を寄せられたので、そいつの手からメモ帳とペンを奪って今言ったのと同じことを書く。すると、そいつはもう一枚紙に書いた。完全に聞こえないわけではないのだけど、話しかけられても聞き取れずに何度も尋ね返すと、人を不愉快にさせてしまう。それが嫌で、誰にも話しかけられないようにしていた。もしかして僕に話しかけてくれていたのなら、きっときみのことも不愉快にさせてしまったね。最後に小さく、ごめんね、の文字。
オレはすごく自分が恥ずかしくなった。何故担任はこういうことをきちんと説明しないのかとも思った。それでもやはり、一度くらいで挫けてしまった自分が情けなかった。
「名前! なんていうの!」雨脚は弱まってきていたが、オレはそいつの耳元で半ば叫ぶように尋ねた。「オレは、ラビって言うんだけど!」
そいつはにこりと笑って、「アレンです」と返してくれた。
「傘があるから! 一緒に帰ろうさ!」
ま、オレのじゃないんだけどな、とオレはぼろぼろのビニール傘を広げる。返答も待たないまま、オレはアレンの手を引っ掴んで無理矢理傘に入れた。別に会話がなくとも、居心地は悪くなかった。アレンが悪い奴ではないと知ってしまったからだろう。別れ際、アレンはオレの耳元に口を寄せて、気恥ずかしそうに話しかけてくれてありがとうと言った。あ、こいつ好きだわ。そう思ったが、男相手に面と向かって言うことでもないので、その言葉は胸にしまっておくことにする。



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