( 文芸論的心中 )



弟が死んだのはそれから間もなくのことだった。オレが手を出すまでもなく弟は勝手に死んだ。自分勝手に死んでいった。
弟とオレは同じ腹から生まれただけの関係だったけれど、弟は度々腹の中ですべてをオレに奪われたと言った。オレにはそんな記憶など微塵もないからそれはお前の気の所為だとはじめのうちは軽くあしらっていた。それでもしつこく繰り返すので段々面倒くさくなってしまいじゃあそれでもいいかなんて思っているうちにそんなに言うんだったらお前のものすべてを奪ってやるじゃないかという気になった。
弟は受験戦争にも敗れた人間だった。お互いに何も言わずそれぞれ好き勝手に試験を受けた。その結果弟は落ち、オレは受かった。そのときはじめてオレと弟が同じ大学を志望していたことを知ったくらいには、オレは弟のことを何も知らなかった。
「母体戦争に、受験戦争に、まったく、忙しい奴だなお前は」
弟が死んでもオレには一般的な感情は湧いてこなかった。病院だか警察だか忘れたけれど、とにかく弟が死んだと連絡を受けてオレがまっ先に思い浮かんだことは、うまくすれば弟にすりかわれるということだった。普通ならここでどんな反応をするのだかわからないながらもきっと間違っているんだろうと思ったけれど、オレはとにかく弟になりたかった。否、正確に言えば、弟の名前がほしかった。
弟の遺品は、それはもう、丁重に整理した。これからは弟の携帯も、定期入れも、時計も、何もかもがオレのものだ。オレはオレのものをすべて処分した。オレがラビであるということさえ捨てた。それからこれはそのときにわかったことなのだけれど、いつも暇そうにしていると思っていた弟は実はそうでもなかったらしい。弟の部屋から出てきた預金通帳にはオレのそれよりも余程多い金額が刻まれていた。オレが大学で勉学に勤しんでいる間、弟はどうやら働いていたようだった。
もしかしたら彼女ともその働いているところで知り合ったのではないかと思った。数日後、弟の携帯にそのバイト先と思しき番号から着信があった。弟の服に着替え、弟の遺品を見につけ、オレはすぐにその場所へ向かった。弟が外でどのように振る舞っているのかは知らなかったけれど、他人がオレたちを双子だと知っていてもどちらだかを見分けることはまず不可能だという自信があった。
弟が働いていたのは家からかなり距離がある、オレが一度も訪れたことのないコンビニだった。それもそうかとひとりで納得する。普段からオレが使っていれば、バイトしていることなどきっとすぐに明らかになっただろう。
どこから入ればいいのやらわからなかったので、普通に入り口から足を踏み入れた。すぐさまいらっしゃいませと元気な声が飛んでくる。その声の主は、なんという運のよさだろうか、オレが焦がれていた彼女だった。彼女はオレを見とめると幽霊でも目撃してしまったような顔をしたけれど、それにオレが疑問を感じる前に彼女は曖昧な表情を浮かべた。
「どうして連絡くれなかったんです? きみはいつも真面目で、遅刻も早退も、まして無断欠勤なんて絶対にしない人だったのに。店長も心配してましたよ」
手招きをしてバックヤードまでオレを呼び寄せた彼女は、ひそひそと内緒話でもするように話しはじめた。コンビニの内部はこんな感じになっているのかと、そんなところを気にしている場合ではない。オレは彼女の声をはじめて耳にしたのだ。彼女の声は高くもなく低くもなく、甘く丁度いい高さでもってオレの鼓膜を打った。永遠に彼女の声だけ聞いていたいと思ったと同時に、いつもこの声とともにしていた弟が堪らなく憎く思えた。
「……ねえ、聞いてます?」
「あ、ああ勿論」思い出せ、弟の口調はどうだった。「心配かけて、ごめん」
と、ここで重大な事実に思い至る。オレに対する弟はいつも辛辣な態度だったけれど、まさか目の前の彼女にだって同じだった筈がない。だから弟の口調がどうだったと思い出そうが、それはまったくの無駄に終わるのだ。――まあ、それでもオレがディックでないなどと、どうせ誰もわかるまい。彼女にオレのことを話しているなら話は違ってくるけれど、その可能性はなんとなくないと思った。
「やっぱり、僕を恨んでるんだね」
ぼそりと、オレに聞こえるか聞こえないかくらいの声音で彼女はそんなことを呟いた。オレはその内容よりも彼女が自身を僕と呼んだことに気を取られた。よく見れば彼女の胸はお世辞にもあるとは言えない。オレははっとした。次の瞬間には考えるより先に彼女の上半身に手を伸ばしていた。
「ちょっと、何するんですか!」
彼女の細腕が申し訳程度にオレの腕を拒むも、確かめるまではやめることはできないと脳味噌が信号を発していた。オレは躊躇うこともせずに彼女の服を剥ぎ、そして露になった白い肌にくらりと眩暈を覚えた。彼女の肌は月並みなたとえをするならば陶器のように滑らかで、白磁のように白かった。その目も眩むような情景を脳裏に焼きつけた後で漸くオレは我に返り、男、と唇だけを動かした。彼女の胸は、男のものそのものだった。
「なんなんです、一体……!」彼女――否、彼はオレの挙動に明らかに不審がっている。「ねえ、僕を、殺そうと思ったの? そうなんだね?」
「ころ、す?」
ここでやっと彼女の言動がおかしいことに気づいた。オレにおかしいなどと思われたくはないだろうけれど、思い返してみればさっきも恨んでいるんだろうとかよくわからないことを口走っていた。一体、彼と弟の間に何があったというのか。
「きみは僕を恨んでいるんでしょう、きみを殺した僕が赦せなくて化けて出てきたんでしょう、いいよそれなら殺せばいい、きみに殺されるなら僕だって本望だ!」
正直に言ってちっとも話が見えなかった。彼は何を言っているのだ? 待て、それなら、彼は――弟を殺した殺人者ということになる。弟は自殺ではないのか。弟は、殺されたというのか。この、目の前の、美しい少年に。彼には、オレにはどうしてもできなかったことを成し遂げるだけの、強い力があったとでも?
オレは力なく頭を振り、バックヤードに半狂乱になって泣き喚く彼を残してよろけながらもコンビニを出た。家に帰るまでの道のりは記憶が曖昧すぎてよく覚えていなかった。ただいつか見たような赤黒い空がいやに視界にちらついた。早く帰らなければ、とにかくそれだけを考えていた。
早くオレたちの家に帰らなければ。弟が待っているあの家に。あの、家に、ああ、でも、扉を開けたところで弟はいない。一体何を見ていたのか、玄関でぼんやりつっ立っていた弟はもういないのだ。――弟なんて、最初から存在していたのか? オレは誰だ? 定期に記された文字は、オレがディックであることを示している。オレはディック? ああ、じゃあ、死んだのは、――一体誰が、はじめに死んだのだ?




×日未明、無職のHさん(十九)が自宅で首を吊って死亡しているのを友人A(十六)が発見。HさんはAをメールで自宅に呼び出しているが、Aが駆けつけたときには既に自ら命を絶っていた。メールの内容は「Hが呼んでる」という簡素ながらもどこか不審なもの。
自宅の様子からHさんには兄がいたようだが、その兄もようとして行方がわからなくなっている。
調べに対し、Aは「自分が殺したのにこうして二度も死んでいる筈がない」、「これは何かの間違いだ」などと不可解な供述をしていることから、警察は怨恨にともなう殺人の可能性が大きいと見て、正確な死因を解明しようと解剖検査を依頼する予定……――




×年×月×日、当時十九歳の男性を車道に突き飛ばし殺した疑いで逮捕された男性の友人A(二十三)が、△日十九時頃、□□□ビルの駐車場に倒れているのを通行人が発見。搬送先の病院で間もなく死亡が確認された。Aは同日出所したばかりだった。
警察によるとビルの屋上にAの携帯が残されており、ここから転落したと見られる。転落間際、車に撥ねられ亡くなった男性に「今会いに行くよ」というメールを送っていたことから、自殺と判断され……――




「ええ、はい、彼と同じ場所でバイトをしていました。彼の次に僕が入るシフトでした。そこで彼と仲よくなり……いえ、でも、双子の兄がいただなんて全然……彼は自分のことをまったく話さない人でしたし、兄弟は勿論、家族だってどうなっているのか……え、いない? へえ……そうなんだ……じゃあ、僕と同じだ。僕も両親がいません。だから、彼がたったひとり頼れる人だったというか……動機? 動機なんて、そんな、大層なものじゃありませんよ……僕ね、まだ彼が死んだなんて、とても信じられないんですよ。だって、ちょっと、彼の背中を突き飛ばしただけなんだ。信号待ちで。彼ともう会えなくなるって、そう考えたらふっと、手が、――気づいたら彼は道路に飛び出していて、いや、僕が、押したんだって、そしたら、車に、……逃げましたよ。怖くなって。全速力で走って逃げました。轢かれる直前――彼と目が合ったんです、僕、いまだにその目が忘れられません。いつまでも僕を苛むんです。夢にまで出てくる。彼のその目には、温度が、なかった。僕に別れようって、言ったときと同じ……多分、多分なんですけどね、……彼って、その、お兄さんが一番大切だったのかもって、思うんです。何故って、だって、彼が夕方でバイトを切り上げるのも、家族が待ってるからって、言うんですよ。オレが飯をつくってやらなきゃって。掃除も、洗濯も、オレがやってやんなきゃ、仕方ねーんだって……いいえ、すごく、うれしそうな顔をして言うんです。求められていることが、……僕はそれが、すごく羨ましかった。僕にはそんな、何かしてあげられる相手がいないのに、彼は違う。なんてしあわせな人なのだろうと、それなのに、どうして僕から、何かしてあげられる喜びを奪っていくんだろうと、思いました。……彼を殺したのは、僕です。僕は、彼が車に轢かれて、死んでしまったのをニュースで見ました。ちゃんと確認したんです。でも、バイト先に彼はやってきた。おかしい、こんな筈はないのにって……幽霊なのかと、思ったんです。彼は僕を恨んで、恨みのあまり幽霊になって、僕を殺しにきたんじゃないかと思いました。それとも僕は彼を殺し損なったんだろうか、そう考える余裕も全然なくて――だから僕は、殺せばいい、と……きみに殺されるなら、本望だ、って言いました。どうせ生きていたって、しょうがないから……きみが連れていってくれるなら、そんなうれしいことはないって……その夜です、メールがきたのは。僕は彼の家を知らなかったけど、様子を見てくると言って、店長に住所を教えてもらって……鍵は開いていました。変だなと思っ、て、な、中へ、入った、ら、……彼が……っ、彼は、一度目は僕が、二度目は彼自身が、彼を、殺したんです……!訳がわかりませんでした!……どうして僕を殺してくれなかったのか、もうこのまま、彼の後を追って、僕も死んでしまおうかと思いました。でも、できませんでした。何故なのか、わかりません。なんとなく、何かが違う、と、思いました。……ああ、でもやっと、納得がいきました。僕はちゃんと、彼を殺していた。あの日店にきたのは、彼の兄だったんですね……」




オレは今すごく馬鹿なことを考えている。弟がどこを捜したってもうこの地球上には存在していないことくらいわかっている。オレは弟の死に顔を見た。きちんと死んでいる人間の顔をしていた。弟の名はディックと言う。世界中に何人いるか知れない名前のうちのひとりであるところのディックは、殺されて、死んだのだ。歩行者の分際で信号無視とは生意気な、と思ったけれどそうではなかったので、オレはこの怒りをどこへ向けたらいいのか困っている。
父親と母親はいない。オレたちはどこで生まれたのかすらもわからない。気づいたときからふたりだけだった。オレたちにはお互いしかいなかった。
弟がオレをすきすぎるのだと思っていたらそれは違った。オレは今も弟になりたい。否、はじめは名前だけもらえればそれでよかった筈なのに今は弟になりたい。ディックになりたい。そうしたら、今生きているのは弟だろうから。
思えばオレはおままごとのような生活をだらだらと送っていたにすぎない。ぐうたらなオレにかわってお前が生活費を稼いでいたのだということに今まで気づかなかったなどどうかしている。何もないところから飯が出るのかと思ったら大間違いだ。何ごとにも金がいるのだ。世知辛い世の中らしく。
玄関の謎はちょっと注視してやればあっさり解けた。弟は壁にの落書きを見ていたのだろう。それはオレたちがこの家に住みはじめたときに書いた誓いだった。オレはそれをすっかりと忘れていたのに、弟はいつまでも大事にしていた。それだけのことだったのだ。お互いのためになるようなことなど、オレは何ひとつとしてできていなかったというのに。
突然思いついてオレは弟の携帯を手にした。弟とオレの携帯は偶然にも同じ機種だった。電話をかけてやろうと思ったけれどそれはやめにした。オレは今すごく馬鹿なことを考えている。
「あー……はらへった……」
自殺もしくは通り魔に見せかけてうまく惨殺してやるって言ってくれたじゃないか。できたら楽に死にたいものだけれど、お前のためならにいちゃんちょっとがんばっちゃうよ。
「なあディック、兄貴が飢え死にしてもいいのかあ……」
今なら芋がどろどろのカレーの海で溺死したっていいし、じゃがいもの種類にけちなんかつけないぞ。とにかくすごく腹が減っているから、この空腹が満たされればなんだっていい。
「…へんじしろ、あほうめ……」
現実という現実が気に喰わなくて、そっと目蓋を閉ざした。
どうしておまえがいないんだ、その問いかけに答が返ってくることは永遠にないということを、思い知りながら。







そして
誰もいなくなった



(130206)
(せせこましさが振り分けるのつづき/『Hangover』書き下ろしより)
(そしておしまい)

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