足音のない男と同居している。 その男は気味が悪いほど足音を立てない。気づくと僕の背後に立って、なんとなく、灰か砂を混ぜたような曇った眼で僕を見ている。何かを訴えかけるかのようにじっと。僕はその眼も、彼自体も、鬱陶しいと払い除けようとは思わない。ただ残念に思う。そう、残念に。 雨の日がつづいた。蒸し暑さに堪らず窓を開け、その前にマーケットで安く手に入れたかわりに今にもばらばらになりそうな三本足の椅子を置いて、背凭れに寄りかかりながら雨粒の行方を追っていた。同居人は今日は外に出ていた。彼がいてもいなくても、この家には僕ひとり分の物音しかしない。だって彼は足音を立てない。 男の素性を尋ねたことはなかった。基本的な事柄、そう、名前すら知らない。 ドアを叩く音があまりにも静かで、雨音に掻き消されてしまいそうなほどだった。あの日も、いや、あの日は今日以上に強い雨が降りつけた日だった。 雨には色がついている、そう錯覚したのは、彼の髪の先から滴り落ちる雨粒が赤いように見えたからだ。だから、今日の雨は赤いのかと馬鹿なことを思ったりもした。鮮やかな色を持った彼は、こうして僕の前に現れた。 僕は彼の好きなようにさせた。彼が家に入り込むことも、何をするでもなく佇んでいようとも、構いやしなかった。僕は僕、彼は彼。僕は彼自身のことなど少しも興味がなかったし、わざわざ相手をするのも面倒だったから万事放っておくことにした。 彼自身のことを何ひとつ知らなくても、彼が何を求めてここにきたのかだけはわかっていた。 仕事が立て込み、暫く研究室に泊まり込む日がつづき、例の男のことも綺麗に忘れ去って帰宅した夜だった。足音のない男はのっそりとドアを開けた向こうに突っ立っていた。 「……まだいたのか」 心の声はそのまま外へ零れ出た。 「きみがほしいものはここにはないですよ」 突き放すようにそれだけを告げ中へ入ると、それを阻むように男の身体が立ちはだかってきた。これは彼がここへきてからはじめて見せた明確な意思の現れでもあった。 「……ひとつ教えてあげましょうか。きみが僕のせいで眠れなくなったとしても、僕は僕のしたことで眠れなくなったりすることはない」 僕は彼の好きなようにさせた。彼が家に入り込むことも、何をするでもなく佇んでいようとも、構いやしなかった。ただそれは、僕に干渉してこなければの話だ。 「ここに、きみの望むものはないし、――僕が生きている間は、悪いけれど、絶対に返さないよ」 男は静かに両手で顔を覆った。目蓋をゆっくりとさすり、何かをこらえるように手を握り締めた。 僕は人でなしだ。人間らしい心を持たずして生まれてしまった。人のかたちをしているけれど人ではない。だから僕は、彼のそんな姿を見ても心を痛めてあげることができないし、自分の行いを反省する気も毛頭ないのだ。 「……ああ、雨だ」 雨粒が地面を打ちつける音が響く。 彼とはじめて会った日。強い雨音の中に紛れたノックを、僕が拾ってしまった。それはきっと彼にとって最大の不幸だったのだろう。その瞬間、彼の身の行方が決まったのだ。 神によって与えられたいれもの。その身に神によって幸福が与えられたなら、神によって与えられた不幸も同じようにただ黙って受け入れるしかない。――彼が呪うべきは、僕ではなく神だ。 俯く男の姿を瞳にとらえながら、僕は祈る。 男の薄い唇が言葉の形をつくった。彼は片目だった。 / はじめて自分の技術を自分のために使った。 うつくしい腕、うつくしい脚、うつくしい耳、うつくしい指、うつくしい鼻。きみが持っていたのは誰よりもうつくしい緑の瞳だった。 うつくしい瞳を持つきみの身元が定かではなかったこともまた、僕にとっての僥倖だった。 刃を入れ繋ぎ合わせ、完成された美の集大成をつくるためにきみはぼくの手にかかった。きみがそれを不幸というならそうなのだろう。よろこんでその身を差し出す人間などそういない。 僕たちは何も持たずして母の胎から生まれてくるけれど、本当の意味でそれは正しくない。きみはうつくしい瞳を持って生まれてしまった。別の彼はうつくしい腕、彼女はうつくしい脚、そのまた彼女はうつくしい耳、……僕の目ときみの目はまるで違う。 きみに、白状しよう。きみのうつくしい瞳(または、きみたちの腕や脚や耳)を奪った本当の理由は、 / 手に宿る意思。声にならない憤りがその指から直に伝わる。 名前も知らない、足音を立てない幽霊に僕は殺される。 |