ゆめうつつとはこういうことを言うのか。 「お前のその食べ方どうにかなんないの」 「これ、オレの、最近の趣味だから放っといて」 トーストの上にホイップクリームを山のように乗せて一気に頬張るオレを見ながら、ディックは心底気持ちの悪そうな顔で胃のあたりをさする仕草をした。 「同じものを食ってるはずなのにこうも味覚が違うのは何故なのか」 「多分それは経験の差だと思うぞ」 「経験の差だあ?」 口が滑った。一度言葉にしてしまった以上は撤回がきかないのはもとより、そもそもこいつは気になったことは一から十まで訊いてこようとするから始末が悪い。要するにしつこいのだ、基本的に。 「ずっと同じ学校通って寝食ともにしてるのにどこでどうして経験の差が生まれるんだよ」 「生まれるもんは生まれるんだって。お前、朝からしつこいさ」 「お前が引っかかること言うからだろ」 「どうでもいいからコーヒーちょうだいよ」 マグカップを突き出せばいささか乱暴ではあるけれどもポットからお望みどおりの液体が注がれる。果たしてこの目の前のオレと瓜ふたつの容貌をした男は、オレの内面の変化――そう変化に気づいているのだろうか。もしかすると気づいていながらも何も言わずいつもと同じ朝の風景を意図的になぞっているのでは? 「……いや、そんな器用じゃないよな、お前は」 「喧嘩売ってんの?」 寝ても覚めてもちらつくその色を上書きしたいだけの朝のメニュー、その意味を知らずに、気づかずにいてくれた方がありがたい。ディックの手元にあるのはただ焼いてバターを塗っただけのトーストと、オレと同じやたらと苦いコーヒーだ。それがとても安心する。 「朝からそんなに苛々してもいいことないぞ。お前は明日からカルシウム入りのシリアルを食べるべきだ」 「多分それはお前の口が開かないようにしたら解決すると思うんだよな」 「遠回しに死ねって言ってる?」 「それは、……気のせい」 「気のせいだったか」 即答ではなかったのが少し引っかかるけれども、肉親に一言死ねと言われたものならオレはその日のうちに適当に死んでしまうかもしれない。なんだかもう、この頃はそれでもいいかなと思ってしまっている。 思い出したくもないのに本当にふとした瞬間に目蓋の裏によみがえる。そういえばあの靴はどうしたっけ。ディックにだけは見つからないようにとどこかへ隠したことまでは覚えている。さすがに素足のままでは帰ってこられなかったから、道中どんなに捨てたく思っても我慢して履いた汚い靴。 「……ラビ、お前は自分の指まで食う気か?」 「んお!」 もう手の中にパンなんてかけらも残っておらず、あろうことか自分の指まで口に含んでしまっていた。さすがにそんな趣味はない。 「あー吃驚した」 「吃驚したのはこっちだよ。まだ寝ぼけてんのか」 「いや、考えごと……」 靴の行方が気にかかる。あれを見られたくない。汚いものをディックのなかに植えつけたくない。 「そういえばお前が気に入ってしょっちゅう履いてたスニーカー、」 「えっ」 「ちょっと汚れたくらいで捨てるなよ。仕方ないから洗って今乾かしてるぞ」 「あ、そ。そう」 あれ、オレ、捨てたのだったか? 無意識の所業か。 「……洗ってくれたん?」 「勿体ないだろ。わざわざ洗ってやったんだから感謝しろよ」 ありがとう、なんて、とても気のない声で言ってみた。ディックは少し不満そうな顔をしただけで、もう靴についてはとやかく言わなかった。オレは、あんなものを見せてしまったことがとにかく悔やまれて、ホイップクリームの甘さなんて少しも感じなくなってしまった。目眩がするほどの甘さと苦さはオレを現実の世界へ呼び戻してくれるはずのものだったのに。 世界で一番汚いものってなんだろう。そればかりを考えつづけて、オレの頭のなかはありとあらゆる汚いもので埋め尽くされていった。消したくても消えない記憶、突き刺さるように感じた本物が、悪夢となって決して忘れさせてくれない。でも、あの目が何色だったかまでは覚えていない。ありがたくも塗り潰してくれたのはひたすらに赤。熟したトマトを見ただけで戻しそうな今は自分の色さえ憎たらしい。 「――あ、」 「ん?」 あ、と、吐息に音が乗ってこぼれ落ちた。オレと瓜ふたつの容貌をした男。 「……、ん、と」 「なんだよ、気持ち悪いな」 「や、……ごめん、ほんと、ごめん」 なぜ謝っているのか、なぜ謝られているのか。説明しろと言われたって、できるはずもない。 / その日は晴天だった。だから、いろんなものがよく見えた。ホームで電車を待っている途中、暇潰しに人間観察をしていたことが失敗だったのかもしれない。やがて反対側のホームに電車の通過を告げるアナウンスが響いて、何気なく正面を眺めるともなく眺めていたオレの瞳は、虚ろな両目をとらえてしまった。 男は瞬きをすることも、オレから目を外すこともなく、一瞬のうちに駆け出してホームから飛び降りた。狙ってやったのだと思えたのはすべてが終わってしまってからだ。ものすごい勢いで滑り込んできた電車と激突して、その男はもはや人間ではなくなった。そのときオレははじめて人間の中身を見てしまったのだと思う。 中身。なかみ。ひとのなか。皮膚で覆われている内側? いや、それよりも、もっと内部の、なかの、人間って、という問いに対する答のような、そんなものを。オレは。 / 「う、」 視界がぐらりと揺れて背筋に悪寒が駆け上る。あっという間に気持ちが悪くなって、口元を手のひらで押さえたけれど少しばかり遅かった。半端に浮いた尻も立ち上がれずにまた戻る。指の隙間から、まさに汚いものが滴り落ちていく。死にたいと思うのは、一体いつか。 顔を上げられなくても困惑しているのは空気でわかる。弟のことは手に取るようにわかってしまう。血を分けた兄弟だからか、一緒に過ごした年月がそうさせるのか、おそらくそのどちらもだろう。 手に感じる生あたたかさが、また気持ち悪さを倍増させる。たまらない。この歳で泣きたくもなる。汚いものに触れてしまって、あちこちに汚いものが散らばっていることに気づかされて、自分ももう取り返しがつかないほどに汚染されているように思えてならない。 「ひっでえ……」 ほんとうに、ひどいものだ。 「どうしたんだよ、なあ、大丈夫か、」 絶対に許さない。気づかせた元凶。あの男。死にたいなら、オレの見ていないところで死んでくれればよかったのに。 「なあ、ラビ?」 赤と黒と白。ゆめうつつの中だって、色の認識は嫌というほどはっきりしていた。 |