マドンナに挨拶を




いつだったか、雨の日に髪の綺麗な女の子と寄り添うようにして歩いていた彼を見た。学校からの帰り道、彼らはゆっくりと僕の目の前を通り過ぎていった。彼の表情は傘に遮られて窺えなかったけれどそれは間違いなく彼で、僕は言い表せられない程のショックを受けたのをよく覚えている。あまりにも衝撃的すぎてそれからの記憶があまりない。まさに放心状態というやつだったのだろう、よく無事に家に帰れたものだと我ながら感心してしまう。
恋愛感情として、僕は彼が好きだったのかもしれない。断言できないのは、僕も男で、彼も男だったからだ。そして、僕は彼に間違いなく憧れに近い念を抱いていたからだ。それが恋であるなどと、僕でさえ確信が持てないのだからおそらくこの世の誰もが予想できなかったことだろう。
長く続いた雨が明けた頃には、もう僕は彼の姿を目で追うこともしなくなっていた。



彼は僕よりもふたつ上の学年だった。
教室が離れていることもあって、あれから同じ校舎で生活していることすら忘れかけてしまうくらいには、彼を見かける頻度が減った。いや、頻度が減ったと言うより、彼を探そうとしなくなった、が正しいかもしれない。
はじめて彼を目にしたときからずっと、校舎中に視線を走らす毎日だった。軽いストーカーと思われても仕方がないくらい、僕にもどうしてそこまで彼の存在が気にかかるのかわからなかった。わからなかったけれど、僕は見てしまった。見てしまったから、ふと思いついてしまった。――それは間違った感情だ。そしてどうしようもない。どうすることもできない。ショックだしつらいし胸がもやもやするし、それならいっそ忘れてしまえば僕の心は平穏だ、そう考えた。実際そうすることで視界が歪むこともなくなった。心中が穏やかであること、それに越したことはない。
けれどどうしてここへきて彼のことを思い出してしまったのか、それには勿論理由がある。購買で同じパンを掴んだ、その相手が彼だったのだ。(こんなべたな展開、漫画でもなかなかやらないぞ!)。
僕はあまりにも吃驚してしまって、すぐに手を引っ込めてしまった。引っ込めてしまった後でもしかしたら今のは失礼だったかもしれないと思ったのだけれど、そんな懸念もまったく無意味な程、彼はこちらを一瞬見ただけだった。なんとなく名残惜しい気もして、僕はそんな自分に愕然として、雑念を追い払おうと頭を何度も横に振った。
そうこうしてる間にも彼はレジへ進んで同じタイミングで手に取ったパンの清算を済ませているというのに、僕は一体どれだけ心を揺らがせているのだろう。消えた筈のもやもやとしたものが今またその存在を主張し出してしまっては、もう昼飯なんてものをどうこう考えている余裕はないに等しい。(いっそ抜きだ、抜き! 精進が足りない!)。
久しぶりに見た彼は、相変わらずの仏頂面だった。僕は彼がにこやか満面笑顔でいるところを見たことがない。よく連れ立っている友人らしき人にだって、黙るか怒るかしているところしか知らない。見た目以上に難しいところがあるのかもしれないけれど、そんなところも含めて僕は彼が――
「……え、」
(何を言おうとしたのだ、僕は)
「うわ気持ち悪い! 未練がましすぎる気持ち悪い!」
教室へ戻ろうと階段に足をかけた瞬間のことだ。通り過ぎる人たちからの少々冷たい目線も気にしていられなかった。
「忘れる筈じゃ、なかったのか……」
「何を」
「だから、僕が……ん?」
わあ、と思いきり声を上げる僕に――先輩は顔を顰めてうるせえと唸った。何故、彼が。僕の目の前にいる。
「ど、どうして……」
「ああ? なんだお前、さっきひとつも買わなかったのか」
「あっ、はい、えっと……」
彼がこうして僕の目の前にいて、こうして僕に話しかけてくること自体が僕にとってはあり得ないことだったので、どうにもうまく喋ることができない。しどろもどろになる僕に呆れたのか、彼はもういいと言って僕の手にパンを押しつけた。さっき購買で先輩と一緒に掴んだパンだった。
「えっ……これ、」
「やる。育ち盛りが昼飯抜きとか何考えてんだよ。バーカ」
しっかり食えと言いながら彼は大袋入りのロールパンまで僕にくれた。慌てて遠慮しようとする僕の言葉には耳を貸さずに階段を上っていく彼の手には、惣菜パンがひとつ握られているだけだった。だから、僕は妙に考えすぎてしまう。もしかして彼は、最初から僕にくれるつもりで声をかくれたのではないかって。
ああ気持ち悪い。我ながら気持ちの悪い考えだ。それでも僕は、なんだか大きな気持ちになってしまっていた。彼が僕にくれたパンを腕に抱えながら彼の名前を呼ぶ。
「神田先輩! あの! 先輩って彼女いますか!?」
彼はぎょっとした顔でこちらを振り向くと、階上からものすごい勢いで下ってきた。かと思うと、僕の頭を思っていたよりも骨張った手で鷲掴みにし、そのまま前後左右に振り回される。
「馬鹿かお前、何くそでけえ声で言ってんだよ!」
「ごっ、ごめんなさあ、いっ」
「ちっとは周りの目を気にしやがれ、アホ!」
ばかだのあほだの散々な言われようだけれど、確かに今のは完全に無神経だった。こんな人通りの多いところで、彼だってプライベートの話を出されたくはなかっただろう。けれど僕はどうしても訊きたかった。もうこんな機会は二度とやってこないかもしれないと思ったら、あとはもう、先輩を呼び止めるだけだった。
「あの、神田先輩……彼女、いますか?」
思い出すのはあの雨の日。あの日見た光景が脳裏に蘇る。
「……なんでそんなことを訊く」
「えっと……結構前に、女の子と、一緒に帰るの見て……お、同じ傘、差してたから、だから……」
語尾が震えていたのは自分でも気づいていた。彼の手で視界が遮られていて様子を窺うことはできないけれど、当然彼にだってわかっただろう。幾らかの間を置いて、彼は長い溜息を吐いた。
「多分、それは幼馴染みだ。傘がねえって言うから仕方なく入れてやったことがある」
「お、おさななじみ?」
「これでいいか?」
声にならずに必死に頷くと、やっと彼の手は離れていった。なんとも表現しがたい、しいて言うなら面白くなさそうな顔をしている。何かが彼の気に障ったのだろうけれど、心当たりが多すぎて何かではなくすべてだろうかとも思った。
「じゃあな。もうこんなくだらねえことで呼び止めんなよ」
「あっ、ありがとうございます! パンも!」
叩くようにして僕の頭を撫でていった手に名残惜しさを感じつつ、頑張って腹に力を込めて言ったつもりでも、やっぱりどうしても上擦った声になってしまった。それがおかしかったのか少し肩を震わせる彼を見ながら、ああ、やっぱり、好きだなあと、自分に確認するように僕は呟いた。



20180425 : マドンナに挨拶を


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