080503 / かせくしす・しーくえんす めるとだうん・ときしっく

ひとつ穴<骸>



怯えていた。手にしていた新聞の見出しにたいした記事は取り上げられてはいなかったけれど、いつことが露見するだろうかと、嫌な汗が背を伝う。―――穴に入りたいと少しだけ、けれども決して土の下に埋もれたくはない。かといって冷たい檻に囚われるのも嫌だ。無視を、決め込むしかない。
立ち上がって、洗面台の前に向かった。鏡の中の自分は、おそろしく青褪めた表情でいた。何か、怯えている顔だ。酷く、同情を誘うような―――同情される謂れもないのに。水で洗い流せればと、あらゆるものを水で流すことができればと顔を洗った。前髪から額、鼻筋へ垂れ落ちる、濡れて一層悲壮感が増しただけだった。
今日の天気は快晴だ。雨は降らない。槍なら降っても特に困らない、そう言えば冗談と取られるのが落ちだろうけれど、何故か自分は同意を得ることができた。ただ、彼女はいつでも死ぬ覚悟はできているが、死にたいとは思わないので直撃は避けたいということだった。
馬鹿を言うなよ、自分は違う。そうやって否定することも多分にできた。しかしわざわざ否定する意味もなかった。いつでも死ぬ覚悟などできていない、なのに今はすぐにでも消え去りたいと願うことを言う必要性は、零だろう。
朝食に出てきたソーセージは胡椒のかけすぎで塩辛かった。いまだに舌がひりひりとするくらいだ。サラダのキャベツは萎れていたしトマトも萎びていて新鮮とは言いがたかった。コーヒーのほろ苦さがそれを打ち消し、意識は現実へ向けられてしまったのが難点だったけれど、自分は、とりあえず、まだ生きている。
じぶんは、いきていて。いきを、していて。―――彼は逆をいく。シャベルとスコップ、どちらがいいか悩む必要もないのに悩んだことも、とてつもなくくだらない問題だ。
いつもよりも喧騒で包まれているような気もする司令部で、特に何をするでもなく、自分は椅子に腰かけたままでいた。生まれ変わりの話を、やがて煙草も忘れて入ってきた、どこか覇気のない男に振った。くだらないとは思いながらも、もし生まれ変われたとするなら、生まれ変われるとするならば、何になりたいかという話だ。
もしそんなことができるなら、やはり、また人間がいいと男は答えた。何故か問えば、人間が、生きていて一番苦しいからだと言った。ただし自分にはMっ気がある訳じゃあないと、訊いてもいないのに勝手につけ足した。疲れたように笑っているその原因をつくったのが自分であることに、少しだけ、申し訳なさを感じた。
悪いと思って、なのに、すべてを告げることはできない、と、ぐらりと揺れる世界の狭間で、自分は、立ち往生。シャベルかスコップか悩む以上の問題だ。
些細な口論から殺人に発展する。その心理が理解し得なかった頃の自分と今の自分は、おそらくまったくと言っていい程、違うのだろう。身近な人物を手にかけてしまう、哀れな殺人者の気持ちが今は、多少なりとわかる気がした。わかってしまうことがいいことかと、問われれば否と答える。そのくせ、心情を察することができる。
自分くらい訳のわからない輩はそうそういない筈だ。そのことに少し、ほんの僅かの愉快さを覚える。例えばこの世に生まれ落ちたのが自分ひとりと仮定したとして、自分しか存在していなければ、これは普通として成立するだろう。この考えが常識なのだと、勘違いするだろう。
そんな馬鹿げた考えにくつくつ喉を鳴らすと、ひとり、身近な人間が消えたっていうのに、何故笑っていられるのかという視線を浴びた。それもそうかと、こそりと頷く。
シャベルで掘っていると夜が明けてしまうという、単純な理由で自分が取ったのはスコップだった。古びたスコップで穴を掘り下げたときに、錬金術で穴を開ければよかったと思い至った。だけれど後悔はしなかった。何かの力を借りたいとは思わなかった。彼に対する、もしくはもっと別な何かに対する冒涜のような気がした。
神がいるとしたら、こんな暴挙は赦さないと思う。だから自分は、いつまでもその存在を信じることができない。
男が姿を消した後、自分も黙って外へ抜け出た。天気は相も変わらず快晴で、陰鬱とした曇天にさっさと変わればいいのにと、内心で呟いた。
棺桶はない。棺を拵えようなどとは考えられなかった。ただがむしゃらに、無我夢中に、隠すことしか頭になかった。遺体を目につかないところへ追いやることしか、念頭になかった。その一心で深く土を掘り起こした。その中へ、冷たく凍ったような身体を落とした。
足は自然と彼を埋めた場所へと進んでいた。ぼんやりした頭を再び覚醒させたときには、周りは人気のない雑木林、自分は湿った土の上に佇んでいた。
神を殺し、彼も殺し、自分すら殺し、生ける屍と化し、純潔を混濁に染め、斑に残る血潮を胸に刻み、何ごともなかったように、自分だけ日常へ戻っていくのだ。彼をここにひとり残し、自分だけ安息を得るのだ。その筈だった。
どうして、怯える必要があるというのか。
亡霊が、背についているような気がして落ち着かない、臆している。



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