10:空白劇





兄さんの言葉で大佐が理性を失い、焔を錬成する前に、兄さんが賢者の石を使って錬成していた炎が掻き消えた。それにより路地裏は元どおりの真っ暗闇に閉ざされ、大佐は目標物を見失ったまま指を擦りつけた―――――激しく燃える業火の中で、燃えていく兄さんを僕は見ていた。


「僕はあのとき、時計台の下で待ってろって言われたんだけど……途中で不安になって、引き返したんだ」
「時計台?」
「中央の街中にある、あれ」
路地裏でのできごとをひととおり中尉に話し終えると、僕は何故だかとても安心した。安心というよりは、肩の力が抜けた感じ。大佐や兄さんがああなってしまった今、それを知るのは僕とエンヴィーだけだったから。いや、もう僕だけになってしまったんだろう。だってエンヴィーは、……。
「でも、エドワード君が焼かれた訳ではないんでしょう? 彼の身体のどこにも火傷なんてなかった。小さな傷や古傷はあってもね」
「僕は見てただけで詳しいことはわからなかったんだけど、後で兄さんに聞いたら、エンヴィーは兄さんに手を貸したみたいなんだよね。ほら、エンヴィーってなんにでもなれるじゃない。大佐の焔に焼かれたのは、兄さんに偽装したエンヴィーだった」
「ふうん……まあ、大体のことはわかったからいいんだけど……エンヴィーはその後どうなったの?」
「わからない。兄さんが隠れて様子を窺っていた僕に気づいて……無我夢中で僕たちはそこから逃げたから。大佐に見つからないようにって」

そして皆に別れの言葉さえ告げずに、僕らは中央から離れることに全力を尽くした。頭には賢者の石を守ることしかなかった。
「じゃあ、賢者の石の対価はどうしたの? その後エンヴィーに会っていないというなら……」
「払ってないんだ。兄さんがエンヴィーに後でって言ったらしいから……。でも多分、エンヴィーは……大佐の焔に焼かれて、死んでしまったんだと思う」
あの日を思い返しながらそう言うと、中尉は目を丸くして驚いた。
「不死身の人造人間よ?」
「大佐の焔は……どうだろう、すごく強かったんじゃないかなあ。僕もよくわからないけどさ」
これは勝手な推測でしかないけど、と前置きしてから、それにと僕はつけ足す。
「僕は、エンヴィーは死にたかったんじゃないかと思ってるんだ。死ぬことのない身体だったからこそ、死にたかったんじゃないかって」
「死にたかった……私には彼らの考えることはちっともわからないから、なんとも言えないわね。……何年も、何百年も変わらずそのままの姿で過ごしてきた、彼らの心理なんて、少しも」

ある人物によってつくられた人間たち。彼らは何百年も老いることなく生き長らえてきた。そんな彼らは日々何を思い今日まで生きてきたのか、僕にだってわからない。わかる筈もなかった。だって僕はまだ、たったの十余年生きているだけだから。

「でも中尉、詳しいことはわからないけど、今回のことは全部エンヴィーが仕組んだとしか考えられない。大佐があそこに現れたのは偶然だったのか、それともエンヴィーによるものだったのかなんて、考えなくてもいいことかもしれないけどね」
だけれどエンヴィーが仕組んだということにすれば、僕たちに賢者の石を差し出してきたことも納得できる。
「その推測が正しければ、エンヴィーの言う対価は……彼が望んでいたのは、『確実な死』……。うん、ありがとう、話してくれて。今日はもう遅いから、この話はここまでにしておきましょう。さっきは怒鳴ったりしてごめんなさいね」
「いえ。僕も色々……すいませんでした」
立ち上がる中尉に習い、僕も椅子から腰を上げた。
「あ……訊き忘れていたけど、賢者の石は手に入れたんでしょう? なら何故、錬成時に石を使わなかったの? そうすればエドワード君だってあんなことには……」

あんなに苦労して手に入れたのに、兄さんは錬成時に賢者の石を使わずに、自分の魂を差し出してしまった。その理由としては大佐を裏切ったことに罪悪感を覚えたのと、やはりその石は使いたくなかったからだと、僕は考えている。
「その石を作るために、何人もの人たちが犠牲になっているし……兄さんは、そういう人です」
そうね、と中尉は頷いた。

そんなどうしようもなくやさしい人じゃなかったら、こんなことにはならなかったんだけどね。大損だよ、まったく。

「そうだ、中尉。さっき、人造人間は不死身だと言ったよね。でも普通に考えて、そんなことある訳がないんだ」
「……それは、」

「いくらつくられた人間であっても、人間である限り、人はいつか死んでしまう。それがこの世界に生けるものの定めだから」

それなのに不老不死を望んだりするから、こうやって綻びが露見するんだ。だけれど、周りが朽ちていくのにどうして平気でいられるんだろう、彼ら人造人間は。僕だったら、共に朽ちて土に還りたい。永遠の命なんてほしくない―――そう思うのはきっと、僕が長い間鎧姿で、不死に近い状態だったからかもしれないけれど。

「でも私は、少しでも長い間生きていたいと思うわ。ちょっとこの世の流れに逆らっていてもね」
「どうして?」

「だって、好きな人とはずっと一緒にいたいじゃない」

さらりと中尉はそんなことを言ってのけた。母さんの笑顔と中尉のそれが重なって、このひとはしあわせにならなくちゃ駄目だ、と強く思った。
―――じゃあ僕、兄さんとこ行くんで、これで。引き止めてごめんなさい」
「いいのよ、別に。気をつけてね」





僕らがずっと願ってやまなかった目標点に到達したのは少し前のことだった。
結果として僕は身体を門の向こう側から引っ張り出すことに成功した訳であるのだけれど、兄さんは同等の対価として魂を渡してしまった。僕らが信じた等価交換の原則だ。

兄さんは今、中央の病院で過ごしている。といっても魂がないのだから意識はなく、放っておけば勝手に目覚めるということもない。それは植物状態と言ってよかった。

自力で生きてはいられないので、左手に何本もの点滴用の管が伸びていた。当然のように右手は機械のままだった。呼吸器と心電図の規則的な音が絶え間なく聞こえ、その中で僕は毎日兄さんのそばにいた。
気が狂うかと思った。一分一秒が、その場所ではとてつもなく長い時間に感じられて。

「裏切りの、報いなのかな」
答える声はない。
「だからってこれはないよ……どうして兄さんだけ? 揃って背負った咎じゃないか」
規則正しい機械の音と呼吸音だけが、兄さんが生きている何よりの証拠だった。
少しでも気を緩めると、泣いてしまいそうだ。これより苦しいことがあったかどうか定かではないけれど、少なくとも結構これはきつい。

「ごめんね兄さん」

いかに天才錬金術師であろうとも、対価なしに錬金術は行えない。僕らは門を開けるための対価を持っていなかった。ただひとつ、思いつくもの。最早伝説上の存在となっている賢者の石である。
数多の生きた人間を使って作り上げる赤い石の力は絶大で、対価なしに錬成を行える唯一の術。それさえあれば、と僕らは賢者の石を探しに旅をしていた。

僕らの行く末は決まりきっていた。例え敵の手を握ってしまうことになろうとも、裏切りの行為に手を伸ばそうとも。
「やっぱり、こんなことしなければよかったね。……中尉にも怒られちゃったし。女の人、泣かせちゃ駄目だよねぇ……」
思い出すのは、酷くやさしく笑む兄さんの姿。一番新しい、記憶の中の兄さんの最後だった。
今になって気づく。エドワードはその時点でもう決意し、だからそんな風に笑えたのだと。それでも笑っていたのだと。

そんな記憶は、あの日と同じように、黒く塗り潰してしまいたかった。―――賢者の石を手に入れた日のように。

「……もう遅いか」





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