20100603/どれだけ反実仮想を願っても、どれだけ環状線に抗ってみても、いい方向へ転がったためしがない
な瘡蓋

自宅から歩くこと約二十分、そこには割と深い川を跨るように架かっている橋があるのだけれど、その橋は以前から知らない人はいないだろうというくらいに有名だった。きっと地図にもそこまで大々的にかかれていない、人気のない辺鄙な場所であるにも関わらず、だ。
では何故その橋がそれ程有名なのか? それは今、オレがそこへ向かっている理由のためであることは間違いない。平たく言えば――その橋梁は、昔から自殺の名所である。
けれどそこには既に先客がいて、その上橋の欄干に片足をかけているところだった。
「……なんなんだよ、おい……」ほら見ろ、と。悪いことはするもんじゃないだろ、と誰かが頭上でほくそ笑んだ気がした。「先越されるとかまじあり得ねえ……」
面倒ごとを徹底的に嫌うオレの身体はそれこそ足の裏が地面に縫いつけられたように中々前へ踏み出そうとしなかったけれども、これも自分のためと思い今まさに飛び降りんとしている男に飛びついた。ああもう、どうしてオレが他人の自殺を止めなければならないのだ!
「な、なんだ君は! 私の邪魔をするな!」
男は当然、狂ったような顔で狂ったことを吐いたけれど、そんなもの、今のこのオレにはなんにもならない。それどころか邪魔をするなと文句をつけたいのはこっちである。
「うるせえ、てめえこそまじ大迷惑なんだよ! 何も今日死のうとしなくたっていいだろうが!」
「どの口が言うんだ!? 私はな、ずっと前から決めてたんだよ! ここで死んでやるとずっと前から決めてたんだ!」
「あーまじお前うるせえ!!」
いかん、これでは相手のペースに乗せられてあれよあれよと思いもしない方向へ漂着しそうな勢いだ。ここはひとまず落ち着け、オレ。それがおそらく得策だ。
「……何も死ぬなとは言ってねえよオレは。お前なんか後でいくらでも死ねよ」
「な、なんだねその言いぐさは」オレの本心、そのありのままを伝えたのだけれど、何やら男はお気に召さなかったらしい。「君は、目の前に死のうとしている人間がいて、いくらでもし、死ねだと!? 鬼だな! 鬼でなければ、君は、悪魔か!」
「鬼でも悪魔でもどっちでもいいけどさ、お前何? まじなんなの? 死にたいのか死にたくないのかはっきりしろよまじで。大人だろ」
「まじまじ連発してる君に言われたくない」
落ち着け落ち着けと念仏のように頭で唱えていても、いちいち面倒くさい対応を取られるとどうしてもいらっとしてしまう。この目前でぎゃあぎゃあ喚いている二十代後半くらいに見える男は、こめかみに変な汗をかいて顔面はもはや蒼白で、死を決意した人間とはとても思えなかった。――だってどうせ死ぬのなら、どんな事物も自分にはすべて関係ないものになるのだろう。なのに男のその態度は、まるでこの世に未練があると言っているようだった。
「お前、ほんとは死にたくないんじゃないの」オレは頭をがしがしと掻きながら、うんざりした口調で男に尋ねる。このままではオレの願望は果たされないまま終わってしまいそうだ。「お前、ほんとはオレに引き留めてほしいんじゃないの」
「……君、名前はなんて言う?」
それなのに、オレが問い返されてどうする。
「死ぬ気なら別に知らなくていくね?」
「今、君に、君の名前で話しかけたい」
なんじゃそら、と思いながらも、教えなければ教えないでまた面倒くさい事態に陥りかねないと思ったオレは、素直にエドワードと名乗った。
「じゃ、エドワード、私の話をしてもいいかな」
「そういう訊き方をする奴は、駄目だと言っても勝手に話し出すのが九割」
なんせオレもそういう人種だ。男は乾いたように笑って、口を開いた。妙に朗らかな口調なのに、表情は吃驚するくらい生気がない。成る程、逆だったか。死のうとしているから、こんな顔になるのか。
「私の名前はロイと言うんだけどね。あ、ロイで構わないから」
「呼ばねーよ」
「まあ、呼びたくなった呼んでくれ」で、ええと、なんだっけな、とロイは橋の柵に寄りかかって、そのままずるずると地面に腰を下ろした。「そうそう、私はとてもくだらない理由で死のうとしているんだ」
「………………あん?」しっかりオレは、三点リーダーむっつ分黙って返した。唐突に何を言っているのかと思ったのを表したかったのではなくて、本当に呆気に取られたからである。「おめーは、なーにを、言ってるんだ?」
「親友が死んだんだ。いや、盟友と言ってもいいかもしれない。とにかく、彼は私にとって特別な男だった。でも死んだ。だから私も死ぬ。彼が死んだのに私が生きているのはおかしい。だから、私も死ぬんだ。――どうだい、実に、くだらないだろう」
そう自嘲気味に零してから、男は立てた膝に顔を埋め、喋るのをやめた。
この沈黙はもしかして、オレが何か返すのを期待しているが故の沈黙なのだろうか。だとしたら、それには報えない。オレには言うべき言葉もないし、また何も言うべきではないと思った。オレでは、その役割を演じるのはどう考えても無理だった。
「……オレにくだらないとか言う権利、ないんだよね。だからそんなこと言われても困る訳、まじで」
「まあそれでいいよ。誰に何を言われようが、最期に決めるのは私なんだから」
くぐもった声を耳にして、オレは迷っていた。言ってはいけないのかもしれないと。ただ今のオレは他人に気を遣う余裕などある筈もなく、だから悩んだのもほんの僅かな間のみだった。
――オレはさ、死ぬならオレの後にしてって言いたかっただけ。面倒ごとは、嫌いなんだ」
「……はは、どう見ても君は、長生きする人種だよ――」俯いた顔を上げた彼は、すぐに駭然として目を見開いた。オレはそれを視界の端に掠めながら、古びて錆びついた橋の欄干に足をかける。「――エドワードっ!」
男の叫ぶ声を背中に受けて、オレは跳んだ。
昨日は大雨だったから、水嵩も増しているのかもしれない――なんて、暢気に考えた。
何故ここが自殺の名所に選ばれるのか。何故死にたがりは皆ここへ集まるのか。そんな取りとめもない問いの答は、飛び降りてみてはじめてわかるものなのだろう。残念ながらオレは――強烈に足首に走った激痛により、その答まで辿りつくことはできなかったのだけれど。
「……まじこれどういう状況……」
オレの足首は絶対に、骨がいってしまったと思われる。遥か下方を眺めれば、勢いづいて流れている水が今にもオレを飲み込もうと流れているように見えたけれど、そうしてる間にも男はオレの身体を引っ張り込んでいて、結局オレは助かってしまった。……ここへは一体何をしにきたのだろう、オレは。
「きみ、紛らわ、し、いかたす、な、よ……!」
「なんだって?」大きく荒げた息遣いで殆ど何を言っているのか聞こえずそう尋ねれば、男はちょっと待てと言うように、手のひらをオレに向ける。「……たいした運動してないと思うんですけど……」
「あー、まあ、基本、デスクワークなんだよ、私は」
最後に一際大きく息を吸い込んで、男は漸く落ち着いたようだ。
「で、何。なんでオレは今生きてるんでしょう」
「……紛らわしい言い方はやめておいた方がいいと思う」
「答になってねえしお前が勝手に勘違いしたんだろ」
オレは全然ちっとも紛らわしい言い方なんてしていない。死んでもいいけれどそれならオレの後にしてくれ、と。むしろそのままだ。
「……どうしてくれんのよ、まじで。今頃オレは死んでる筈なのに」痛え、と男に掴まれた足首を押さえれば、そこは異常な熱を帯びている。こうされる謂れはまったくないと思うと、「あー、まじ、腹立つな……」
「……私の目の前で死のうとした君が悪い。大体、最初に止めたのは君だ」
「なあ、オレの足、まじやばくね? 見ろよこれ、すっげー腫れてるんだけど」
「人の話を聞いているのか?」
「お前の話なんか聞きたくねえよ」明らかに不満げな男に吐き捨てる。「大体、最初から気に食わなかったんだ。お前の自殺理由とかな」
「……だから、くだらないと言っただろうよ」
「あー、親友だっけ? 盟友? ま、どっちでもいいんだけど、それが死んだくらいでなんだよ。馬鹿か? とても気持ち悪いです。くだらないというか、意味不明です。『彼が死んだのに私が生きているのはおかしい』。はあはあ成る程――なんて頷ける訳ないし。逆にそれだけで死ねるって、お前ら、どんな関係性築いてたのって感じだし、まじで」
男の持ち出した訳に返すことはないと、ついさっきまでそう思っていたのに、怒りに任せて口からぽんぽん文句が飛び出てくる。オレは死ねなかった。オレの決意は水の泡。――オレの腹の虫は、なかなかおさまりそうにない。
「じゃあなんだ、君は死ぬ正当な理由があるとでも言うのか? 私のそれよりもっと高尚な、誰が聞いても納得するような、そんな理由があるとでも言うのか?」
「ねーよ」
オレはそう答えた。若干の虚偽と、若干の真実。あるようでないような、そんなたいしたことのない理由のもとに、オレは行動を起こしていたのだ。それ以前に、人が死ぬことについての高尚な事由など、ありはしない。オレはどんな訳もすべてをそうやって切り捨ててやる。
「……原因なくして結果は起こり得ない。それ相応の原因があるから、結果まで辿りつくんだ。どんな事象もそう。君の足だって、」言いながら、男はオレの、赤を通り越して黒ずんできた足首を、「私が原因をつくった」と力任せに――引っ張った。
「いだいっ! いだだだだ、やめれ、まじやめれ、まじ痛えんだって!!」
何してくれやがる! あまりの痛みに反射的に拳を繰り出すと、男はさっと身を引いてかわした。それとともに手も離される。
「こんな怪我で騒いでるくらいだ、死ぬときは、もっともがき苦しんで死んだだろうな。川に飛び込んですぐ死ねると思ったら大間違いだぞ?」
「っせえな、お前に言われたくない!」
「私はどちらかと言うと、苦しんで死にたかったから、いいんだ」男は何か思い浮かべるようにして、そのまま目蓋を下ろす。「美しい死にざまなんて、いらない」
「……なんでよ」
「どうせ『気持ち悪い』理由だから、言いません」
「根に持ってやがる……いい大人が、がきみたいな真似すんなよ」
「大人だとか子供だとか、何も関係ないよ。責任は同じ重さであるべきだ」
「子供にはもう少し寛容になれよ――じゃあない、ちょっと八つ当たり入ってたの。謝るから。お前も悪いんだけどな」
「あくまで貫く気か……いや、いいか、遺言がわりに誰かに聞かせるのも」
遺言――オレはそれについて一度も考えてこなかったけれど、やっぱり用意くらいはした方がよかったのだろうか。

inserted by FC2 system