立ち入り禁止区域―今はもう崩れるのを待つばかり。


錆 び た 鉄 柵





こんにちは、と白衣の男は言った。おそらく医師だろう。こんにちは、と挨拶を返す。
「自分の名前は?」
わかりません。
「何も覚えていないのかな?」
ごめんなさいわかりません。
「じゃあ、こちらの方は?」
医師に促されて、ドアが横滑りに開いた。入ってきたのは青色の服を着た、黒髪の男だった。第一印象は怖い人。だってすごく険しい顔をしていたのだ。
「わからないかな」
少し迷ってから、やっぱりわからないと応えた。その瞬間、男の眉間が一層深まり、いけないことを言ったんだということに気づいた。空気も余計重苦しくなったのを感じる。
「……でも、本当にわからないんです」
素直に白状すると、男は俯いてしまった。

「鋼のが、敬語なんて、な」

その呟きの意味が、このときはまったくわからなかった。




  1

何がどうなってこんな状態になったのかは定かではない。ただ、気づいたらどこかの施設で、自分はのうのうと眠っていたらしい。起きたらそばにいた女性が具合はどうかと訊いてきたので「普通です」と答えた。彼女もオレの言葉が信じられなかったようだった。それからすぐに彼女は医師を呼び、冒頭に至るという訳である。

「なんか、オレ、変なこと言いましたか」
「……自覚はないのよね…仕方ないわ。ごめんなさいね」
あなたが謝ることはないのに、そう言うと、余計におかしなものを見るような目で見られたので、これ以上何も喋りたくなくなった。
「さっきの人……」
「ああ、彼は……えっと、どう説明すればいいのかしら……あの、そう、エドワード君の知り合いよ」
「エドワードって」
「……エドワードというのは、あなたの名前。エドワード・エルリック」
「でもさっきの人は、オレを鋼って呼んだように聞こえたけど」
女性はあの男がしたように、眉を寄せて苦笑した。
「あなたの愛称……とでも言えばいいのかしらね」
愛称で鋼か。どんな由来があっての愛称なのか気になるところだったけれど、それを追求すればまた目の前の女性を哀しませることは明白だったのでやめた。
「……オレ、軍とどういう関係だったんですか? あの人も、あなたも、軍人でしょ?」
―――……昔のことよ」
昔って、それが答えな訳か?
「あなたは今、怪我をしているの。だから無闇に動き回らないこと」
そう言うと彼女は「少し待っていて」と病室から出て行った。
「怪我……?」
見れば特に目立つ外傷はない。けれど自分の身体を眺めて、驚愕した。右手が機械だったのである。確かこれは機械鎧という特殊な義肢の筈だ。もっと見れば右腕だけではなく、驚くことに左足まで機械になっている。おまけに身体は細かい傷が沢山ついているし、だけどその理由が思い至らないことに複雑な気持ちを覚えた。それに、気づいたことが他にもある。どう頑張っても、―――今日から前のことを、オレは思い出せない。
「そういう、こと」
オレは悟った。どうして腕と足が機械鎧で、身体中が傷だらけなのかはわからないけれど、要するにオレは記憶を失ってしまったに違いない。過去を振り返ることができないでいるのはそれで説明がつくし、先程の医師の診察も、あの男や彼女の反応も頷けるというものだ。
だけど、どうして誰も、オレが記憶を失っていると教えてくれなかったのか。
「なんなんだろうなあ……」
どうせこうして気づいてしまうのだし、そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに。



  2

「大佐」
リザは病室から出るなり、すぐにロイを呼んだ。しかし彼はその声に答えず、壁側に寄せてある椅子に座り、項垂れている様子だった。
「……ショックだったのはわかりますが…、」
「ただショックなだけで、天下のロイ・マスタングがこんなにへこむか」
「なんですかそれ。ショックだからこそへこむんでしょう」
ロイもロイで自分の言ったことがよくわかっていないらしかった。
「中尉、彼は?」
「元気そうでしたよ。ただやっぱり、自分の名前さえ覚えていませんでしたが」
リザはそう言いながら、ロイの隣に腰かける。
「……正直、どこまで教えていいものか、迷いました。あの子に本当のことを告げるのも残酷でしょう? だからあの子の名前と、大佐についてしか教えていません。けれど、最低限の知識はあるようです。私たちが軍人だとわかっていたようですから」
ふむ、とロイは頷いた。彼女の考えは正しいと思う。
「アルフォンスとも相談せねばな……そうやって一番傷つくのはアルフォンスだろうが」
何もわからないままのエドワードに、今までどおり旅を続けろ、などとは決して言えない。彼のことだから、きっとがむしゃらに走り回るのだろうが、とロイはつけ足した。
「すべてはアルフォンスに任せよう。鋼のの記憶が戻るまで待つのか否かを」
ゆっくりと立ち上がる。ロイは挨拶していこうかと考えたが、きっと八つ当たりしてしまいそうになるに違いなかった。どうして忘れてしまったのかと、問いつめたくなるに決まっている。
「いいんですか?」
「最低な男だと認識されるのだけはごめんだからな」
「……それで大佐、どのくらいまでは教えても?」
「彼が望むままに、と言いたいところだが……あまり裏に突っ込まないように、上手くやってくれ」
「承知しました」
そう言ってリザは再び病室のドアを滑らせた。




  3

アルフォンスにはまだ何も告げてはいなかった。「君の兄が記憶をなくしたよ」とさらりと言ってのける程簡単なことでもない。ある程度言葉を選ぶ必要がある、とロイは考えつつアルフォンスの元へ向かった。エドワードが担ぎ込まれたとき、「一緒に行きます」とアルフォンスが申し出たのをロイは却下したので、彼は今、一階のロビーで待っている筈だった。

目を凝らして捜すまでもなく、彼はすぐに見つかった。鎧というのは大変目立ちやすいものである。
「アルフォンス」
ロイが声をかけると、アルフォンスはすぐさまロイに詰め寄った。
「大佐、兄さんは無事なんですか!? どこも怪我してないですか!? 兄さんは今どこにいるんですか!? 兄さんに今すぐ会えますか!?」
「わかった、わかったから。少し落ち着きなさい、彼なら大丈夫だから」
がくがくとロイの両肩を揺らし取り乱すアルフォンスを宥め、ついでに「今は中尉もついているから」と言っておく。
「ただ、少し話したいことがあるから……外へ行こう」
「話なら、ここでできるじゃないですか」
「いいから、ついてきなさい」
首を傾げるアルフォンスを連れ立たせ、ロイは外へ出た。悪夢のような日であるというのに、空には雲ひとつなく、太陽は憎らしいくらいに輝いている。
「話ってなんですか?」
「鋼ののことだよ」
「兄さん、どこか悪いとか……」
「悪いといえば、悪いのかもしれんな」
曖昧にロイは返すが、内心ではどう言えばいいのかまるでわからなかった。できるだけアルフォンスを傷つけたくはないと思うのだが、上手い方法が見つからない。暫く悩んだ後、ロイは結局ありのままを話すことにした。
「落ち着いて、聞いてくれるかな」
「はい」
「鋼のは、事件のことも、何もかも忘れてしまっている。一切の記憶をなくしてしまった」




  4

エドワードが記憶をなくすきっかけは、彼の不注意によるものだった。
そもそも前を向いていればよかったのだ。たとえ彼が菓子パンを片手に食べ歩きを行っていようとも。
いくらアルフォンスが注意したところで、エドワードは反発してしまうのだから無駄であると彼にだってわかっていた。それが毎度の反応であるのだから。だがしつこく言い聞かせておけばよかったのである。兄さん前向いて歩かないと危ないよ、とか、なんとでも言うことはできた。
「兄さんがあんな風になってしまったのは、僕の責任なんです」
「それは違うだろう、完全に自業自得だ」
エドワードが記憶喪失になってから三ヶ月が過ぎた。いまだ記憶は欠片として蘇っていない。
「でもまさか、運動神経のいい兄さんが……階段に気づかないでそのまま転げ落ちるだなんて、思ってもいませんでした。泊まった宿の階段なんですけど、後ろ向きに歩いてそのまま気づかないで……」
「過ぎてしまったことは仕方がない。鋼のの記憶が戻ったら言ってやりなさい。なんて馬鹿なことをしたんだ、とね」
おかしそうにアルフォンスが笑ったので、ロイもつられて笑った。

エドワードの記憶がいつ頃戻るかもわからないが、アルフォンスは辛抱強く待つという。それまで旅はしない、ということだった。今、兄弟はリゼンブールで過ごしている。
それが一番いいのだろうな、とロイは思った。




  5

「エドワード君、今の話……聞いていた?」
病室に戻ると、不思議そうな表情でエドワードはリザを見つめた。
「そりゃ、すぐそこで話してたから聞くことはできただろうけど、聞いてないよ。あんまりよくない話でしょ?」
「……気を遣わせてしまったわね」
先程よりも崩れた、エドワード本来の話し方に近づいていたことに、リザはほっとする。少なくとも、彼はリザの知らないエドワードではない。
「ううん、別に」
「何か訊きたいことがあるんでしょう?」
そう問えば、彼は少し首を捻りながら口を開いた。
「訊きたいことというか、さっきの人、えっと……軍人の、偉そうな人。そこで喋ってた」
「大佐のこと?」
「そう、多分その人。その人にさ、謝っておいてくれる?」
すまなさそうにエドワードは苦笑した。
「思い出せなくて、ごめんって」

たとえ記憶がなくなっても、エドワードはエドワードなのだ。彼なりの気遣いとやさしさを感じて、リザは笑みを深めた。




  6

リゼンブールでの暮らしはすべてが初めて見るものばかりで、ちっとも退屈しなかった。周りの人も皆やさしくて、色々と面倒を見てくれて。記憶がなくてもいいかと少しだけ思ってしまった。思い出せなくてもいいとまで―――けれど。
『鋼のが、敬語なんて、な』
その呟きの意味を知った今は、とてもじゃないけれどそんなこと、口が裂けても言えない。他にも、オレはきっと無神経なことばかりを言ってしまっていたんだろう。自覚がないとはいえ、最低なことだ。ああもう、オレって最低。

「本当に大丈夫? 僕もついてくよ?」
「いいよ、別に。記憶がないとは行っても、どうやって汽車に乗ってたのかとかは覚えてるし。だからひとりで行けるよ。ていうか、ひとりで行かせて」

ということで、オレは今、リゼンブールではなく中央にいる訳なのだが。
「……どうやって会いに行けばいいんだ…?」
司令部の門前には見張りみたいな人が立っていて、何やら軍の関係者でなければ入れないようだった。オレは昔、といっても最近のことだけれど国家錬金術師だったらしいから、その証である銀時計を持っていればすんなりと通ることができたんだろう。
けど今はそんなもの持っていないし、仕方なくオレはあの人の名前を告げた。こっちではあの人も随分と偉い人みたいだし。
「マスタング大佐とどういう関係だ」
「え? オレ? えっと、……」
逆に尋ねられて、戸惑う。あの人はオレの後見人だとは教えてもらった。だから一言そう言えばいいだけの話だろう。でも何故か、そのことを言うのは躊躇われた。
あの人の知り合いであるのは昔の、国家錬金術師だったオレで、記憶をなくしたオレではない。全然違う存在だったから。
「とにかく、マスタングって人にオレが会いにきたって伝えてください!」
「ったく…一応連絡はしてみるが……坊主、名前は?」

「エドワード・エルリック」

フルネームを言うのも、誰かに教えるのも、初めてだった。




  7

「つーか、エド遅くないっすか?」
窓の外を眺め、ハボックは呟いた。上司が煙草を煙たがるので吸うのは自粛しており、口元が淋しいからと飴玉を舐めているため少々滑舌は悪かったが聞き取る分には問題なかった。
「……ハボック、今なんて言った?」
「へ? 遅くないっす、か?」
「その前だ!」
「エド……あれ、もしかして大佐に言ってませんでしたか!?」
「初耳だ! 何故そんな大事なことを言わないんだ! お前なんか格下げだ、ついでに給料も大幅カットだ!!」
「やめてください!! 職権乱用反対ッ」
「大佐も見苦しいですよ」
リザは新たに鳴り響いた電話の受話器を取りつつ、ロイにことのあらましを説明した。
「昼前にアルフォンス君から電話があって、兄がそちらへ窺うからよろしくと言われていたんです。大佐に告げなかったのは、驚かせた方が面白いかなと思いまして。勿論私の独断ですが。……ああ」
電話の向こうから聞こえてくる交換手の声が、ひとつの名前を告げた。
「丁度そこに、エドワード君が到着したみたいですね」




  8

まだ心の準備も何もしていないのに、何がなんだかわからないまま通されてしまった。
あの門前にいたごつい兄ちゃんに名前を教えると、ものすごく驚いていた。銘じゃなくて名前を聞いただけでわかるってことは、オレって結構有名だったらしい。すご。
んで、オレが道わからないって言ったら、ご親切にもあの人がいるところまでの道を、訝しみながらも教えてくれた。結構見かけによらずやさしい兄ちゃんたちだった。

「えっと、その……。初め、っと。お久しぶり、デス」
「はは、何固くなってんだよ。久しぶりだなあ、大将! 元気にしてたか?」
「はい、皆よくしてくれます、し」
なんかよくわからないけど、すごく緊張する。喋りが変だと自分でもさすがにわかった。
「いいよいいよ、敬語なんて。お前は誰にだって普通にタメ口きいてたしな」
「は……うん」
目の前に座る、これまた人のよさそうな兄ちゃんはジャン・ハボック少尉……だと思う。ここにくる前に、ひととおり軍部内で面識のある人をアルに教えてもらったのだけれど、大まかな特徴を聞いていただけなので、あまり自信はないのだ。
けど、聞いてきてよかったと改めて思う。きっとこの人も、オレが一日でも早く記憶を取り戻すことを望んでいるのだろうから、あんた誰? なんてこと、訊ける訳がない。
「大佐に会いにきたんだよな? でもあの人、これから軍議なんだよ。だからもうちょっと待っててな」
「あ、うん。別に構わないけど」
「お前さ、リゼンブールからひとりできたんだろ? なんにもなかったか? 最近色々と物騒だからなー」
「何もなかったよ……あっても、大丈夫。オレ、昔のことは忘れちゃったけど、身体は覚えてるってことあるし。戦える」
「……そっか。じゃ、そこら辺の奴なら全然心配することねぇな」
「でも、錬金術は使えなくなったから、わからないよ」
「…………そっか」
「うん」
オレは錬金術を使えなくなった。アルのように両の手のひらを合わせる錬成方法も勿論できなくなったけど、錬成陣を描いても駄目だった。理由はわからない。真理ってのを見た奴だけが錬成陣いらずの錬成を可能とするなら、オレができないのも頷ける。だけど。
「いくら錬成陣描いても、これっぽっちも発動しないんだ」
そんなの錬金術師と呼べない。だからオレは銀時計を持ち歩いていない。盗まれたら困るので、アルに預けている状態だった。
「そんなに気にすることでもないんじゃね?」
「……気にするよ。錬金術がオレのすべてだから。それが使えなくなったオレなんて、」
―――今ここにいる価値もない。
「違うだろ、エド」
「何が」
「中々今までのことが思い出せなくて焦ってるのかもしれないけど、錬金術が使えるからっていう理由で、俺たちは大将のことが好きなんじゃないぜ?」
「じゃあなんで―――
少尉はそれくらい自分で考えろと言って、教えてくれはしなかった。




  9

「おっそいですよ」
ロイが軍議を終えて戻ってきたのは、あれから二時間後のことだった。
「悪いな、長引いたんだ。……エドは?」
「疲れたんでしょう、仮眠室でぐっすりな筈ですよ」
「そうか……」
ロイはそう言い、執務机に歩み寄る。積み上げられた書類の山を見定めた途端、げっそりとしたロイはそのまま椅子を引いて座った。ハボックがペンを取るロイを見つめていると、その視線に気づいたロイは顔を上げ、「なんだ」と眉を寄せた。
てっきりハボックは、ロイがまっすぐにエドに会いにいくと思ったので、その行動は意外だったのだ。
「……行かないんですか?」
「仮眠室にか?」
問うと、ロイは当たり前だろうと返した。
「寝ているのであれば起こす必要はない。ゆっくりさせておけ。目が覚めたらあっちから会いにくるだろう」
「そりゃそうかもしんねーですけど」
やっぱここで待たせておけばよかったかな、とハボックは思った。
「でも、すっげー大佐に会いたがってたみたいなんですよね」




  10

―――あれ……オレ、どれくらい寝てたんだろ……。
「喉乾いたな……」
感じからして、結構眠ってたんだろうと思う。壁にかけられた時計に目をやった。けど暗くてよく見えなかった。
「もうそろそろ、帰ってきてるかな……」
寝起きからか、上手く頭が回らない。
「……もうちょい寝てよっかな」
そう思って、目を閉じた。
足音とドアが開く音が聞こえたのは、それから少ししてからだった。




  11

『会いたがってた? 鋼のが?』
『ええ。なんでこっちきたのか訊いたら、大佐に会いたかったとか言って』

電気がついている様子はなく、まだ寝ているのなら。そう思い、ロイはできるだけ足音も静かにドアを開けた。
ハボックから聞いたことが嬉しくて仕方がなかった。記憶をなくしても私に会いにきてくれる、そのことが何故だかとても嬉しかった。寝ていてもいい、すぐに会いたいと心の底から思ったのだ。
「……誰? もしかして、大佐?」
ぽつりと呟かれた声がエドワードのものだと認識するまで、そう時間はかからなかった。
「すまない、起こしてしまった」
「いや……さっき起きたとこだから」
目を擦り起き上がるエドワードを、ロイは制す。
「まだ眠いなら寝ていなさい。何も今日帰らなくてもいいんだろう?」
「うん……」
彼はまだ夢の中なのかもしれない。おかしな敬語も忘れ、言葉も拙い。まるでエドワードのようだ、とロイは思う。この子はエドワードであるのに、頭ではわかっているのにふとそんな考えが胸をよぎる。記憶を失った以外変わったところはなく、エドワードそのものであるのに、まるでエドワードのようだ、と。
「……あのね、大佐。オレ、変な夢見た」
「変、とは?」
「その夢の中で、オレは『オレ』に会うんだ。『オレ』は身体を返せって言って、オレは記憶を返せって言う。でも絶対ひとつになろうとしないんだ……疲れる夢だった」
―――この子はこの子で痛みを抱えている。ロイはエドワードに何も言えなかった。
「……そしたらあんたがきて、仲よくしろって怒るんだよね。……オレ、あんたに謝りにきたんだ。色々無神経なことばっか言って、ごめん」
起き上がり、エドワードは項垂れた。
「そんなこと私は気にしていないから、君も気にしなくていい」
頭を上げようとしないエドワードに、ロイは言う。

「顔をあげなさい、鋼の」




  12

ショックだった。何がショックって、この人がやさしく声をかけているのがオレじゃないってこと。オレじゃない「オレ」。この人は、オレを見てくれていないということを知って、愕然とした。
「……オレは、鋼じゃないよ…」
きっとこの気持ちはわからない。それでもオレは、これだけは言っておきたかった。不意に少尉の言葉が蘇る。
『錬金術が使えるからっていう理由で、俺たちは大将のことが好きなんじゃないぜ?』
じゃあ、その大将ってどっちのこと?

「あんたの言う鋼ってオレじゃないだろ? あっちの錬金術が使えて、あんたのこともちゃんと覚えてるエドワードだろ? 一緒に、一緒にすんなよ!」
理不尽な怒りだってこともわかっているけれど、止めることはできなかった。頭の中ではどうして誰も理解してくれないんだ、そればかりが巡っていて。
―――どうしようもなく、つらい。

「……あんたが求めてんのは、オレじゃないよ……どう頑張ったって、あんたの好きなエドにはなれないんだから!」
失くした思い出の片鱗をなぞることすらできなくて、そんな自分に嫌気が差して、怒りをどこにぶつければいいのかもわからなくて。ずっと抱え込んできたもやもやした一向に晴れない感情が、ここへきて爆発してしまった。
「親しい人の顔も、思い出も、何ひとつ思い出せない! ……錬金術すら使えないんだ、がっかりだろ?」

今のオレは、最高に醜い。




  13

大丈夫、すぐに思い出せるから。そう言って肩を叩くのは簡単だった。それでもそうしなかったのは、上辺だけわかった気になって理解してやったと自己満足に浸ることだけはしたくなかったからだ。
記憶をなくしたことと、錬金術を使えなくなったというストレスが、相当溜まっていたんだろうと思う。自分を知っている人に出会っても顔も思い出せない、申し訳ない、そんな自分に腹が立つ。その堂々巡りだろう。
錬金術が使えなくなったのは一時のことだと思うのだが、焦りや不安が彼を追い立て今も尚使えない……。その不安定の上に成り立つ彼は、とても危うい。
だとしたら、彼に必要なものは「時間」、もしくは「記憶」。

「すまなかった」
「………………」
「許してくれるかい?」
「………………」
「……今日はここで休むといい。何かあったらすぐに言いなさい。私も今日は司令部に残るから」
「………………」
「じゃあ、おやすみ」

終始彼は無言だった。




  14

謝らなきゃいけないのはこっちだった。自分勝手な感情で、あの人を傷つけてしまったんだから。それでもあの人は、オレを責めるなんてことしないで。
ごめんなさい。ごめんなさい。
傷つけてごめんなさい。
思い出せなくてごめんなさい。
辛いのはオレだけじゃない筈なのに、自分だけ可哀相だなんて思って、周りのことなんて全然考えなかった。それだから子供とか言われるんだ。

母さんは、オレとアルが喧嘩したりすると、何故だかいつもあったかいココアを淹れてくれた。オレが牛乳嫌いだったから、いつもココアだった。
それは母さんのやさしさが溶け込んで、おいしかったなと思い出す。
仲直り。ね。
そう言って母さんは笑った。

「謝ろう」

どっちにしろ気まずいのは嫌だから。




  15

コンコン。

私がカップを片手に立ち上がろうとすると、軽いノック音の後に、おずおずとエドワードが現れた。
「どうかしたかい?」
「あの、えっとさ、……今いい?」
「どうぞ」
彼は私の了解を得ると、静かにドアを閉めた。以前の彼ならノックすらしなかったのに。こんなことを言うとまた機嫌を損ねてしまうのだろうな。
「貸して」
エドワードは私が持っていたカップに目を留めると、奪っていった。おかわりでも注いでくれるのだろうか。彼の好きにさせようと思い、私は腰を下ろした。

暫くして彼が持ってきたのは、ほこほこと湯気が立つ、ココアだった。
「これは……」
「……えっと、仲直りっていうか、その、……気まずいままは嫌だから」
はい、と彼は私にカップを渡してくる。
「さっきは、ごめんなさい」
「いや、気にしていないから。私も無神経だったよ。君のことをよく知らないで……悪かったね」
「大佐が謝ることない」
「では、君が謝ることもない。仲直りなんだろう? エドワード」
彼に腰かけるように言うと、遠慮しながらもソファに座った。
「美味しいよ、ありがとう」
「…………うん。……オレの母さんは、よくココアを淹れるひとだった。オレと弟が喧嘩とかすると、いつもそれなんだ。母さんのくれたあったかくて甘いココアを飲むと、よくわからないけど、不思議と、落ち着いてさ」
「ココア、か……久しく飲んでいなかったな、いつもはコーヒーしか飲まないんだ」
「なんで?」
「さあ……一番手頃だからかな」
「ふーん」

その後は、どうでもいい、たわいもないことをお互いに喋って、彼は仮眠室に戻った。私は、執務室のソファで眠った。いや、正しくは、眠ろうとした、だ。
「……ん?」
彼が落とした記憶は身体に染みついたものと一般常識意外だった筈なのに、先程、なんと言っていた?




  16

翌日。
「もう行くのか?」
「うん。特に用があった訳じゃないし」
「そうか」

エドワードがもう帰るというので、私は彼を駅まで送っていった。まだ朝も早いので、ホームに人気は少ない。
「んじゃ、またくるよ」
「ああ、いつでもおいで」
汽笛が鳴る。
「もし記憶が戻ったら、すぐに電話しなさい」
「うん」
「アルフォンスによろしくな」
「うん」
「健康に気をつけて」
「うん」
「早寝早起きを心がけること。睡眠はたっぷりとな」
「うん。……じゃないと背が伸びないゾ☆ とか間違っても言うんじゃねーぞ」
「先に言われてしまったな」
「このやろ……っ」
ロイは知らず知らず笑みを深くした。随分と砕けた口調で話してくれるようになったことが、うれしかった。
ロイは僅かな変化を、確かに見た。
「それでは、また」
「うん」
じゃーね、とエドワードは窓から乗り出し手を振る。
「安心しなさい!」
ロイは遠くなるエドワードに聞こえるように叫んだ。
「君の記憶は、すぐにまた君のものになる」
いつまでも手を振り続ける彼を眺めながら、ロイはひとり、ずっと汽車の行く末を見つめていた。




  17

それから数ヶ月後。
エドワードから「記憶が戻りかけている」と妙に想像しい電話が届くのは、また別の話である。





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