実弾とは名ばかり――逃げるように縋りつく手を払い除けたのが、まるで昨日のことのように思い出される。あんなに偉そうなことを言ったのに。あんなに辛辣な言葉を浴びせたのに。何も一緒にいたくなかった訳ではなくて、ただオレたちの未来を考えると――ああ、また、「逃げている言葉だ……」オレはスチール缶を握り潰せずにそのまま机上に放置する。未練たらしいのは彼ではなくてこのオレだ。缶コーヒーの味が、いつもより苦く感じられた。 文字どおり実弾を手に入れると告げてオレが進んだ道は道徳を説く教師だ。オレは彼に嘘を吐いた。それを彼が知っているかどうかはわからない。そのためには警察でも軍隊でもどこへ行ってもいいと言った、それは当時のオレによる単なる思いつきの口から出まかせだった。――彼が何がほしいのか訊くから。 まだランドセルを背負ってそこら中を走り回っていた、あの日あの頃のオレたちを振り返ると哀しくなるばかりだった。だって彼は、オレ以外の友だちをつくろうとしなかった。オレ以外の人間と深く関わろうとしなかった。オレだってそれには大分早くから気づいていた筈なのに、そのうちどうにかなるだろうと軽く考えてしまってどうしようともしなかった。彼にもオレにも、悪いところはあっての今だろう。安直に生きてきた、これがその結果だろう。 彼を捨てて、一体何年になるだろうか。進学して以来一度も地元に帰っていないと、なんの噂も耳に入ってこない。痛み――は和らぐことはあっても、それでも完全には消えやしない。彼の最後の顔を思い起こす度に死にそうになる。彼はオレに関して最高に弱い人間だった。だからどんなに彼を傷つけたのか想像に難くない――そう、オレが彼を傷つけたのであって、だからオレには泣き言を言える資格はないのだった。だから、もうやめよう。どんなに辛酸を謳っても加害者はオレの方だ。 しかし運命なんてもの、もしくは神さまの悪戯なるものは本当にあるのかもしれない。悪戯なんて可愛いものでは決してないけれども、オレはもう一度紙面を見降ろして、溜息を吐く。――あれから既に十年近くも経ったことを改めて思い知らされる、目にするのも懐かしい名前。――これは、ただの偶然で済ませてしまえるものなのか? そこまで考えたとき、職員室のドアが僅かに音を立てて開く。 「おはようございます」ものおじもせず職員室に踏み込んできた少年は――前もって受け取っていた写真に違わず、はじめて会ったときの彼と瓜ふたつだった。そのときまで時間が巻き戻ったように錯覚してしまう程。その少年はオレの視線に気づき、まっすぐにこちらへ向かってくる。「――先生?」 「うん? あ、ああ、君が、今日からここに通う、」 「ロイ・マスタングです、先生」 ――オレはもしかすると、長い夢をみているのではないだろうか、だって、ファーストネームはともかく、容姿、声すらも同一であるなんてこと、そうそうあってたまるか。――知らず知らず眉が寄る。 「……保護者の、方とかは」 「親は仕事が忙しいみたいで」 「ひとりできたのか?」 「僕ももう十四ですよ。必要な書類もちゃんと持ってきたし、それでいいですよね?」 「ああ、まあ」 「僕のクラスどこですか?」 「……もうすぐチャイム鳴るから、一緒に行こう。君のクラスは二年A組。で、オレが担任のエルリック。中途編入だから大変かもしれないけど、これから一緒に頑張ろうな」 「はい先生。よろしくお願いします」 今どきの中学生にしてはえらく行儀のいい生徒だと思った。そういえば彼も最初はこんな調子で、子供の目線からは少々取っつきにくかったかもしれない。不思議とまったく笑わない奴だった。だからふとしたときに見せる笑顔がうれしくて、もっと笑わせようとした。 「親御さんの事情か?」 「こんな半端な時期に、学校を変えた理由ですか?」 「そう」 訊きながら、そういえば彼も同じような時期に越してきたんだと思い出す。そのときの彼も所謂親の事情というやつで、子供ながらに苦労しているのだと悟ったものだった。 「まあ……親の事情……には違いないと思いますけど」 「ふうん?」 どうにも歯切れの悪いマスタングを見て、オレは何やら間の悪い問いを投げてしまったのかもしれないと思い至る。けれどこれから担任になるのだから、生徒の事情は知っておかなければならなかった。 「……先生、本当に何も知らないんですか?」彼は急に立ち止まる。中学生の割に発育がよく、背丈はオレと同じくらい、いや彼の方が僅かに高い――これでだぶらせるなという方が、無理だ。「僕の父親、先日――自殺したんですけど」 「……父親? でも、母子家庭だって記録されて……」 「僕は父の戸籍には入っていませんから。それでも血の繋がりはあるので、父親です。僕も、最近になって父がいるって聞かされて……しかも同じ名前っていうのには、驚きましたけど」 「――――は?」オレは今、怖ろしく怖ろしいことを聞いてしまった、気がする。しかし、ロイなんてありきたりな名前など、珍しくもなんともない、筈だ。「同じ、名前?」 「ああ、はい。確かファミリーネームは――ウェゲナーだったと」 聴神経の、異常だと言ってほしい。 ――同姓同名って結構いるもんなんだなと、平常心で言ってのけることは、今のオレにはどうしたってできる訳もない。決定的だった。覆せる要素は、無に等しい。 (同じ名前だよ、お前と……) 「じょ、冗談にも程があるぞーマスタング、そんなんでからかおうったって、」 往生際が悪いオレの空笑いが空しく響き、けれどマスタングはにこりとだって笑わなかった。面倒くさそうに頭を掻く。行儀よさそうにしていたのはなんだったのか。 「からかうって、なんですか? こんな冗談を言って、たとえば誰が得をすると?」 オレがするんだ、とは言えず。 「まあ僕にとってはあまり思い入れがなかったのでなんとも……一緒に暮らしたのもそんなに長くはなかったし。でもご近所の噂の種になったのが煩わしくて、引っ越してきたんですよ。まあ別に、場所を変えたって事実がなくなる訳ないので、内緒にしてほしいとは言いませんけど――先生?」 頭を打ちつけたような、そんな眩暈がオレを襲う。(やばい、汗が、頭から一気に血の気が引いていくみたいで、くらくらする)――誰が、死んだって? あいつが、死んだって? 冗談だって、「冗談だって、言ってくれよマスタング……っ」 (まさかお前を見離したオレへの復讐か、) 「だから、冗談なんかじゃないんですって。なんだって言うんですか? ……というか、大丈夫ですか?」 同じ声がかわりに答えた。 「……これこそ、」最悪の事態。オレがもっとも怖れていた結果。「最大にして最悪の、罰だ……」 オレはあの日、確かに誓ったのだ。彼のそばにいて、もっとも近いところにいて、その目を逸らさない、と。思いがけない彼の訃報は、自分で立てたその誓いを破ってしまったことへの、途方もない罰に思えた。 「あの……先生は父と知り合いで?」 突然膝を折ったいい大人の心配をしてくれているのだろうか、マスタングは本当に、彼と同じ声音で、彼と同じ目で、オレを気遣う。――更にオレを追い立てるとも知らないで。 「――知り合いも何も、あいつのことはオレが一番知っているさ、」 酷い喉の渇きを感じる。胸が圧迫されているような気がしてなんだか目頭が痛くなってきたような気もする――と、自覚する前にマスタングが目を丸くした。 「せんせい、先生は一体……父の、なんだったんですか、」 「……なんだったかだって……?」それは――予想でしか語れない。「……多分、最期に思って死んだのはオレじゃねーかなってくらい、の」 それは本当に予想だった、けれどもあながち間違いではないだろう。オレは裏切りとも取れる行為をした。彼はそれを受け入れてはいなかったのかもしれない。――死んでしまった、直接の原因はわからないけれど。(いや、)わかりたくはない、けれど。 「あいつも……君の父親も、こんな変な時期に引っ越してきて、仲よくなって……それからずっと何するでも一緒の仲だったんだ。それだけだよ」 取り乱してごめんと一言詫びてオレは歩き出した。涙は一筋頬を伝ったくらいだったけれども、それでも十分気が楽になったのに気がついて、何年も会わずにいるとこんなに薄情になってしまうのかと自分を疑った。一番の親友だと見做していたのに、一筋涙を流せば動悸も治まり失意から浮上する。忘れたことはなかったのに存外ダメージが薄かった、それが逆に心苦しかった。 |