( き み の 骨 、 あ る い は ぼ く の 骨 ) 


かつてオレにはロイ・ウェゲナーという親友がいた。彼は十歳の頃、オレの家の隣に子供ひとりで越してきた。そんな彼を不憫に思ってか母はよく彼を食事に招いた。彼がくると食卓にはいつも以上の量の料理が並んだ。オレの家族全員――母は勿論、父、弟も彼を好んだ。彼はというといつもひとりで食事をしていたらしく満更でもないようだった。なんにしろオレは彼と一日の中でも大部分をともにした。それが高校卒業まで続いた。
――エルリック先生? どこか気分でも?」
はっとして顔を上げる。目の前には、心配そうにこちらを窺う目があった。――ここは職員室、人の目があることをオレはすっかり忘れていた。
「大丈夫です、少しぼうっとしていただけで」
「あら、そうですか? それならいいんですが」
数学を教えているリザ・ホークアイは、苦笑するオレに紅茶の注がれたカップを手渡す。彼女の淹れるお茶は母のと似ていてあたたかい味がするので好きだった。こんなことを公言すればマザコンだと思われるので、誰にも言ったことはないけれども。
「私はてっきり、あの転入生のことで何か悩んでいるんじゃないかと……」
「いえ、そんな……彼は見た目のとおり、生真面目でいい子ですよ。今のところ、何も問題はありませんし」
彼女の言うことは近からず遠からず、だった。オレはあの転入生の齎した、かつての親友の訃報に落胆していた。あまり考えないようにしようと思っても、ふとした拍子に過去の記憶へ飛んでしまう。気分なんてすこしも上昇しないし、今日も朝から気だるい感じが一向に抜けない。第一オレは、彼の遺体など目にしていないのだ。どこか信じられないでいるオレと、彼の死を悼むオレ――両方存在していてつり合いが取れない。
「野暮だなあ、ホークアイ先生。男がぼけらっとしているのなんて、理由はひとつしかないですよ」オレたちの会話を聞いていたのか、正面につけた机からにやにやと笑う男――ジャン・ハボックが口を挟む。「――で? 相手はどんな女だ?」
「女じゃないですよ、先生と一緒にしないでください」
「なんだよ、つまんねえ奴だなお前は。折角この俺が、女をくどくあの手この手を伝授してやろうと思ったのに」
「百戦錬磨の先生からご教授いただけるなんて、そんなうれしいことはありませんね!」
「お前、皮肉はもう少しわかりにくく言え……」
彼はついこないだも、新しくできた彼女に三日で振られたと言って嘆いていたばかりだった。それだけでなく、どうも彼は女性に振られる傾向にあるようで、決まって次の日にはもう二度と女に夢はみないとかなんとか言い出すのだ。とても百戦錬磨とは言えない。
「さて、オレは授業があるんで行きますよ。お茶ごちそうさま」
「はい、いってらっしゃい」
空になったカップを彼女に手渡す。教科書を持って職員室を出ようとすると、ハボック先生がオレを呼び止めた。
「本当に、何か悩んでいるならいつでも言えよ。酒くらいなら、つき合ってやるからよ」
「生憎、オレは下戸なんですよ。――気持ちだけ」
酔ってしまえば最後、何を口走るかわかったものではない。オレは苦笑を残して職員室を後にする。袖口から覗く腕時計を見やると、授業開始のチャイムが鳴るまでほんの僅かしかなかった。
「あーもうこんな時間だ、ちょっと話しすぎたな」彼らと話していると、どにうも居心地がよすぎて困る。オレにとってぬるいお湯に浸っているような快さから抜け出すのは至難の業だった。「……んな権利、ねえのに」
(彼はオレの所為で死んだに等しいのに、)
それは自惚れでもなんでもなく、確固たる自信のもとに出た結論だった。直接この手にかけた訳ではないけれど、オレが殺したのと、同じ。それなのにこの先もオレはなんとなく仕事をしてなんとなく飯を食ってなんとなく息をしてなんとなく生きていく。腹が立つ程目的のない人生だ。そしてその人生を選んだのはオレだ。
でき得るならば、ロイの手を離してしまったあの日に戻りたい。なんでもいいから今言ったことはすべて嘘だと言ってやりたい。どんなに彼は思い詰めただろう。彼が悪い訳ではないのだ。ただオレが気づくのが遅すぎたのだ。彼の与えてくれる際限のない甘さにずっと酔っていたから、気づけなかったし、抜け出せなかった。後悔などいくらしても足りない。それを彼の所為にして逃げた自分が、何より一番許せない。
もっといい方法があったのではないのか? お互いがきちんと自立して生きていけるような方法があった筈だろう? 彼の前から逃げ出す前に――――――
――先生?」
「ロ……っ」イ、と唇だけ形づくった。突如として目の前に現れた黒髪の少年は、「はい、ロイです」と、几帳面に答える。
「なに、どした、?」
あまりに不意を突かれた所為で少しどもってしまったけれど、声を裏返さなかっただけましだと思う。
「それを先生が言うんですか? ――チャイム、とっくに鳴ったのに、一向に教室に入ってこようとしないから」
「え、嘘、予鈴も?」
チャイムなんて鳴ったことすら気づかなかったくせに、きちんと自分が教室前まできていたのにも驚く。いつの間に、と呟くとマスタングは少し首を傾げて怪訝な顔をした。
「先生、熱でもあるんですか? 予鈴も本鈴も聞き逃すなんて」
「いや、熱は、ない」
「……父のことでも考えていたんですか?」
「っ……まさか、」
明らかに動揺するオレを冷やかな目で見降ろして、彼は仕方がないとでも言うようにひとつ息を吐いた。
「先生、嘘が下手ですね」
「……うるさいよ」
「なんでもいいですけど、授業はちゃんとしてくださいね。あなたはこれで金を稼いでいるんでしょう。それともなんですか、給料泥棒呼ばわりされたいんですか?」
昔のオレならばここで間違いなく手を出していただろうけれど、教師という立場で教え子を殴りつけるなど言語道断だ。現代の教育で体罰はよしとされていない。どんなに苛つく言葉を浴びせられたところで忍耐強くいられなければ、教師の道は潰えてしまう。――一瞬、どうなったって構うものか、と思ったりもしたけれど。
「優等生のふりは、もうやめたのか?」
思えば彼が借りてきた猫状態だったのは転校初日の、それもはじめのうちだけだった。一度仮面が外れると後はもう取り繕う気は失せたらしい。その証拠に、彼は敵意を隠そうともしない。
「なんかね、あなた、見てて苛つくんです」マスタングの双眸には嫌悪感だけがありありと浮かんでいた。「あのろくでもない男を知っているというだけで十分胸糞悪いのに、あの男の死に泣いたでしょう。一日中そればかり考えているんじゃないんですか?」
わざわざ肯定してやることもない。オレはマスタングを見るともなく眺めつつ、頭の端で、この会話を教室で騒いでいる生徒たちに聞かれてしまっていたらどうしようかなどと考えていた。
「あなたは言いましたよね、俺が父の死を告げたとき、最大にして最悪の罰だと」
「どうでもいいことを、よく覚えてるんだな」
「父とあなたがどんな関係だったかなんて知りたくもないが、そんな風に思う程、あなたはあの男を大事に思っていたということですよね?」
「そうなるな」
「あの男も、……あなたのことしか口にしなかった」は、と彼は自嘲めいた、乾いた笑いを漏らした。「いや、そうじゃないか……精神を病んで毎日のように譫言を繰り返す人間が、あなたのことだけは正気のまま、俺に話して聞かせたんだ。そしてそれは、単なるエドワード・エルリックという親友の話じゃない」
心臓に、刃を突き立てられた思いがした。彼は一体、どこでどんな風に毎日を生きていたのだろう。
「俺には、男女のラブストーリーのように聞こえました」
彼は一体、オレをどんな風に語ったのだろう。
「……そんな綺麗なもんじゃないよ。喜劇にするにはあまり薄っぺらだし、悲劇にするにはあまりにお粗末だ」
不思議と腹から声が出た。意地だけは、どうにも一人前なオレだった。
「なあマスタング、お前があいつのことやオレのことをどう思おうがオレは構わない。今更誰にどうこう言われようが、過去あったことはどうにもならないからな。――オレの過ちも、勿論覆らない」
「過ち……?」
「お前が何を心配しているのかは知らないけど、オレはお前に、昔のことを……お前の父親のことを聞かせるつもりはない」
(だってオレにはまだ、お前を思い出として語る勇気はないから)
マスタングは両目を眇め、ゆっくりと吐き捨てた。
「……俺は、あなたも、父も、大嫌いだ」
ここまで軽蔑されるといっそ清々しいものがある。
「言っただろ、お前にどう思われても構わないって。……お前は、あいつじゃないからな」
これ以上授業の時間を無駄にはできない。オレは教室のドア前に立ち塞がるどこか不服そうなマスタングに回れ右をさせて、そのまま中へと押し込んだ。


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