( た と え る な ら、 そ う 、 戦 争 に 負 け た の だ ) 


卒業と同時に彼からの連絡が途絶えてからは、自分がどうやって生きてきたのかあまり鮮明ではない。
突然広い世界に、いや広大な海に放り込まれた気分だった。俺は捨てられたのと等しかった。唯一無二の彼に裏切られたような気分だった。俺はこれからどうすればいいのか、何をすればいいのか、まるでわからなくなった。
大学へ進むと言ってひとりでは広すぎる家を出て、大嫌いな親の金を毟り取って、六畳間のアパートで息を殺すように生活していた。同じ大学を受験して確かに俺も彼も合格した筈なのに、そこへ通うのは俺だけだった。彼は実弾がほしかったのだそうだ。進む先は、知らない。彼の携帯の電話番号もメールアドレスもまったく繋がらなくなってしまったし、彼の実家を訪ねても足取りは掴めなかった。あんなに大切にしていた家族にも何も言わず出て行ってしまったらしい。それ程までに、俺との縁を切りたかったということなのだろうか。俺は人生で最高に落ち込んで、生きる意味も見失ってしまった。彼が隣にいないということが、いつまでたっても信じることができなかった。だって振り向けばまだそこで、俺に笑いかけてくれているような気がするのだ。あの無邪気さの抜けない笑顔を、俺に向けてくれているような気がするのだ。
いつの間にか大学になど行かなくなった。彼のいない場所に、俺がいる意味はない。
あてもなく街へ出て、彼の面影を追っては絶望を飲み込んだ。どこへ行っても彼はいない。見つけることができないまま、俺はひとりで家へ帰るのだ。誰の待つこともない部屋へ。
彼と一緒にいた頃は毎日がとても楽しかった。ありきたりな言葉ではあるが、何をするにしたって楽しくてうれしくてしょうがなかった。俺は彼だけがいればいいと思っていた。彼以外の人間など価値はない。ただ彼は、そうではなかった。勿論俺のことを一番の親友だと思ってくれているのは知っていたし特別気にかけてくれるのも俺だけだということも知っていた。それでも俺には足りなかった。彼の金色の瞳が俺以外の人間に向けられるのも、白い手が俺以外の人間に触れるのも、何もかも気に入らなかった。彼は性別、年齢を問わずとにかく人気があったので、俺が心苦しい気持ちになるのも少なくはなかった。ただあまりにも無自覚で警戒心というものが微塵もなくて、それがまた八方美人に見えてしまって、苛立つこともしばしばあったことも否めない。しかしそれすらもすべてひっくるめての彼が、俺は大好きだった。
中学生の頃――確か夏休みだったと思うが、俺はまったく面識のない女に連れ去られたことがある。面と向かってきたならばそんなへまをしたりしなかったのだが、いかんせん小道具を使われてしまっては抵抗らしい抵抗もできなかった。ドラマや漫画でしか見たことのないような変な薬品を嗅がされて、目覚めればそこはもう見たことのない部屋の中だった。女は俺を縛り上げ、性交を強要した。大人しくしていれば、言うことを聞いていれば、手荒な真似はしないしすぐに返す――と言ったがそれはまったくの嘘で、怯えもしなければ喚きもしない俺に酷く苛立った様子で、女は俺に手を上げた。俺が血反吐を吐くまでやめる気はないらしく、女は狂ったように暴力を振るい続けた。時々、俺の父親の名前が聞こえたが、俺にとってそんなものはどうでもよかった。精々美しい女が悪鬼のごとく髪を振り乱すさまに、もしかすると母親もこういう一面を秘めているのかもしれないと思ったくらいだった。
夏休みが終わる間際に俺は漸く解放された。囲われていた部屋はどうにも薄暗く、久方ぶりに太陽に晒されたときはこのまま焼け死ぬのではないかと思った程だった。俺はこのことを誰に言うつもりもなかった。親父への復讐に使われたのだということだけはわかっていたが、それを両親へ告げる気もなかった。二、三小言を言われたが、俺の世話をしていた家政婦にも友人の家を泊まり歩いていたと言えばそれで済んだ。ただ彼だけは、そうもいかなかったが。
「お前、今の今までどこ行ってたんだよ!」まず彼はそう食ってかかってきた。「何日も連絡つかねーし……っ、それになんだよその怪我! 納得いく説明するまでは許さないからな!!」
彼は顔を真っ赤にして怒っていたが、俺はそれすらもうれしく思った。俺には誰かに叱られた経験がなかった。小言や嫌味を言われても、真剣に俺のことを思って怒ってくれる人など、誰もいなかったのだ。
俺はいい友人を持った。彼だけは何があっても裏切らない、そう誓った。
そんな美しい過去を、彼を、思い出にしてしまいたくなくて、俺はずっと彼を捜し続けた。いつの間にかアパートにも帰らなくなっていた。しかし彼と出会う前に、既に夏の残像と化していたあの女に、俺は出会ってしまった。女は昔と変わらず、美しいままだった。そしてその艶やかな唇で、俺との子供がいるのだと告げた。小さな貸家に連れられるまでは疑いしかなかった。しかしあろうことか同じ名前の、同じ顔立ちの――そう、彼と出会った頃の俺が、そこにいたのだ。
女はその子供に、俺を父親であると紹介した。否定の言葉など出てきようもなかった。こうも似てしまっては、覆せる要素などなかった。子供は冷めた目つきで俺を眺め、たった一言、はじめましてと言った。世界を敵に回しているような、そんな突き放した目線ともの言いが印象的だった。俺は子供に、諦めているのかと訊いた。自分でも、どうしてそんな問いが口から出たのかわからない。子供は答えなかった。
それから俺は女と子供の住む家に入り浸るようになった。いよいよ生きていることすらどうでもよくなっていた。彼にはもう会えないのだと思うと、自然と涙が零れ落ちた。それを見て、また子供が突き刺すような視線を俺に向けた。俺は子供に彼との思い出をひとつひとつ語った。綺麗で目映い記憶を掬い上げては懐かしさに浸った。もう彼も、彼との記憶も思い出でしかなくなっていた。
何年も何年も彼を捜し続けた俺に、うんざりとした口調で子供が言った。
「僕にはそれは、惚気にしか聞こえない。あなたは要するに、その人が好きだったってことでしょう、」
何かが嵌まったような気がした。最初で最後の友人だった彼は、しかし、俺の唯一愛した人だったのだ。ただこれをあの別れのときに気づいたとしても、きっとどうにもならなかったように、思う。



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