放課後、オレは普段立ち入り禁止扱いになっている屋上まできていた。教師っていいなあなどとこういうときだけ思いながらポケットに鍵をしまい込む。屋上の柵に凭れて夕日に照らされた校庭を見下ろせば、沢山の生徒たちの部活動に励んでいる姿が見て取れた。中高を通して帰宅部に所属しそういうのとはまったくの無縁だった所為か、なんとなく、羨ましいものがある。何かやっておけばよかったともう何度思ったことだろう。けれどあの頃の自分は、大親友と遊ぶのに忙しくて、部活動にかまけている暇はちっともなかった。我ながら、馬鹿らしい。 「――で? こんなところまで、なんのようだ」オレの後をつけるようにして屋上のドアを開けたマスタングは、いつものように面白くない顔をしてじっとオレを見ていた。「生徒は立ち入り禁止だぞ」 「……こんなところから落ちる馬鹿、そうそういませんよ」 「いるから塞がってるんだよ。うっかりさんも、死にたがりさんも、色々な」 今日も世界は平和だ。平和で、平穏だ。六十八億人、一日に三十七万人が生まれて十七万人が死んでいく――確か、彼はそう言っていた。あまりに細かい返しをしてきたものだから、なんと言っていいやらわからなくなってしまった覚えがある。ロイはそんなことまで知っているくせに、どうしてもオレ以外を周りに見出さなかった。そんな彼も死んだ。十七万人のうちのひとりになったのに、今日はまた新たに死んでいく人間がいるし、新たに生まれてくる人間もいる。世界は平和で平穏だけれど、あまりに無常だ。 「……お前、すぐにオレだって気づいたのか? 父親の話にでてきた親友が、誰なのか」 言いたくなさそうに眉根を寄せて、マスタングは呟く。 「……先生が、父のことについて過剰な反応を示したのと、あとは、名前で……」 「お前も、ほんと堅苦しい言い方するよな」 「お前、も?」 「お前の親父も、小学生のときからそうだったよ。血は争えないってやつか」 「あの人と比べられたくありません」 「それならオレと話さなければいい。お前を見ると、オレは嫌でもあいつを思い出して、嫌でもお前と比べちまうからな」 顔も、髪の色も目の色も、骨格も、性格も、喋り方も、利き手も、書く文字も、頭のよさも、運動ができるのも、上げていけば切りがない。生き返りなのではないかと錯覚してしまっても無理はないくらいに、彼らは似すぎている。そしてそれは、オレにとっては苦痛でしかない。まるで攻め立てられている気分になるのだ。お前の所為で俺は死んだのだ、と。 「……あいつの最期は、どんなだった? オレを恨むとか、言ってたかな、やっぱ。むしろそうだったらいいのにって思うけど」 自分から訊いておいてなんだけれど、その答を耳にするのが怖くてマスタングを直視できなかった。恨んでいてくれたらいい、そう思うのも事実だけれど、それを聞くのはやはりつらい。 「恨まれたいと思うなんて、奇特な人ですね」 「そうか? そういえば、そうだよな……」 「父はあなたを恨んでいるだとか、そういう言葉は口にはしませんでした。内心で思うところはあったかもしれませんけど」 マスタングは多分嘘を吐かない。それはロイもそうだったから、きっとそういうところも遺伝していると思う。だから、これは本当のことだろう。 「……言ったでしょう、俺には男女のラブストーリーに聞こえたって」 「それならオレも言ったぞ、そんなおめでたいもんじゃねえっていうようなことを」 「先生、わかってます? 父は、あなたのことを愛していたんですよ」 「知ってる知ってる、オレも愛し――あん!? 何!? 愛!?」 唐突に聞かされた言葉にあまりにも驚いて、オレは柵から手を滑らせてしまった。柵といっても立ち入り禁止を前提につくられているものだから、腰より少し上くらいの心許ないものだ。危うくオレがうっかりさんとして転落してしまうところだった。 「ちょ、お前、オレを殺す気か! いきなり何馬鹿なこと言ってんだよ!?」 「本当だ、こんなところから落ちる人、いそうですね」 「聞いてんのかマスタング! 無視するとはいい度胸だなお前……!」 「先生の顔、赤い。夕日の所為……では、ないですよね」 「……大人をからかうもんじゃねえぞ」 マスタングは見たこともないようななんとも言えない顔で笑って、全部冗談だったらよかったのにと嘆いた。オレは訳もわからず、先程マスタングが吐いた馬鹿みたいなことを脳内で繰り返しては、更に顔中に集まる熱を持て余している。 「先生とやっぱりはじめて会った気がしないのは、父から話をずっと聞かされていたからなのかな……あの人の語る昔話なんて、本当は、少しも聞きたくなかったのに」 「それは……、」 「母は父にものすごく執着していましてね、もの心つく前から、父親のようになれって言われて育ちました。無茶でしょう? だって俺は、父に会ったことなんてない。まったく知らない、血は繋がっていると言えど、赤の他人と同じですよ俺にとっては。でも俺は母の望むとおりに育ったみたいです。自慢の息子だと何度も言われましたからね……先生の目から見ても、父と俺はそっくりなんでしょう」 「……ああ」 マスタングは素っ気ない返事をするオレに構わず、淡々と喋り続ける。まるで膿を掻き出すみたいに。オレはそんな彼をとても見ていられずに、暗くなりかけた空を見上げた。 (お前も、こんなふうに……) 「母は俺の中に父の姿を捜して、父の面影を愛した。俺じゃない。父はあなただけを愛して死んだ。俺のことなんか、やっぱり見てくれなかった。……もう、」マスタングの声が、弱く震える。「っ……もうあの家で、まともな人間なんていなかった……! 毎日息が詰まりそうだった!」 (そうなのか、ロイ) 彼はオレが好きで――けれどそれは友情とは、本当に別ものだったのだろうか。どうしてオレはそれに気づけなかったのだろう。誰よりもそばにいた人間のことなのに、何故。あの頃、オレが気づいていたのなら、どうにかなっていたのだろうか。今とは違う結果に、なっていたのだろうか? 彼の忘れ形見とでも言うべき子供が、今オレの目の前で苦しんでいるような今日は、果たして訪れることはなかったのだろうか―― 「……だからオレが嫌いなのか? 母が愛した父の愛が、すべてオレに向けられていたから」 はっきり言ってオレの脳味噌はパンク寸前だ。勉強で使う部位とは違うところをフル回転させているような感覚に、心がついていかないとでも言えばいいのか。マスタングの抱える苦しみは、平凡だけれど幸福な家庭で育ったオレには理解できないし、だからやさしい言葉をかけてやろうとも思えない。マスタングは確かに父親に似ているし同一人物にも思える。けれど本質は同じではない。わかっていはいることだ、決して同一人物ではあり得ないのだから。当たり前のことだ。彼に言いたかったことを目の前の子供に告げたところで、どうにかなることはない。 (赦されることも、ない) 「それならそれでいいさ。正直、オレには関係ない。お前が誰に愛されていようと、いまいと……」 そうだ、オレは自分でも言っていたではないか。お前はあいつではないのだと、マスタングにはっきりと。それなのにいつまでもぐるぐると、ぐるぐると、彼が生きていたらいいのにと思うから。 「……どうして、死んじゃったんだよ……」 (やり直しのチャンスをくれよ。ごめんって言わせてくれよ。お前はいつだって勝手だ。どうしてオレにこんな一言で済むようなことを言わせてくれないんだ) どうしてお前は、オレを置いてひとりでさっさと終わらせてしまうんだ。 「本当に、馬鹿ばっかりだ……」 「……先生、?」 「なあマスタング。ロイは……お前の親父は自殺したって言ってたよな? どうやって死んだんだ?」 マスタングはオレが何故そんなことを知りたがるのかわからないというふうに、思いきり顔を顰めて吐き捨てるように答える。 「……飛び降りですよ、飛び降り。夜中突然いなくなったと思ったら、明け方には近所のビルの屋上から飛び降りた男がひとり、発見されました。それが父だった」 「ふうん……」 つまらない死に方をしたものだ、彼も。 「お前、苦しいんだろ。親にも誰にも愛されなくて、そのおかげで誰かを好きになる気持ちも知らない。オレや親父が嫌いなのも、要するに嫉妬だろう。醜い感情ばっかせっせと育ててきたもんだから、上辺だけ取り繕うのがうまくなって周りの人間に本心を明かすことができない。ありのままの自分では嫌われるに決まっているからひた隠しにする。そうやって、距離が生まれる。気づいた頃には、もう既に身動きが取れない――」 「黙れ……っ! あなたに何がわかる! のうのうと、平穏に生きてきたあなたに……!」 「まあ待てよ、そんなお前にオレがとっておきの解決策を教えてやるから。オレは、お前の担任だからな」 不信感も露わにマスタングはオレを睨みつけるけれど、小動物が一匹、可愛い威嚇をしているようにしかオレには見えなかった。どれだけ背伸びしたところで所詮は子供だ。 「お前、同じことすれば? 親父と」 「は……?」 「ここから飛び降りれば」 「あなた、何を言ってるか、……っ、わかってるのか……!?」 わかっているとも。自分がどれだけ馬鹿なことを言っているのかも、どれだけ馬鹿なことをしてきたかということも、全部。 「淋しいなら、オレも一緒に落ちてやるよ」 迷路に出口は確かに存在する筈だけれど、ちょっとずるをして早々にリタイアしてしまおう。そうすれば、壁にぶち当たることも、行き先に迷うこともない。問題はどうやってリタイアするか、それだけなのだ。 青褪めて震えるマスタングを一瞥して、オレはぐるりと彼に背を向ける。遥か下方を眺めると、自然と笑みが零れた。 |