涙を拾って



言った本人でさえ覚えていない程、それはとても何気なく告げられた言葉だった。けれどそれが例えば快晴の下であったなら、多少なりと考え方が違っていたのかもしれないけれど―――生憎天気は、エドワードの嫌う雨だった。
これを見るのは二度目。しかも状況が、哀しいくらい似ている。血の海に溺れているのは女性。白くか細い腕を伸ばし、助けを求めていた。
「鋼の、」
茫然自失、というのが相応しい。エドワードの、国家錬金術師の前で大胆にも行われた犯行。本来なら真っ先に動かなければならない状況。それなのに足は何かに絡め取られたように動かない。馴染み深い声がエドワードを呼んでいても、全身が硬直してしまって。
もう一度エドワードの銘を呼び、気配が近くなったのがわかった。いつもよりちりちりと背が痛いくらいなのは、過敏になっている証拠だろうか。
「何故捕まえようとしなかった」
なぜ、何故? そんなの、身体が動いてくれないからに決まっている。馬鹿なことを訊くな、それだけ言うのにも、膨大なエネルギーが必要とされるらしい。口は、口もまた、動かなかった。ただこの眼に、血の海が、白い女性が、脳内に蘇る映像と重なって、一夜限りと願いたいスライドショーの上映。
声が険しくなる。
「……ここで見っともなく泣かれては迷惑だ」
泣いてなどいない。嗚咽すら込み上がってこない。きっと泣ければ、泣き喚くことができたなら幾分救われると思うのに、まるで泣くということを脳が忘れてしまったかのよう。
一瞬だった。ことは。目の前で広がったのはたった一度や二度の瞬きで終わってしまうくらいのもの。ただエドワードが瞬きをしていたかというと、そうではないのだけれど。
ただ、喋ることも泣くこともできない使えない頭でぼんやりと、至極ぼんやりと思ったことは弟を宿に残してきてよかったということだった。
「私がほしいのは、決して立ち止まらない部下だ。ただの何もできない子供などそこら中にいる。駒になる人間だと思ったから君を呼び寄せたということを忘れるな」
こども、なのだ。まだ。
自分は誰かが用意してくれるやさしい道をまだ行こうとしている。そんなものありはしないし、もし存在していたとしても自分がそれを利用する資格などないのであって。だからつまり、自分は針山に身をおさめねばならないのであって。
こども、なのだった。許されると思い込んでいたが故の。
目の前で穏やかに笑う女性が、降って沸いた災難、突然男に襲われた。喉をナイフで一刺し。人間はそれだけで容易く崩れ落ちてしまう。その女性が手を引いていた小さな女の子も、同じ目に遭い。
それをただ目の前で。何もできず立ち尽くすだけの自分は、けれど被害者にはならなかった。後からきた役立つ憲兵が、それを止めたからだ。役立たずの自分に代わって犯人を捕まえたのもその憲兵。この男が、エドワードの上司が欲しているのは、そういう部下である、と。
―――このままでもいい。このままの自分が求められているのだと、ずっとそう思っていたのが根底から引っ繰り返される瞬間だった。
「……こどもは、いらない……?」
かたかたと細切れに震える身体を叱咤して、漸くエドワードは意思表示をすることができた。と同時に遺体が回収されていく。女性の手は、ずっとエドワードに伸ばされていた。
「いらんな」
冷たく切り捨てるその言葉は、雨と重く混じってエドワードの肩にのしかかる。機械の腕との接合部が鈍く悲鳴を上げていた。それでもなんとか振り向くことができて。
「……泣くんじゃない、」
泣いてなどいないのに。男を見上げるエドワードの顔にとめどなく伝う雫が返り血と混ざり合い、まるで赤い涙を流しているようだった。







071027
冷たいこと言ってるけど実は! みたいな(なんだお前)

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