三十五度



何度も熱い鞭が背中を打った。 その度疎い無知が自分を苛んだ。 知らなかった。 それだけで済まされることではなかった。 何度も熱い鞭が背中を打った。 もう諦めてさっさと意識を手放してしまった方が余程楽だった。 その間に自分の身体が―――吊るし上げられたり四肢を切り離されたり果ては打ち首になっていようが―――どうなっていようと関係なかった。 それでも拷問吏の手は休むことを知らなかった。 続けざまに与えられる苦痛にはどれ程の慈愛をもってしてもやわらぐことはないだろうと思った。 熱の塊は目蓋を強く閉じてやり過ごそうとした。 自分にはそれしか術がなかった。
さっさと吐いてしまえばいいと言う悪魔の誘いに乗る訳にはいかなかった。 自分がすべてを暴露してしまえば関与している人間すべてが闇に葬られることや自分は用済みになり殺されてしまうのだと気づいていた。 それなら自己犠牲を選ぶべきだろうと考えた。 苦しいのはどうせいっとき。 地獄が永遠に続くのでもない。 耐えられる。 耐えられる。 そう言い聞かせた。 口を割って死に至るのは自分たちだけれど口を割って得するのは自分たちではない。
―――……強情だな。首謀者の名を言うだけで解放されるというのに」
最早自分が貫き通せるもの貫き通すべきものはそれしかなかった。 強情であることが自分を貶めずにいられた。 僅かに止んだ鞭打ちの刑に安堵したそぶりは一切見せずに自由民からも忌避される拷問吏を睥睨した。 自分が間違っているから拘束されているのでも自分が弱いから刑の執行を待つことしかできないのでもない。 お前たちこそがヒエラルキーの頂点に君臨していると思うな。 ―――本音を言えば七日以上断続しながらの鞭撻に精神は完全に参っていた。 飲まず喰わずは勿論のこと一睡もしていない状態で正常でいられる方がおかしい。 脳内が常に稼動していて頭が重く思考は空回り。 昔日に断眠が刑罰や拷問に使われていたらしいとは聞いたことがあっても実際に自分が受ける羽目になるとは思いも寄らなかった。 それでも屈することは決してできやしないのだ。
「取引をしないか」
「……は?」
「お前の罪を赦すかわりに、お前は私の足になる」
擦り切れて引き攣る背を思い切り反らし苦痛に耐えるため噛み締めて流れ落ちた血も厭わず喚いた。
「お前らが今までしてきたことをオレが知らないとでも思ってんのか!」
「お前のような子供が、何を知っているというんだ?」
卑しい目をした拷問吏は地に這い蹲っているオレの髪を掴み頭を乱暴に持ち上げた。 髪の根をはる頭皮が引き攣り顔を歪ませてしまうと男は一層楽しげに笑んだ。 性格の悪さが浮き彫りになった瞬間だった。
「お前たちが妙なことを企てなければ、今頃お前は、こうして鞭打たれることもなかっただろう。これは変化を望んだ報いだ。お前たちが世を変えようとしたところで、どうにかなるものではない。……まさか、知らなかったのか?」
「この……っ、死ね! 日の下も歩けないような吏人の分際で……ッ、お前なんか、お前らなんか皆纏めて火炙られて焼け死んじまえ!!」
「懐かしいな、魔女狩りか」
「お前らが生きてて得すんのはなあ、どうせ王座の上で踏ん反り返ってるデブくらいのもんなんだ! 拷問吏とか執行吏とか、そんな人道に外れた奴らがいるから……っ、オレの家族は、っ」
まずい―――泣かないと決めていたのに―――頬が濡れる感触がした。
「なんで最後まで苦しんで死ななきゃなんねんだ! 住みやすい、よりよい世界を目指して、―――変化を望んで、何が悪いんだよッ!!」
「何を喚こうが勝手だが、選択肢はふたつにひとつだ。さあ、選べ」
明日の命運を――― 頬に伸ばされた手を顎で払い除け、戸惑いもなしに齧りついた。 肉を裂いてそのまま千切ってしまおうかと思ったが拷問吏の放った鞭がこめかみを舐めそのままコンクリートに頭を打ちつけた。 舌の上に他人の血が残った。
「……これがお前の選択か?」
「オレはどっちも選ばない。口も割らない。お前なんかの足になるくらいなら、嬲り殺された方が何倍もましだ!」
今ここに。 自分の手元に人ひとり殺せる程の刃物―――この際凶器はなんだっていいけれど―――があれば手足の拘束も関係なしに目の前の男を怒りにまかせて殺していた。 そうして生きていることを後悔しながら死んでいけばよかった。 綺麗ごとだけで世界は変わらないのだと漸く知った。 そしてどうすれば最良かわかった。 男を殺して自分も死ぬ―――それが一番の選択肢だろうのに。
「どうして世界は、弱者に冷たくできてるんだ……っ」
(オレは自分の手を血に染めることを、こんなにも恐怖している)
微かに触れた男の手は酷く冷たく感じ何故だか哀しいとさえ思ってしまった。







080318
眠らないと凶暴になるんだよーていうのを書きたかったのにどうしてこういうことになるんだろう。
消化不良な感じが……。うーあー、いつかリベンジ!

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