心をよぎる泣き虫(デジャヴ)




子供たちに手を引かれるままに丘を越えた。草原の上に立つと途端に花の香りが押し寄せた。風が運んでくるのはどこかで嗅いだことのあるやさしいにおいだった。
子供たちはにこやかな笑顔をして私に問うた。空を見上げると青いキャンバスの中に絵の具をどんと置いたような白い雲ばかりが浮いていた。とても近くに感じた。この場所が町で見るよりも高い位置にあるからだった。私は子供たちの手を引いて歩き出した。草が足首をくすぐる度に私は小さかった日の頃を思い出した。おそろいの金色の瞳をした子供たちは私に問うた。
私は小さな頃からひとりで生きているのだと思っていた。父親が錬金術にのめり込み私の背に刺青を施したことで特にそう思うようになった。お前はひとりで生きていけと言われたような気がした。父の意図はよくわからなかったけれど弟子を取ってその弟子が立派な軍人になったとき父は私を置いてこの世を去った。
やわらかな子供の手を両手に引いて私はどこへ行こう。
やわらかな子供の手を両手に引いて私はどこへ行こう。
子供たちが私の手を引いて駆け出した。
楽しげな笑い声とうれしそうな後姿に気がつけば私は自分を投影していた。子供たちの向かうところには花々の群生地と大好きな母親の姿があった。私にも母親がいた筈だった。その記憶は薄かった。
子供たちは私の手を離していった。おかあさんおかあさんと子供たちは母親の腰に抱きついた。母親は仕方ないといった風に瞳と同じ色をした頭を撫でた。子供たちの髪の毛もふくよかな手と同じやわらかな手触りできっと太陽のにおいがするのだろうと思った。
私はどこへも動けずいつか望んだような穏やかな景色をただ眺めるだけだった。引いてくれる手がなければ私はどこへも行けなかった。風に押されることもなく突っ立っているしかなかった。それが何より哀しいことだと私は悟った。










「中尉、中尉じゃん! 久しぶり!」大通りの向こうから晴れやかな笑い顔で手を振る緋色の少年と大きな鎧姿に私も余っている手を振り返す。「エドワード君、アルフォンス君、いつこっちに?」
「たった今。ちょっと小腹が空いてさ、まず腹ごしらえしないとって話してたとこ」
兄が答える。今回は随分と遠いところまで足を運んでいたようだからきっと長いこと汽車に揺られて十二分に疲弊しているのだろう。あまり顔色がよろしくない。
「そうなの。だったら司令部までいらっしゃいな。今あなたたち用にお菓子を買ったところだから」ほら、と腕に抱えていた紙袋を僅かに傾ける。
「わ、まじで? やった、ありがと中尉」
「あれ、中尉ひとりなの?」
鎧から漏れてくる声も以前と変わらず兄より高めでいまだ変声期というものを知らない。身体がないからそういうものもないのかもしれないと思い直す。
「いいえ、大佐も一緒よ。買い出しに行くと言ったら、視察に行くついでにって、ついてきちゃったの」
「相変わらずだね、大佐も」
「んで、その大佐殿はいずこに?」
「コーヒー豆を買ってくるのでってここで待っていてもらっていたんだけど、戻ってみたらいなくなってて。見かけなかった? 青い軍服とか」
「いや、見なかったな」
「うん」
「そう……どうしようかしらね。勝手に帰る訳にもいかないし……」
「いやいや、自業自得だから。置いて帰っちゃえば?」
「もう、兄さん。そういうことばっかり言ってると、自分も置いてかれるよ」
「オレは大丈夫だ!」
何が大丈夫なのだろうと思いつつ周りを見渡す。あの青い軍服は周りからどうしようもなく浮く。遠目からでも軍の人間であることがすぐさまわかる程だ。目につきやすいというより意識せずとも目に入り込んでくるような色をしているのにどこにも見当たらないということは随分と遠くまで行ってしまったか店の中に入っているかくらいしか思いつかない。
「仕方ないわね……」大袈裟かもしれない溜息をひとつ吐き出し荷物を少年に預ける。「お菓子でも食べて待っていてくれる?」
「え、いや、別にそこまで腹減ってるんでもないんだけど」
「兄さんは意地汚く見えるからね」
「……お前さっきからやけに攻撃的だな」
「やだな、意地汚いなんて言ってないよ、意地汚く見えるって言っただけだよ」
「何度も繰り返すな。まったく腹の立つ奴め」
痴話喧嘩にしても可愛らしい兄弟たちの諍いにふと笑みが零れる。私が笑ったのを空気で感じ取ったふたりの少年たちは気恥ずかしそうにお互いを小突きあった。照れ隠しの一種だろうと思う。いくつになってもどんな姿になっても子供らしい一面を密やかに抱いている。
「中尉!」そこへ雑踏を掻き分けてこちらへ進んでこようとする男が私を呼び止めた。「大佐、どちらへ? 捜していたんですよ」
「いや、すまない、ちょっと私も探しものをしていて」
男は私のような素っ気ない茶色の紙袋と似たような色合いのものを腕に収めていた。
「こんにちは、大佐」
「あ、やあふたりとも。元気にしてたかい」
「まーな。あんたこそお変わりないようで。サボタージュは成功?」
「大成功だ」
「大佐」何が大成功か。大っぴらに怠けるために視察へきたのだと言うものではないだろう。男は強い語調で牽制した私をちらりと一瞥しそしてもう一度謝った。
「ザ・尻に敷かれる無能。上司は一体どっち?」
「そんなことを言う可愛くない子供には、」男は抱いている紙袋から何か冊子を少しだけ見せた。「残念ながらやれるものはないな」
「ずっり!」
「失敬な、狡くはないぞ、真っ当な取引だ。古書店で見つけたものでね、割に興味をそそる題材なんだが、仕方ない、私だけで楽しむことにしよう」
「わかったわかった! 謝ればいいんだろ、謝りゃあ! すいません、でしたね!」
「……反省の色がまったく見えないんだが……」
言いつつも男は大して気にしている様子もなく文献らしきものが詰まっている本をがさりと物色すると先を行く兄の肩を叩き「なん、もが!」棒つきの飴を振り向きざま口内に突っ込んだ。
「ほら、アルフォンス。これは君にあげよう」
「あ、ありがとう大佐」
光をきらりと反射する透明な飴は兄の方へ。残りはすべてものを食べられない弟の方へ。緋色の少年はもごもごと口を動かして不服そうに唇を尖らせる。
「オレは飴一個かよ」
「いいじゃない、別に。おいしい?」
「……うまい」
「よかった、店員にもらったおまけなんだが、古書店の」
「なんだそれ、子供のお使いじゃねんだぞ、ってかオレにはおまけか! その差はなんだ!」
「はっは、私は気にしない」
「気にしろ!」
「さあて、早く戻らねば。私だけじゃなく中尉まで抜けてしまってはね、大変だから」荷物を明け渡して開いた両腕を宙へ伸ばす男にわかってるなら出てくるなよと少年は言った。
背を反らし思い切り男は伸びる。それから不機嫌そうな顔をした少年の頭をぐしぐしと撫でつけた。
「…………、」
昼の陽光を街路樹が遮りざわめく街には明るさが飛び交い雲がいくつか空は快晴。青く澄み渡り、
「中尉、」ふと足を止めてしまった私の手を、「行こ」ふたりの子供たちが引く。
私の手よりずっとかたく冷たい手。機械の手。無機質な手。それでもあたたかくやさしい思いを乗せていた。私は子供たちに引かれるままに舗装された道を歩く。下は瑞々しい緑ではなかった。花壇に植わる花を飛び越えても何もない。穏やかな母親はいない(ああ、)。幻すら抱けない。
子供たちは変わらない笑顔で私に問いかける。私は夢の中での二の舞を踏むまいと笑い返した。それはずっと昔に気づいていながらもどこか否定していた言葉だった。私の足はひとりでに地面を蹴ることができるのだ。




080329
個人的にこっそりおくりもの。こっそり! こっそりね!
面と向かって差し上げるのも気恥ずかしい、なんだかすごくありがとうを言いたくなったあの方へ。
今度お邪魔したときはよろしくお願いします。







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