何も役立たない







その少年は、記憶が一日しか保てないのだそうだ。
俺が彼にあったとき、彼は最初にそう述べた。訊けば、誰かに会って話をする際は、いつも同じことを言うらしい。「オレは、たった一日しか、覚えていられません」。そんなことを言われれば、まず初めて言われた人間は、あまりにも唐突で、理解できない。二度目に会ったとき、漸くその意味を了得するのだ。
「エドワード、朝きていた人は誰だ?」
「ああ、あれは、隣に越してきた人だって。よろしくってさ」
「ちゃんと意味を汲み取ってくれたか?」
「いや……多分、駄目だな。また未来のオレは、説明に苦労するんだろうな」
言いながら、彼はばさりと新聞を広げる。それは今日のものではなかった。
「……新聞、捨てたらどうだ」
「そんなことしたら、ただでさえ何も覚えていられないのに、世間に置いてかれるだろ」
どうやらある日を境にして、記憶が根こそぎ抜け落ちるようになったらしい。少年の部屋には、リビングいっぱいに新聞が積まれている。おそらく、その境の日からのものだろう。色褪せ、黄ばんだ古いものから順に、彼は目を通していく。それが毎日の日課だ。
「そういや、弟がくるとか言ってたんだよな。あんたは会ったことなかったっけ、今あいつ、地方の大学通ってて、久しぶりにこっち戻るって」
「いつ」
「今日。昨日の日記に書いてあった」
新聞に加えて、彼は毎日寝る間際、記憶がリセットされる前につけている日記を読み返す。
「そうやって、誰とどんな会話をしただとか、こと細かにメモをしていれば、困ることはないんじゃないか?」
「面倒くせ。そんなにそんなに書いていられねーよ」
「この会話を何度繰り返したことか……」
「悪いね、記憶ねえわ」
「お前の応答は、いつも変わらないよ」
「だって、」
「『オレだからね』」
だっての後に続く台詞は、もう何回も繰り返しているのだから先回りすることは容易だった。
「……人の台詞奪ってんじゃねーよ。性格悪いな」
「元よりだ」
救えねえ、と彼が小さく零すのを俺は聞いた。
「さて、折角の兄弟水入らずだ、俺は帰るとしよう」
「一緒に飯食ってけばいいじゃん。昨日のオレは、多分シチューをつくるつもりだったんだぜ。冷蔵庫ん中にひととおり材料が揃ってた」
「お前の腕も中々だが、そんな野暮なことはしないよ。精々ブロッコリーでも楽しんでくれ」
「あんたの好き嫌いはどうでもいいけど、どうしてもってんなら皿から抜くぜ」
「……何企んでる」
大概において俺を蝿か何かのように見ている彼が、何故そんなにも俺を引き留めようとするのか。何か企んでいるとしか思えない。
「人聞き悪いこと言うなよ。……そんなんじゃない」
彼はロッキングチェアから立ち上がり、読みかけの紙面を閉じて床に放り投げた。何日も掃除をしていないのか、薄く積もった埃が舞った。
「……ちょっと、会いづらいんだよな……弟に……」
「何故?」
「なんかさあ、今のオレにはよくわかんねえよ? でも、昨日の文字はなんとなく、震えてた……っていうかさ。オレはこのとおり、昨日あったことなんてこれっぽっちも覚えてないから、とにかく、無性に不安な訳だよ、そういう些細なことも」そこで、一呼吸。「あんたには、絶対わかんないだろうけど」
わかる、と言われたくもないのだろうなと思った。
「何か書いてはいなかったのか? そう、お前が怯えるようなことだとか」
「まったく。だから、何があったのか、何をみて……きいたのか、さっぱりわかんないんだよ。原因が弟なのかそうでないのかも、……だから、」
玄関のチャイムが鳴った――彼の弟がきたのだろう。彼は記憶にも紙面にも留めていないようだったが、俺はその弟と面識があった。見かけ温厚なふりをして、その実中身はそのとおりでないことも知っている。
「ひとつ、いいことを教えてやろう」
それだから、きっと俺はよく思われていないに違いない――いや、実際、よく思われてなどいないのだろう。聡明な弟のことだ、原因にもとっくに気づいているはずだから。
「俺は、お前が思っているよりよっぽど大人気ないんだ」
それは五年前から少しも変わらない。







背徳の背に立つ



(080812)
(「俺」練習+サドを目指してみた)

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