下の方で、声がした。 あんまりはっきりと聞こえたものだから、私は、特に耳を澄ますだとか、する必要もなかった。 とにかく、下の方から、声が聞こえてくる。 そう思ったのだけれど、いや、そう感じたのだけれど、―――下とは、どこだ? はっ、と目を覚ましたとき、襟元は僅かに湿っていて、こめかみにも汗が滲んでいたけれども、もう私を眠りから引き起こした声など聞こえやしなかった。 「そりゃ、中尉、疲れてるんですよ」 同僚に話すと、迷った風もなく、第一に出てきたのがそれだった。 「仕事のしすぎじゃないですか。昨日も、遅くまで残ってたんでしょう」 あながち否定できるものでもなかった。私はそうかもしれないと言って、昼食の乗ったトレイを彼の前に置いた。昼どきだ。 「あれは、昨日のうちに片づけておきたかったんだけど」 「手え抜くところは抜いてかないと、ほら、あの上司みたいに。じゃないといつか嫌になっちゃうと思いますよ」 それは、多分、有り得ないことだと思った。私の意志は、それしきのことで挫けてしまう程、脆くはない。 「中尉は、真面目すぎんですよ」 「そうかしら。私は、責務を真っ当したいだけよ。中途半端は、嫌いなの」 「あー、真面目っていうより、性癖っすか?」 「どうかしら。ただ偏屈なだけかも」 融通がきかないだの、頑固だの、よく言われる。私は否定するつもりもない。なぜなら、そのとおりだからだ。 「そういうとこは、似てんですね」 誰に、などと、訊かなくてもわかることだった。 「……そうね。あの人も、そういうところあるから」 すっかり皿を綺麗にしたとき、私は思い出したように、彼に尋ねてみた。 「以前、あなた、彼女のことを話していなかった?」 彼女、と言うだけで、先程の私のように、すぐに誰を指したかわかったようだ。歯切れ悪く、彼女の名前を歯節に出すだけで、彼は顔中に笑顔を広げた。しあわせ、なのだろう。 「ええ、まあ、ソラリスって言うんですけれども、まあ、これがまた、いい女で」 「よかったわね。大事にするのよ」 ええ、と頷きながらも笑みを絶やさない彼を目にしながら、美しい人なのだろうか、と考えたりもした。けれども、きっと彼は表面だけで彼女を愛した訳ではないのだろう。そうは思っても、人のいい彼のことだから、まさか騙されているのではないかとか、余計な考えも浮かんだ。 纏めた書類を抱えて執務室をノックすると、明らかに部屋の主のものではない、それよりもずっと高い声が応じた。勝手にドアノブが回り、私を中へと招く。 「あら、エドワード君だったの」 「こんちは。大佐いないの? 報告書、持ってきたんだけど」 それは、私が訊きたい―――デスクを見ると、そこで大人しく執務に励んでいる筈の上司は、影も形もない。その上司を訪ねてきたらしい彼は、左手に厚い紙束を持って、実に不満そうな顔をしている。 「……どこ行ったのかしら……」 「げ、あいつ、中尉になんも言わないで出てったのかよ」 「あなた、探してきてくれる?」 「なんでオレが! やだよ!」 「だって、エドワード君、暇でしょ?」 そう返すと、不承不承、彼は大人しく、部屋を出て行った。少し悪い気もした。 やはり、声がするのは、下の方だ。 はっきりと聞こえるのが、不思議だった。 そのくせ、なんと言っているのか、まったくわからないのだ。 眠って、しまっていたのに気づき、愕然とした。 「……いつの間に……」 仕事のしすぎだと忠告されたのを思い出し、少し、ソファに腰かけただけだった。それなのに、―――今は何時だろう。どれくらい、私はここにいた? 「ありゃ、中尉、起きちゃったよ」 「お早いお目覚めだな」 前髪をかき上げると、金の瞳と、黒い瞳が私を見つめているのがわかった。私はすぐに立ち上がった。当然だろう、上司が仕事をしていて、部下の私が惰眠を貪っているなど、とんでもないことだ。 「し……失礼しました。勤務中でしたのに」 「ほら、やっぱ中尉、疲れてんじゃん。あんたのせいだろ」 「ぐ……す、すまないな、中尉。いつもいつも」 「いえ、そんなこと、」 そうやって言われる程、格段、働いている訳でもないのに。 「いいんだって、中尉。こいつもどこ行ってるかと思ったら、お昼寝だぜ!? ここの窓から外に抜け出て、すぐそこで、のうのうと居眠りかいてやがった!」 「大佐……」 「……すまん」 溜息を吐いてみた、けれども。図らずとも、同じことを私はしてしまったのだから、大きなことは言えなかった。いつも口がすっぱくなる程、上司に言い聞かせている自分がこれでは、ひたすら内省するばかりだ。 「君も、疲れているなら、休みを取りたまえよ? そのくらい、なんとかする」 「……お気持ちだけ、受け取っておきます」 休みを得たところで、することなど何もない。ただ銃の手入れをしたり、犬の散歩をしたり、そのくらいしか思いつかない。つくづく、つまらない女だ、と思う。その点、「彼女」はどうなのだろうかと、ふと疑問が湧いた。けれど、それだけだった。 「そういえば……私と、あなた方ふたりの他に、誰か、ここにいませんでしたか?」 「いや」 「オレが大佐引っ張ってきたときは、中尉だけだったよ」 「そう……いえ、なんでもないの。なんでも」 それから、何度か同じ夢をみたりしたのだけれど、段々それも薄れていって、夏が終わる頃には、まったくみなくなった。今でもあの声がなんだったのか、わからないでいる。 |
羊のつぶやき
(080816)
(ハボラスのくだりを書きたかっただけ!) |