健全に生きてきたとは――とてもとても。言いづらいし、何より、言えたものではない。真っ赤な嘘になる。胸を張ってはっきりと言えることは、俺は真っ当な日蔭者だということだけだ。だって人を殺した。殺して、逃げた。今の俺は、まあそんな訳で。まかり間違っても健全とは言えないだろう。 人は何故人を殺してしまうのか? 豚や牛と同じように、豚や牛を殺して喰らいつくのと同じように、生きるためと言えば聞こえはいいだろうか。どう取り繕っても無駄か、――俺は俺のために手をかけた。汚れただとか穢れただとか、そんなことは微塵も感じていない。悪いことしたなあ、なんていう罪悪感が湧いてくるようなら、はじめからそんなことしなければいいだけだ。罪だとか思ってやることでは、ない。 (しかし今日に限って、どうしてこんなにもいい天気なのだろう。階段の下で伸びている影を見降ろしながら、俺はなんとはなしに考える。天気と起こってしまったことの関連性はあるのだろうか?) 長く降り続いていた雨がやっと今朝止んだ。溜まっていた洗濯物が漸く洗える、陽光を存分に含んで取り込んだ衣類たちは太陽のにおいで満ちている筈だ、そんなことを考えながら洗濯機を回していた最中にインターホンが鳴った。最近それが使われたのは、隣に越してきた一家の挨拶回りで、が一ヶ月前だった。――こちらは息を殺して生きているような身だから。 夏を盛りに忙しなく鳴き喚く蝉たちの声に混じって、ドアの向こうでは青白い少年が立ち尽くしていた。何十キロもこの暑さの中を歩いてきたような、汗まみれの風体で。 「…………あの、」 「うん?」 「…………あの……」 彼は見るからに気分が悪そうだった。肌が白いのではなくて、どうやら青褪めているらしかった。俺は取り敢えず、彼を中に上げることにした。何しろ俺は洗濯の途中だったし、それに、蝉があまりにもうるさいので。 取り敢えず上げて、取り敢えず冷たいものでも出そうとして、取り敢えずその辺に座るよう彼に声をかける。コップに氷まで入れてやって、茶を注いで渡した後は、俺は再び洗濯機の前に座する。暫くして回転が止まった。 「おい、がき。邪魔だ」 水を吸って重たくなった洗濯物を抱える俺の前に突っ立つ彼は、いまだに汗が引かないようだった。 「ねえ、あんた、オレのこと知ってるよね?」 数年前に聞いたものより低くなっただけで、耳に心地いいのは変わらない。俺はまるで何も耳に入らないというように、彼の横をすり抜けた。何しろ腕のを早く干してやらないと変な皺がついてしまうし、それに、彼があまりにも途方に暮れた目をしているので。 「なあ、オレ、すごい捜したんだ。あんたを」 「……男の尻を追い回して、何が楽しいんだか」 「そうやってはぐらかす意味は、あんの?」 「悪いけど、俺はお前みたいに暇じゃあないんで」 「洗濯なんかいつでもできるだろう」 「こんなに晴れたのは久しぶりなんだ。それはそれは、綺麗に乾くだろうし」 「人殺しのくせに、何暢気なことを言ってんの?」 俺は黙った。ハンガーにシャツを通すので忙しいふりをした。それでも彼はお構いなしだった。 「どうしてオレだけ撃たなかった」 「……それが、俺を捜したっていう、理由か?」 「答えろよ」 どうして――とか、何故――とか、そんなものが大事なのか。明確な答がなければ満足できないのか。この世界では、自分の望む答が目の前に差し出されることが、当たり前なのか? 「――単なる弾切れ」 正しい答もそうでない答も俺はいらない。自分の思考の妨げになるくらいなら最初から求めない。期待もしない。 何故俺があのとき、彼の周りの人間だけをすべて撃ち殺して、小さな彼だけをそうしなかったのか? 丸まってがたがた震えて、涙ばかり垂れ流して何も見えていないのかと思ったら、なんだか急に弱いものだと自覚して、それから引き金を引けなくなってしまったから。敢えて言うならば。こんな後づけのような理由しかない。しかしこれで彼が理解するかと言えば、おそらく違う。 「ふざけんなよ。人を殺すのを生業にしてるような奴が、そんなへまするもんかよ」 「そんなへまをしてしまってから、俺は二度と銃を握っていない」 「そういう話じゃない!」 ここへきて、はじめて彼が声を荒げた。先日やってきた一家の部屋に届いてしまったかもしれない。ここは壁が薄いから。 「……じゃあどういう話だ」 「オレだけが残されたっていう事実が、いつまでも、オレの中に残る! いつまでも、オレは遺族だ! いつまでも、家族はいないと言って、周りに可哀想って言われて、殺されたうちの生き残りで括られる! お前があのときオレも撃っていたら……!」 「殺された一家で括られただろうな」 ああ、干すものがもうない。――右肩をぐいと掴まれて向き直ると、すぐさま顔面に拳が飛んできたので、大人しく受け取って、オレは無様に背中を打った。下の階の人が外出中だったらいい。彼はそのままマウントポジションを取る。脱出方法はなんだったか――TKシザースだかなんだか――これは身体が柔らかくないと無理だった――後は、――彼は俺の顔ばかり殴り続ける。 少しすると雨が降り出して、殴打が止まった。家の中なのにおかしい――荒い息の音が強くなり、俺は目を開けた。彼は泣いていた。 「うぐっ、……っは、……んで、おれは、ひ、……っかあさ、うえっ、とおさ、んっ、」 涙なのか、汗なのか、水滴がぱたぱた俺の顔に落ちる。口内は鉄の味で満たされている。俺は自由になった両手で彼の背中を引き寄せた。彼の頭を抱いて、撫でた。彼の泣きじゃくる姿はまるであの日を再現しているかのようで、だから俺はどうしていいかわからなくなったのだ。指示された人間を殺せなかったのは彼がはじめてだった。 「……お前に俺は殺せない」 顔をぐしゃぐしゃにしつつも彼は当初の目的――と思われる、を忘れてはいなかったらしい。ポケットから取り出された銀のものは、彼の手には重たいだろうと思った。 「そうか? あんたは何も、オレを知らないだろ」 「――お前は、わかっているから。だから無理だ」 そう言うと彼は強く唇を噛み締め、どすり――俺の顔、その横に鈍く光る刃を突き刺し、烈火のごとく走って出て行った。 (あの後、不審なもの音がしなければ、もう何もかも終わって俺は今頃昼寝でもしているだろうのに、この休日は) 何か階段を転げ落ちるような音がして、まさかと思い見てみると、だった。硬いコンクリートの上で横になっているのは、きっと昼寝とかではないのだろう。俺は散々迷って、声をかけた。 「――おい、生きてるか!」 目蓋が数度痙攣して、開く。そうして彼はおよそ小説やらでしか聞いたことのない台詞を口にした。 「……あんた、だれ……」 散々引っ掻き回しておいて、彼は見事に根こそぎ記憶をばら撒いてしまったらしい。――真っ当な日蔭者に、これからどうしろと? |
鳥瞰するジレンマ
(090824)
(まさかの記憶喪失で終わる/内心やるせないと思うんだ、かなり) |