あなたのようにはなれない---20110422---けれどそうする必要もない



「もう死にたいくらいなんです」

年若い兵士は何時間でも繰り返される爆音に紛らすように、こっそりと呟いた。それは誰にも聞こえないようにしているふうでもあったし、そんな弱音を自分の耳に入れないようにしているふうでもあった。何か、思わず零してしまった、というような告白だった。
彼は私と同じ国家資格を有していた。錬金術の腕前は指折りのもので、錬成陣は不要だった。何度か見たが、両の手を合わせることによって無から有をつくりだす、まさしく彼は錬金術師だった。最年少で国家資格を得たということもあり、年の頃はまだ若く、それ故にこうした戦場に駆り出すことを不安視する者もいたが、彼は初日から新兵とは思えない程にいい働きを見せた。銃をまだ扱ったことがないと言うので、実践の意を込めて鉛玉も手渡したのだが、やはり彼は天性の勘とやらで次々と仕留めてしまった。引金ははじめ重たかったけれど、うまくいけば一発でことが済むので楽ですね、と彼は言った。
私からしてみれば彼はまだまだ子供だった。なのに淡々と人間を殺していくその姿があまりにも不釣り合いに思えた。私は彼に動揺し、泣き喚き、もうやめたい、などと言わせたい訳ではなかったが、その強靭な精神力に驚いたのも本当だ。彼は凛とした瞳を崩すことなく引金を引き、両手を合わせた。
一週間が過ぎた頃、彼の様子に変化が現れた。まず、口にものを入れなくなった。どうにか詰め込んだものも、後で粗方吐き出してしまうらしかった。そんなものだから、元々細かった身体が、さらに細みを増した。顔色も病的な白さを滲ませていた。口数はあまり多い方ではなかったが、それ以上に押し黙るようになった。見かねて声をかけたことがあるが、彼はいつもなんともありません、ご心配をおかけしてすみません、としか言わなかった。
そうして、まもなく二週間目に突入しようという頃に、彼ははじめて弱音を口にしたのだった。もう死にたいくらいなのだと言った彼の横顔は、放っておけば本当に簡単に死んでしまいそうだった。肩に担いでいたライフルと左手に握り締めていた三十八口径の拳銃を放り投げるように地面に下ろすと、彼は観念したように目を瞑り、両手でその顔を覆った。
「あなたにはわからないかもしれない。オレにはやっぱり割り切れなかった」
「それよりも何よりも、ここはまだ戦場だ。そして、お前は軍人だろう。早く銃を拾え」
いつどこから襲撃されてもおかしくはなかった。我々の行っていることは、戦争と言いつつも、その実、これは虐殺に外ならなかった。国軍の圧倒的な戦力の前に彼らは、今我々が敵と呼んでいる彼らは、殆どなす術もなく殺されていった。恨みなら十分すぎる程買っているに違いなかった。
「お前の泣き言は必要ない。軍人として、人間兵器としてやるべきことはなんなのか、わからない訳ではあるまい」
我々国家錬金術師を示す人間兵器という言葉は、彼の鳩尾をしたたかに殴りつけたようだった。乾いた指先が離れた後は、苦痛に歪んだ顔が見て取れた。
「あなたは酷い男です。同時に、立派な上官だ」
「部下の尻を叩いてやるのが私の役目でね。さあ銃を拾え、エルリック少佐。この地区を一掃するまでは帰れんぞ」
「帰るって、あの、薄暗い軍事用テントにでしょう。そんなところに戻るくらいなら、そんなところに戻ってまた殺戮の時間を待つくらいなら、今死んだ方が余程ましです」
彼は次ははっきりと、確かにそう言った。しっかりとした口調だった。
「彼らは我々を強く妬んでいる。果たして楽に死なせてもらえるだろうか? 否、お前は彼らにもっとも惨い方法で殺されるだろう。何しろお前は率先して殲滅に乗り出した、国家錬金術師だからな。銀時計を持つ者を、彼らは誰より警戒している」
「オレにはそうされる、負い目がある。彼らには、そうする権利がある」
強情な奴だな、と溜息を吐けば、彼は土埃に汚れた頬を持ち上げて、酷く不器用に笑った。
「さしずめオレたちは、死を連れてくる死神とでも見られているんでしょうか」
「神だなんて、おこがましいにも程があるぞ、少年。向こうからしてみれば、我々は単なる悪魔だ。もしくは鬼と言うかもしれない」
「ああ、そうですよね。神だなんて、どの口が、」
虚しく空笑いを響かせ、彼は天上を仰いだ。ここ数日ろくに晴れた日がなく、大体が巻き上がる砂塵の所為か曇って空は薄暗かった。
「……どうして私に言ったんだね?」問えば、何が、と訊き返したそうな目でこちらを見た。「……死にたいならば、さっさと自己完結して、さっさとひとりで死んでしまえばよかっただろう。何故私に告げたんだ?」
「どうしてかな……多分、多分誰でも、よかったのかもしれません。オレの話を聞いてくれる人なら、誰でも」
銃の冷たさは握った者にしかわからないものだった。そしてその重さも、殺した感触がまるでないことも、一度手にして使ってみなければ何もわからないのだった。彼はそれを知ってしまった。人殺しを楽に行えると言ったことに嘘はないのだろうが、彼はもう鉛玉を握る覚悟が失せたようだった。
「オレ、田舎に弟がいるんです。弟は、オレがこんなことをしてるなんて知らない。兄は今も、清らかな軍人でいると思ってる」
「……清らかな軍人?」思わず鼻で笑ってしまった。「その弟に言ってやれ。そんな生きものがいるとしたら、それは人間ではない。生まれ落ちたばかりの赤ん坊でさえ、欲を知っていると」
「あんたは本当、歯に衣着せねえな」
「口の利き方に気をつけろ」
彼の青い軍服の襟元を掴むと、すぐにすみませんと謝られた。よく見ると新しい筈のその軍服もところどころほつれていてぼろぼろだった。胸からは飼い犬を繋ぎ止める首輪のように、鈍く光る銀時計の鎖が垂れていた。
「……エルリック少佐」
「はっ、なんでございましょう、マスタング大佐」
彼は姿勢を正して敬礼をした。軍人の真似ごとだけはうまくなっていた。
「銀時計を置いていけ。命令に従えないのなら、お前にそれを持つ資格はない」
「……引き留めて……くださらないと?」
「思い上がるな。お前にそれ程の価値があるとでも思っているのか?」
尋ね返せば彼は言葉に詰まった様子で目を数度瞬かせた。
「ここをどこだと思っている? 戦場の真っただ中だ。それなのにお前は武器を捨て、死にたいなどとほざき、くだらない話をして私の時間を奪い、私の身を危険に晒している。それを理解しているのか?」
「申し訳……ありません。オレは……オレは、そんなつもりじゃ……っ」
彼は眉間に深く皺を刻み、布で覆われた手をきつく握り締めた。彼の片腕片足は機械であると備考欄に載っていたことを思い出した。鋼の手足をぶら下げて、彼はこの戦場を駆け抜けてきたのだった。そういう軍人はあまり珍しくはないが、私にはとても真似できないことだと素直に思った。
「……それに何より、ここではいくら残業をしようとも、残業手当などという気の利いたものは出ない」
だからという訳ではないが、そしてあまり認めたくはない事実でもあるが、歳を重ねるうちに段々と私も寛容になってきてしまっているようだった。ただできの悪い部下は他にも数名抱えているのだし、今更ひとり増えたところで何も変わらないと思ったのだ。
「要するに私も、この仕事を積極的に取り組みたいのではない、ということだ」
皆には内緒にしてくれと言うと、彼はおかしな顔で頷いた。おそらく笑ったかしたのだろうが、自分でもどういう表情をしたかったのかわからないようだったのを、私がわかる筈がなかった。


数日後宗教観の相違からなる戦い、もとい単なるは殲滅は我々の勝利により終結した。彼はまだ私の隣にいるし、銀時計も胸に納まっていた。銃弾で胸を撃たれたとき、奇跡か何か知りませんが、皮肉にもこれに命を救われたんですと笑っていた。とはいえ肋骨に罅が入ったらしく軍医に静養を言い渡されたのだが、彼は断固として頷こうとしなかった。一度関わってしまったのだから、ここで投げ捨てるのはおかしい、と言っていた。どんな心変わりかと思ったが彼なりに考えて出した結論だろうので、口を挟む気はしなかった。
すべてが終わり撤退命令が出されたとき、彼はいの一番に私の元へきた。具合の悪そうな顔色は相変わらずだったが、彼は私にお世話になりましたと頭を下げた。
「私は何もしとらん」
「オレは甘かった。国家資格を取るということがどういうことなのか、ちっともわかってなかったんだ。迷惑を、かけました」
「……軍を辞めるのか?」
私の問いに、彼は首をふるりと横に振った。
「あのとき、もう死にたくて堪らなかった。錬金術は大衆のためにあるものと信じていたから……自分のやっていることに、嫌悪感しか覚えなかった。それでもはじめは命令だと思って我慢しましたよ、殺さなければオレがやられるんだから、だけどそれも、……限界になって、」
「この戦いが終われば、お前はさっさと弟の待つ故郷へ帰るのだと思っていた」
「ええ、オレも、そう思っていました。でもオレは、生かされた」
彼は胸元へ手を伸ばし、銃痕の残る銀時計を手に取った。軍の紋章が見事に削り取られており、おそらく時計としての機能は失っているだろうと思った。
「それに……あんたの下で、働くのも悪くない」
「何故だ? 私はお前に、厳しいことばかり言ってきただろう。正直、恨まれていてもおかしくはない筈だが」
「あんたが言ったんじゃないか、清らかな軍人なんかいない、生まれたての赤ん坊でも欲があるって。あんたは相当な野心家だろう、目がそうだ。オレはそんなあんたが伸し上がる手伝いをする。……大佐なら、オレは信じられる」
要するに、私が軍の頂点に立ち、こんな無益な戦いを避けるようにしろ、と彼は言いたいのだ。それに至るまでにどれだけつらい思いをするかもわからないというのに、彼は私を信頼しすぎているようだった。しかしそれを不快や重荷に思うこともなかった。
「あんたのようにはなれないけど……オレはオレの信じるものを、信じるよ」
そうして彼の本当の笑顔を見たのは、これがはじめてのことだった。


inserted by FC2 system