それは至って不純な動機だ



はじめてその男を目にしたときから嫌な予感はしていたのだ。いや、嫌な予感しかしなかったと言うべきか。こいつは絶対に何か抱えていやがる、そう思って家の中へ入ったら、もうその場で卒倒しそうになったオレに罪はない。
オレの仕事はハウスクリーニング、掃除代行だ。仕事と言っても大学が春休みの間だけ、気軽なアルバイトとして派遣されたのに、はじめてのお仕事がこれとはオレもなかなかついていない。おみくじを十回連続大凶を引いてしまった気分と言っても差し支えないだろう。オレに指導するためについてきたリザという先輩も、その部屋の惨状を見てあからさまに顔を顰めた程だ。先輩のそんな顔をオレははじめて見た――まだ出会って二日目だが。
「……あ、申し訳ありません、作業をはじめますね。マスタングさまはその間、いかがなさいますか?」
我に返った先輩がいつもの営業スマイルで(くどいが出会って二日目だ)、マスタングという男に尋ねる。が、当の本人はこちらと会話のキャッチボールを楽しむつもりは毛頭ないようで、じとりとした目つきでこちらを眺めた後、足の踏み場もない床を掻き分けシンク横の空いたスペースにどしりと腰を下ろす。邪魔だからそこに座んじゃねえよ、と思ったのは本音だ。
改めて室内を見渡すと、なんだかよくわからないもので埋め尽くされている。すっかり開かずのカーテンと化している物体の所為で窓からの光は、というかうっすらカーテンだとわかるのだがその前にダンボールが積み上げられていて遮光されてしまっている。こんな光の入らない部屋でよく生きていけるなと思いつつ、先輩にまずどこから取りかかるべきか教えを請う。
「そうね……まず、ごみを捨てたいところなんだけど……」
「ごみ……?」
とりあえずオレには視界に入るものすべてごみにしか見えないのだが、往々にして価値観は異なるものだから必ず家主に確認を取らなければいけない、というのはマニュアルにきちんと書かれていた事項だ。
「マスタングさん、ごみの仕分けをしたいので、お手伝い願えますか?」
先輩が地べたに座り込んでスナック菓子をもりもり食っていたマスタングに声をかけるが、明らかに無視しているのだろう、男は鼻くそをほじくりながら菓子の袋に手を伸ばしつづける。おいおいこっちはてめえの依頼で掃除しにきてやってんだよいい大人が自分の家の掃除すらできねえってどういうことなんだよまとめて鼻毛引き抜いてやろうか、と思ったのも限りなく本音だ。
「仕方ないわね……」先輩がオレにしか聞こえないように呟く。「こちらで勝手にやってしまいましょうか」
「ういす」
手持ちのポリ袋を広げながら一体何袋で足りるだろうかと考えるも、これだけのごみを目にしたことがないオレには無理な話だった。とりあえず、手に軍手を装着し、オレと先輩は黙々とごみ収集にかかる。スナック菓子の袋にはじまり、カップラーメンやコンビニ弁当の容器、プラスチックのスプーンやフォーク、鼻水と鼻血処理と思われるティッシュ、たまに男の性、明らかな残飯、用途がわからない紐類、穴の開いた肌着、片足だけの黴びた靴下、洋服についてくる袋入りのボタン、何かを零してページが開かない雑誌、赤黒く錆びて使えそうにないカッターや剃刀や鋏といった刃物、それはもうわんさかと、気持ちの悪いごみばかりが出てくる。
「……リザ先輩」
「なあに、エドワードくん」
「よく毎日こんな仕事やってられんね……」
「掃除は得意なのよ。……と少し前の私は思っていたわね」
お互いに軽く息切れをしはじめた頃には大分ゴールは見えてきていた。ゴールとは言っても2DKの部屋のおよそ八帖を終えただけだが、既にポリ袋は両手では収まらない数になっている。
「あー、じゃあオレ、ちょっとごみ出し行ってきますよ」
「お願い。場所はわかるわね?」
「あの、なんつーか、下の小屋みたいなところでしょ。おっけーおっけーいってきま」
中身自体はそれ程重くはない。オレは片手にふたつずつごみ袋を抱え持った。部屋は二階だったので階段がつらいが、三回も往復すればいいだろう。オレはちらりと家主を盗み見る。スナック菓子は食い終わったようだが、その袋をなんの躊躇いもなく床に捨て置かれているのが心底腹が立ちこのまま男をポリ袋に詰めてやろうかと思った程だ。
「いやいや……落ち着けオレ……」
まずは目の前のごみ袋(四袋×三往復)だ。
マスタングに電気をつけることは止められ(電気代が勿体ないなどと言われてもお前が採光を妨げる原因をつくったんだろうがと危うく首を締めるところだった)薄暗い中で作業をしていたので、ドアを開けた瞬間太陽の光が目に刺さり、オレは吸血鬼か何かかと笑いが込み上げてしまった。
早いところごみを片づけて先輩の手伝いをしなければと思い必死になって階段を下りたり上がったりを繰り返したのだが、その末に待ち受けていたのは、汚部屋を超える――なんと言えばいいのか、ひたすら、ホラーでショッキングな光景だった。
まず、先輩が窓の前に鎮座していたダンボール群を撤去したのがわかった。そのおかげで部屋は十分に昼の光を取り入れていた。室内は明るかった。また、フローリングの床に散らばっていたごみは大体捨てたので見晴らしもよくなった。だから絶対に掃除代行を請け負った時点でこの問題に直面することは決まっていたのだ。
「……メンヘラ…………」
ぼそ、と自分でも無意識のうちに呟いてしまった。床に点々とつづく血の染みは最終的に血溜まりに行きつき、壁に飛んだ血飛沫は壁紙を取りかえない限りどうにもならないだろう。どれも年代もののようで既に変色してしまっているが、それが人体の血液であることは容易に想像できた。だってオレは、その所業をいたしたのであろう道具を、見てしまっている。
「私はメンヘラなどではない」
オレたちがきてから一度も口を開こうとしなかった男の声を、はじめて聞く。マスタングはぎろりと鋭い眼光をオレに飛ばし、メンヘラではない、ともう一度繰り返した。
「す……み、ませ……」
「不用意な言葉を使うな」
嫌な予感は見事に的中してしまった。マスタングは三十代前半のような見た目をしているが、その目の下の隈と無精髭は一体何年ものなのだろうか。身体のどこを切りつけたのだろうか――
「エドワードくん!」
「はっ、はい!」
「早くこっちを手伝って」
先輩の鋭い声に我を取り戻したオレは、不用意なものを見てしまわないように制服のキャップを目深に被り直し、先輩のもとへ急ぐ。部屋は2DK、玄関からすぐのダイニングキッチン、そこからつづく洋室六帖はなんとかフローリングを見ることができた。後はその奥の四帖間とクローゼット、ベランダだ。
「駄目よ、家主のことを詮索しちゃ」
「すんません……思わず、メンヘラと言ってしまいました……」
「まあ、私もさすがにこれは驚いたけど」先輩は苦笑して肩を竦める。「エドワードくんもついてないわね、初仕事がこんなところなんて」
「……人生経験がまたひとつ豊富になったと思っておく」
「それがいいわ」
さて、と先輩は一息吐き、改めてぐるりとこの四帖を見渡す。
「私はここをやるから、エドワードくんはクローゼットをお願い。その前の荷物はどかしたから開けるでしょ?」
「クローゼット、っすか……」
確かにクローゼットの前だけ綺麗になっていたが、何か変なものが入っていそうだ。
「大丈夫よ、大抵は服とか、あとは普段使わないものとか……掃除機とか、暖房器具とか、そういうちょっとした家電が入ってるだけだから。……普通は」
「ちょっと最後の一言怖いっていうか!」
「まあまあ、これも人生経験よ」
絶対に自分が開けたくないだけだろうと思ったが、まさか先輩の言うことにただのアルバイターかつ新人のオレが逆らえる筈もなく、意を決してオレはクローゼットを思い切り開いた――
「……スーツばっかだ」
ぱっと見たところ、ハンガーにかかっているのはどれもオレでもわかるくらいに上等なスーツばかりだった。何か問題があるものも入っているとは思えない。
「先輩、ここどうします? スーツくらいなんすけど」
「うーん、ちょっとマスタングさんに訊いてみてくれる?」
「……オレわかっちゃったんだけど、先輩ってさっきからやりたくないことオレに押しつけてるね?」
「気の所為よ」
大変気の進まない話ではあったが、まさか伺いも立てずにぽんぽんこんな上物を捨てられる訳もない。オレはまた男のいる部屋まで戻る。勿論妙なものは視界にいれないように最大限の努力をしながらだ。
「あの……マスタングさん?」
男はオレたちが掃除にきたときから同じ場所に座りつづけ、一歩も動かないでいる。ぼんやりとあらぬところを眺めていたが、おそるおそる呼びかけるとその視線だけこちらへ向けられた。
「えっと、クローゼットなんですけど、」
「全部捨ててくれ」
「捨てんの!?」
「……何か問題があるのか」
「いや、だって、すっげえ高そうだったから……じゃなくて、オレはそこもこちらで整理しますかって訊きたかっただけで……」
「だから、捨ててくれと言っているだろうが」
意味がわからない、と思ったがおそらく顔に出ていたのだろう。
「今の私には、必要のないものだ」
「だって、スーツ、でしょ。働いてるなら必要なんじゃ……」
ふん、と男は鼻で笑う。
「私が働いていると思うのか? こんなありさまで? 君だって見たろう」
何を、とは口が裂けても言えない。オレはすぐに床と壁の惨状を思い浮かべたからだ。
「あれは私の血だ。もう何もかもが嫌になって衝動的に身体中を切りつけていた。だが間違ってもメンヘラではない。ただの一夜の過ちだ。傷はもうとっくに癒えているし、なんて馬鹿なことをしてしまったのかとも思う。だが、あのときの私にはそれが必要だったんだ。君に弁解するつもりではないが、そうでもしないと私が死んでしまいそうだったんだ。……いや、違うな、確かに死のうと思ったんだったな」
べっつにあんたの過去になんて興味ねえよそんなくそ重たい身の上話されるこっちの身にもなれよばーか、と思ったが、それは確実に本音だが、喉を潰したような笑い方をする男にこんな暴言を浴びせる気は起こらなかった。
「……とりあえず、勿体ねえし、スーツは残しておくから」
「捨てろ」
「いらないなら自分で売りな。ちょっとでも金になんだろ」
「捨てろと言っているのが聞こえないのか!?」
猛烈な力で首元を鷲掴みにされる。男の怒気を孕んだ目はいっそ凶器で、ちょっと心臓の弱い奴ならこれくらいで死んでしまうのではないかと思った。オレの心臓が死ぬ程タフでよかった――などと、ほとんど首を締められている状態でこんな暢気なことを考えている場合ではない。
「ちょ、……苦し……っ」
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬよばっかやろおおおおおおおおと心中で叫んでいると、それが伝わったのかどうか知らないが、男はやっと放してくれた。げほげほと咳き込みながらオレは砂埃が舞う床に崩れ落ちる。きったねえ床、と思いながら、これから掃除するんだけどな、と自分に突っ込んだ。
どうやらオレは不用意な発言ばかりしてしまっているらしい。これ以上何かされては堪らないと、オレはキャップをまた目深に被り直し、そそくさと男の前から退散した。スーツは捨てる。それどころかクローゼットの中身、全部捨ててやる。あんな奴、何もなくなった部屋で野垂れ死ねばいい。
「何かあったの? 怒らせた? 怒声が聞こえてきたんだけど」
「助けにきてくれないんだ……」
「だって怖いもの」
それでも先輩か!
「それで、どうだって?」
「全部捨ててやりますよ」
訝しむ先輩をよそに、オレは黙々とスーツをポリ袋に詰め込んだ。もうあんな奴は知らない。気にしていてもきりがない。あの様子では仕事も辞めたか辞めさせられたかしたのだろう、だからもうスーツはいらないという訳だ。社会不適合者にやさしい言葉などかけてやるものか。精々そこでそうやってスナック菓子の油で手をぎとぎとにしておけこの人格破綻者め。苛々としながら、それでもオレは自分の仕事をこなしていった。しかし、また奥から厄介なものを発見してしまう。
「……先輩」
「今度はなあに」
「アルバムが。思い出の集大成が。さすがにこれは捨てちゃまずいっすよね?」
クローゼットの隅に追いやられていたのは、男の卒業校であろうアルバムと、写真が数点入った白い紙袋だった。すべて捨ててやる気満々だったオレにも、さすがにこれは躊躇する。
「あら本当……というかエドワードくん、わたしたちがするのは掃除であって、廃棄じゃないわよ」
「オレにとっては違いはなく……」
なんだかもう色々と面倒になってしまったオレは、胡座をかいた足の上にアルバムを乗せぺらりとめくる。一番はじめのページに持ち主であろう少年の小さな写真と軽い自己紹介のようなものが載っていた。名前はロイ・マスタング――男と同じ名前だ。当たり前だが、綴りも。
「これ、あの人なの?」
「……まじで?」
どうやら先輩も半信半疑なようだが、髪と目が黒いという身体的特徴や面影はある。ただ、写真の中の少年があまりにも整った容貌をしていて、これが本当にあの男の過去なのかどうかいまいち自信が持てない。逞しくはない。逆に線が細く、華奢に見える。
「なんか……なんか……何があったんだろうって、感じ?」
「色々あったことは間違いないわね」
普通の人生を送ってきた人間が床に血糊をつけていることはまずないわ、と先輩は苦笑いで流してしまった。
「さ、エドワードくん、てきぱき行動しないと今日中に終わらないわよ。人さまのアルバムを勝手に盗み見たことは黙っておいてあげる」
「先輩だって見たのに!」
「私はちら見しただけ」
「同じじゃねーか!」
まあいい、とにかく今は掃除だ。オレは掃除代行で派遣されたのであって、あの男のアルバムを鑑賞しにきた訳ではない。少し気になるところだが、また反感を買って首を締められでもしたらたまらない。そっとアルバムを閉じ、とりあえず床の上にアルバムと写真を重ねて放置しておくことにする。クローゼットの中を一旦すべて出してしまわないことには掃除もできない。
「エドワードくん、そこ終わったらベランダよろしくね。ごみ出しは今度は私が行ってくるから。ついでに掃除用具も下ろしてくるわ」
「ういす」
先輩が四帖に広がるごみをポリ袋に詰めている間、クローゼットからいらなそうなものを掻き出す仕事の終わりを見たオレはベランダへ向かう。ある程度の覚悟はしていたのだが、意外にもそこは綺麗なものだった。風雨に晒されつづけた大きな折り畳まれたダンボールが無造作に放置されているだけだ。
「せんぱーい!」大声で呼ぶと女性らしい悲鳴が上がり、心なしわたわたとした先輩がベランダまで姿を見せる。「ベランダはこれだけだった、んだけど、どうかしました?」
「あ、いえ、ちょっと躓いちゃって。ごみ袋に」
まああの量ではそれも仕方がない。転ばなかっただけいいと思う。
「あらそう……じゃ、悪いんだけどエドワードくん、やっぱりごみ出してきて。私まだ残ってるのよ。あと、丁度いいからこのまま窓開けておきましょうか、換気のために」
「ういす」
「それにしても意外だわ……ベランダもすごいことになってると思ったんだけど」
「ずっと閉め切ってたんじゃないすか。ていうか先輩、また面倒なことオレに押しつけたんでしょ……」
「経験させてあげようと思っただけよ」
「それを真顔で言うんだから尊敬します」
精一杯の嫌味のつもりだったのだが、相手の方が一枚も二枚も上だ。現に笑顔で躱されてしまった。が、そこで、明らかに不機嫌顔の家主が現れる。
――いつまでべらべらと……関係ないことをくっちゃべっているつもりなんだね君たちは。今日一日で本当に作業は終えるのか? いや、終えるつもりはあるのか? だらだら明日まで引き伸ばして金をふんだくろうとしてもそうはいかないからな」
今まで自分のことのくせに何も干渉する気はないと、完全に第三者を決め込んでいた男が急に話に割り込んできたのだからオレたちの驚きようといったらない。しかも一体何ごとかと思えば、まるでオレたちを悪徳業者のように男は言い出したのだ。
「申し訳ありません、必ず今日中に作業を終えますので」
うっかり手を出してしまいそうなオレとは逆に、さすが先輩だ、完璧にマニュアルどおり。オレも一応目を通してはきたのだが、いかんせん、そんなふうにうまく受け答えはできない。
家主に口を出されてからは、さすがにオレたちも最低限の会話だけで黙々と作業に徹した。最後の砦の四帖が終わると、今度はトイレ、バスルーム、洗面所に挑んだが、こちらはまだましだった。まし、とだけ言っておく。
ごみをすべて撤去したのちは、清掃だ。やっと自分たちの仕事ができるわ、と先輩もぽろっと漏らしていた。忘れてしまいそうだったが確かにオレたちはごみ出し代行ではなく、掃除代行だった。一番大変だったのが血糊だったが、それ意外はマニュアルどおりの掃除方法で汚溜めと化していた男の部屋は驚く程綺麗になった。
「マスタングさん、これで掃除は終了しました。他に気になるところはありますか?」
「いや……」ダイニングテーブルの椅子に腰かけ、家主はまじまじと自身の部屋を見渡す。「……ありがとう、見違えるようだ」
絶対にこの男の口から感謝の言葉など出てくる訳がないと思っていたので、ありがとうと言われたときは衝撃的だった。
「綺麗な部屋が気持ちいいと思うとは、私もまだ人間だったということかな」
「これからは、ご自身でお掃除してくださいね」
「おや、そこはどんどんご利用くださいと言うべきではないのか?」
汚い部屋が綺麗に片づくと、住んでいる人間の心も浄化されるようだ。マスタングはもはやはじめて出会ったときの人間不信のような顔ではなかった。穏やかに、そう、あのアルバムに写っていた少年のような笑顔を見せた。
「あの、マスタングさん。これ、本棚の裏に落ちていたんですが……」
オレはまた首を締められることを警戒しておずおずと一枚の写真を手渡す。マスタングはそれを手に取って眺めると、懐かしい、と一言呟いた。
「これは……私の旧友でね。私なんかには勿体ない、いい奴なんだ」
「そうなんですか。見つかってよかったっすね」
「ああ、ありがとう」
大事にするよと言って笑う家主に失礼して、オレたちは2DKの部屋を出た。
/
「ちょっとあなたたち、ここの人、また何かしたの?」
そんなふうに声をかけられたのは、マスタングの家を出てすぐのことだった。隣の住人と思われる女性は、もう夕刻だし、どこかへ迎えにでも行った帰りなのだろうか、小さな女の子の手を引いてこちらを疑いの眼差しで見ていた。
「何かしたって……オレたち、掃除代行を頼まれて」
「掃除代行……? ああ、なんだ、そうなの。ごめんなさいね、引き留めて」
「いえ……あの、また、って?」
女性はうっかり口を滑らせてしまったことを悔やんでいるような顔をして、実はね、と切り出す。
「ここの人、それはもう、エリート銀行マンだったようなのよ。でもね、ある日突然家から出てこなくなったの。同じ勤め先で友人でもあった男性が、ここで自殺していたんですって。何があったのかはわからないけど、それはもう、大騒ぎで……」
ああ、とオレは納得してしまった。あの夥しい血液は男ひとりのものではなかったのだ。彼の友人が死に、その後を、もしかするとマスタングは追おうとしていたのかもしれない。しかしそうはならなかった。だから、それからは死んだように生きていた。
行きましょうか、と先輩に促されるままに、オレは階段を下りた。掃除用具を乱暴に「あなたのお部屋のお掃除承ります」というロゴがプリントされた白いバンに突っ込み、オレたちも乗り込む。
マスタングからの依頼はそれ以降一度もないままオレはバイト期間を終えた。彼はまだ生きているだろうかと、自室の掃除をしようとする度に、必ず思い出す。





戦死者の没落 April 4, 2012
真相は謎のまま

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