運命をいくつ越えられるか/20120820



暗闇の中にぼんやりと灯る赤。本当の色を失った、そのかわりの赤は、今なお弟が血の海に捕らわれているような錯覚をもたらす。だからオレは何度も何度も深い赤に溺れる夢をみる。波を掻き分けて弟の姿を捜すが、あんな重たい鉄のかたまりでは絶対に水面に浮かび上がってくる筈がないことに気がつき、いつも絶望にまみれて目を覚ます。じとりと汗ばむ首筋に髪の毛が貼りつき、酷く寝苦しい夜だと自嘲を漏らせば目敏い弟が心配そうにオレを呼ぶ。その度に、なんでもないとオレは吐きたくもない嘘を吐く。オレは嘘吐きだ。自分を嘘で塗り固めて漸く生きている。嘘を吐かなければ弟を余計不安にさせるから、なんていうのは、建前だ。馬鹿馬鹿しい。本当は、自分の保身しか考えていないのに。清廉潔白な兄を演じていなければ幻滅するのだろう、弟は。だから、オレは酷い嘘吐きだ。





(足りない言葉を補うこともせずに、増えていくのは禍根だけ)






「アルがさあ、最近、変なものがみえるって言うんだよなあ」
「変なもの、とは」
報告書を提出するついでに、こうして軍の司令部、その執務室でなんの実にもならない話をして、適当にひと休みしてから帰るというのがオレは好きだった。書類を捲る手は止めないものの、ここの総責任者を担う男は文句も言わず暇潰し程度にオレの話に耳を傾け、返答をくれる。最近どこもかしこも平和で事件らしい事件も鳴りを潜めているようだから、彼も暇なのだろうと勝手に解釈する。
「そう。まあ、夏だし? そういうの。だけどオレにはまったくわからないんだよね」
「幽霊とかか? 君の弟に霊感があったとは初耳だな」
「オレだって初耳だっつーの。数日前から急に言い出したんだ。もしかしたら……なんか、不具合でも起きてんのかなって……」
弟の魂と鎧はその場しのぎの急拵え、とにかくがむしゃらにくっつけただけだから定着が不安定だ。いつ魂が離れていってしまっても何もおかしくはない。今まで変なものがみえたことは一度だってなかった筈なのに、もしもの可能性が頭をよぎる。
「考えすぎじゃないのか? 君も言っただろう、夏だぞ、夏。何かおかしなものがみえる確率が上がっても不思議ではあるまい。君、ところでこれはhか? nか?」
大佐はさっきオレが出したばかりの報告書の一ページをぺらぺらと掲げる。
「前後でわかんだろ、hだよ。いや、でもさ、アルもアルなんだよ。変なのがみえるって言ったっきり、何も言わないんだ」
「もうちょっと綺麗に書く努力をしたらどうなんだ。見ろ、中尉の美しいhを!」
「うるせーな、今度から棒をもっと伸ばすよ!」
そうしてくれ、と脇に寄せてあった書類の束に今しがた手に取った一枚を重ねる。何度か見せてもらったことがある中尉の字は、その性格と違わぬ几帳面さでものすごく読みやすかったが、オレにあれを求められても如何ともしがたいものがある。
「で、なんだったかな。アルフォンスはそれ以上何も言おうとはしないのか?」
「うん。なんでだろ。なんでオレに何も言ってくれないんだろ」
「君に心配かけたくないからじゃないのか。しかしあれだな、君は心配かけまいとして口を開けば嘘ばかり飛び出すが、弟は口すら開かないとは」
「……大佐はどっち?」
「私か?」ふむ、と大佐は机上に頬杖をつく。「場合によるな。……それができてこそ、大人というものだ」
「ふーん……オレの頭は、そっち方面にはとんと回らないよ」
「ずる賢い子供が何を言っているのやら」
鼻で笑い、彼はまた報告書に目を通す作業に戻る。
何も言わない弟と、嘘ばかり吐く兄。どちらがいいのかなど考えること自体無意味だが、どちらにせよ勝敗は決しがたい。大佐の言うように状況によって巧みに使い分けることができるのが大人というのなら、オレはまだ、大人にはなれそうにない。
「……うまく言えねーんだけど、」
ぐるぐる巡る思考と、浅ましい欲と、寝心地の悪い夢。
「ああ、まただぞ鋼の。今度はbとdが引っくり返っている。さすがにこれは……ん、何か言ったか?」
「何も! 文字も満足に書けなくてすいませんでしたね!」
そのときは極限に眠たかったのだと言い訳する傍ら、オレは彼に一体何を言おうとしたのだか、思い出せないことに何故か安堵していた。
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「ただいまあ、」暫く滞在することになるホテルの一室のドアを開けて呼びかけるが、返ってくると期待していた声がない。「アルー? 帰ったぞー」
あの後大佐に飯に誘われ、たらふく食い散らかした帰り道は既に暗く染まっていた。電気もつけないまま部屋に踏み入ると、たいして広くもない室内だ、すぐにベッド脇に佇む弟を見つけた。
「……アル?」
一瞬、名前を呼ぶのを躊躇った。弟は明らかに何もない一点を、壁のある一点をじっと見つめている。あの、赤い目で。すぐそばにある窓はカーテンが締め切られていて、暗がりにいまだ順応していないオレの生身の目では、一体弟が何を凝視しているのかまではわからない。
「なあ、アル……? どうかしたか?」
そこで漸く弟はオレの声を拾ったらしい。あ、兄さん、いつ帰ってきてたのと、それまでのオレにしてみれば不審でしかない行為をなかったかのように振る舞う。弟は嘘を吐かないかわりに、何も言わない。
「ごめんな、遅くなって。大佐に飯おごってもらったんだ」
「そうなの。また何か面倒ごとに巻き込まれてるんじゃないかって心配したよ。司令部の皆は元気だった?」
弟はなんでもないとばかりにオレの横を通りすぎ、ぱちりと照明のスイッチを入れた。くぐもった音を立て、古びた電灯が室内を明るく照らす。
「元気だった元気だった、つーか皆すげー暇そうだった」
「いいことじゃない、平和ってことでしょ」
軽く笑う弟の目は、さっきまでと変わらず赤い色だ。オレの嫌いな赤い色。
「なあ、お前の目には、何が映ってんだ、」
そろりと弟の顔に手を伸ばす。弟はオレを気遣ってか少し屈んでくれた。そのままオレは手袋越しでも冷たい鉄に手を這わせる。夏なのに冷たいとは、どういうことだ。
「少しでいいんだ。お前が何も言わないと、オレはどんどん不安になる」
「兄さんが嘘を吐くのと同じだよ。言った方が心配かけることもあるんだよ」
「アル、お願いだ、」
教えてくれと掠れた声音で請えば、気が進まないながらもぽつりとこぼしはじめる。
「……かあさんの、……亡霊が。ちらつくんだ」
「かあ、さん、?」
「視界の端にちらついて、つい追いかけて、消えた場所をずっと見つめてしまう。もう一度目の前に現れてくれるんじゃないかって、期待するんだ。そんな自分がとても嫌で……兄さんには何も言えなかった。ごめんね」
「謝ることじゃ……」
「僕、もう駄目なのかな? 終わりが近づいてきてる証拠なのかな? そういうこと考え出すと止まらなくなっちゃって、こわくって、」
動揺を露にさせはじめた弟の首に両手を回すと、オイルのにおいが鼻腔に広がった。弟は黙ってオレの包容を甘受する。
「オレの目、やろうか?」
その言葉はほとんど無意識に、するりと歯節から出ていった。オレの目を、お前にあげようか。言った後で馬鹿げた話だと苦笑が漏れたが、オレはそれでもいいか、と思っていた。
「オレの目、くり抜いて、お前にやるよ」
「……何言ってんの、兄さん」
冗談はやめてよね、と咎められるが、オレは至って真面目だと告げた。オレはオレのために嘘を吐く、その代償にくれてやる。
「両目は無理だけど……片目なら、」
そっと弟の身体から離れ、オレはゆっくりと右目に手をやる。慌てたように弟がオレの硬質な右手を掴んだ。ぎしり、と人工の骨が軋む不快な音が鳴る。
「馬鹿なこと言わないで! 怒るよ」
「……もう怒ってんじゃん、」
「やめてよ、そういうの……何もうれしくない……」
だってオレ、お前のその赤い目が嫌なんだ、と、出かけた言葉を寸でのところで飲み込む。弟をいたずらに傷つけるだけだ。あの少しだけ母の色が混じった金色の瞳を、忘れられないでずっと引きずっているのはオレなのだ。ごめん、と確かに口にした筈なのに、何故かそれは声にならずに萎んでいった。

鎧の眼窩にオレの抉り出した眼球を嵌め込んだところで、だ。

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