矯正は可能であろうか(20131214)
賤陋たる噛み合わせ






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頭が痛い。割れるようにとか、何かで殴られたようなとか、そういう激しい痛みじゃない。そういうのよりかは、ずっと鈍くて、頭を締めつけられているような感じ。いつ頃からかこんな頭痛が周期的にオレを苦しめるようになっていた。多分、病気じゃない。いや、病気なのかもしれないけれど、それは身体的なものじゃないと思う。自分で自覚があるだけましだろう。オレの心は頭痛よりもっと前から、蝕まれている。
頭が痛い。あ、そうだ、あれに似ている。休みの日につい寝すぎてしまって、起きたら満遍なくじわりと広がっている頭の痛み。たまにあれが酷いときがあって、こめかみを揉むのがよいとか、痛む部分を冷やすとよいだとか、色々実践してみたけれどどれも結果は芳しくはなくて、もう二度と寝すぎてやるものかとその度に誓っては繰り返した。
頭が痛い。身体についた傷、たとえば切り傷や擦り傷のような肉が抉れる痛みなら我慢できるのに、内部の痛みにはどうも弱い。どうしても我慢できずに何かに当たってしまう。それは自分だったり物だったり人だったり、動物だったり、そのときそばにある何かだ。本当に、酷いことをしたと思う。特に、弟には、何度謝っても足りないし、申し訳ないと思うし、お望みならお返しにこの身体を好きに傷めつけてほしいくらいだ。
頭が痛い。このおかしな頭痛の所為でオレはいろんなものをなくしてしまった。本当のオレは、こんなことをできるような人間じゃないんだ。それはオレ自身がよくわかっているけれど、それを信じてもらうことはかなり難しいということもわかっているつもりだ。残酷な所業を好むのは、悪魔だけだ。オレは、多少の出血でもじっと見つめていると貧血を起こすくらいに、血が嫌いなのに。どうしてなんだろう。どうしてオレは、血を見ると、頭痛が和らぐようになったのだろう。いつから?
ああ、頭が痛い。頭が痛いよ。自分の身体を傷つけようとすると、真っ先に止めにきたのが弟だった。おにいちゃんいたいよって、やめてって、舌っ足らずな声音でオレを抑えるんだ。でもオレは、駄目な兄だから、おにいちゃんの頭は、こうしないとよくならないんだよって弟に言い聞かせる。おにいちゃんの頭痛はちょっと困ったやつで、薬じゃどうともならないんだ。血を見ると、やっと、落ち着くんだよ。





1
今でもご近所の人には「可哀想に」という同情や哀れみの視線をありったけ内包した目で見られる。「可哀想に」「可哀想に」「可哀想に」「可哀想に」「可哀想に」「可哀想に」「可哀想に」「可哀想に」「可哀想に」「可哀想に」。あの一件が明るみになり、「可哀想に」を十回程聞かせられたとき、とうとう僕はそれまで常に貼りつけていた笑みを削ぎ落した。僕は、ちっとも可哀想なんかじゃない。可哀想なんかじゃないんだから、そんな目で見られても、そんな言葉を投げかけられても、ただただ不快に思うだけだ。なんのために僕が笑っていたのか、彼らは盛大な勘違いをしていたに違いない。僕は不憫に思われたくないからこそ笑みを絶やさなかっただけなのに、それが余計彼らの憐情を誘い、拍車をかけていたのだろう。
人を憐れむのが大好きな彼らは、無駄に伸ばした触覚で絶えず周りの不幸というものを探している。人の不幸に我先にと飛びつき、群がり、好きなだけ味わってから「可哀想に」の一言でナイフとフォークを置く。つまり、「ごちそうさま」の意だ。おいしい不幸をごちそうさま。なんと醜い性根だろうか。兄が厭うたのも無理はない。
僕の兄は人一倍繊細だった。普段の豪胆な振る舞いをする兄とはちょっと結びつかないくらい、傷つきやすく、崩れやすい。砂の城のような人だった。他人の悪意というものに敏感で、溌剌としている裏では心を傷つけられることを何よりもおそれていた。それでも兄は色々と目立つ人だったから、弟の僕や家族にまで飛び火しないよう、どうしても自分が受け皿となってしまっていたようだった。
僕はそんなの全然構いやしなかったのに。それよりも、僕だって兄のことを守ってやりたかったのに。
ベッドに学生鞄を放り投げて、白いシャツの袖を捲る。身体中の至るところに刻みつけられた、兄の逃げた証が、兄が、僕を頼った証が、そうすることで露になる。もう大分薄くなってしまったけれど、このひとつひとつが僕の宝もので、僕を僕たらしめる傷跡だった。
「二年の先輩にエルリックって人がいるだろ。あれはお前の兄貴なのか?」
僕が高等部に上がった頃、兄は既に心を病んでいた。しかしそれを周りに悟られることはなく、兄のエドワード・エルリックという存在は学年を問わず有名で、周囲から好評価を得ていた人物だった。だから誰が知っていても驚くことはなかったのだけれど、それ程話したこともないクラスメイトから突然兄の話題を口にされたときは、あまりに突拍子もない質問だったから僕は一言「そうだけど」と肯定を返すしかなかった。
「やっぱりか。どことなく似ているから、すぐわかった」
「兄さんを見たの?」
「ああ、さっき移動教室の帰りにちらっと。なんていうか、明るくて元気な人だな。いい人そう」
明るい、元気、気さく、闊達、親しみやすい、ポジティブ――等々。兄を指す言葉としては主にプラス要素のものがよく使われたけれど、それらはすべて一部分でしかない。間違ってはいないけれど、それだけでは足りない。
「顔のつくりがいいだけでなくて、頭もかなりいいんだろ? それで性格もいいなんて、まったく恵まれすぎてるよな。あんなのが兄だなんて、どこに行っても比べられそうで、俺なんかはとっくに参ってる気がするよ」
名前も知らないクラスメイトは気が済んだのか、勝手なことを言ってさっさと自分の席へ戻ってしまった。お前はわかっていない。兄は確かに、そういう意味では恵まれているのかもしれない。そうだとしても恵まれている人間がおしなべてなんの苦しみもなく生きていると思ったら大間違いだ。少なくとも僕の兄の苦悩を、努力を、知ってからものを言え――この頃の僕はまだ冷静になりきれない部分があって、腸が煮えくり返る思いを抑えるので大変だった。兄の葛藤は表面化していなかったから誰も気づかなかったのだ。否、気づけなかった。だから、クラスメイトを責めるのは、少し違った。
兄の周囲に対する態度は、身内の贔屓目なしに誰からも嫌われたりするそれではなかったと思う。僕の知る限り、兄は自慢の兄だったし、生徒間は勿論のこと、少々やんちゃをすることはあっても根が真面目だからか教師陣からの信頼も厚かった。僕らが兄弟だと知って比べられることもないではなかったけれど、大体はお兄さんを見習って、とか、お兄さんのように、とか、兄を目標に頑張れという内容だったので気にはならなかったし、それだけ兄を評価されているという事実は僕のよろこびでもあった。
兄が実は心の弱い人だということは、僕にとって幻滅する要素とはならなかった。ああ、なんでもできる兄でも、人間なんだなあ――そういうふうに思って、より兄を身近に感じて、より好きになった。虚勢を張っているのとは違う。普段見せる朗らかな笑顔の兄も兄なのだ。人一倍、傷つきやすいだけ。
校章の入ったネクタイを外し、シャツを脱いで部屋の隅に置いてある全身鏡の前に立った。肌の至るところに薄く残る赤い線は、兄の身代わりとなって受けたものだ。この傷跡の数だけ僕は兄に必要とされてきた。カッターや鋏といった刃物で傷をつけられることが大半だったけれど、兄の爪で強く引っかかれたものもある。傷つけることが目的ではなかった。兄は、血を見ることでしか安心できなかった。
何故こんなにも痕が散漫しているのかというと、兄が他人の目を気にした所為だ。同じ箇所にいくつも切り裂いた傷があれば、誰もが自傷行為を想像してしまう。それでも体育の時間には制服を着替えなければならないし、どこに傷をつけても必ず他人の目はそれを見つける。それならいっそ、隠そうとしなければいいのだと――全身につけてしまえばいいのだと、僕が提案して、兄はそのとおりにした。実際に身体中の傷跡を不審がって尋ねてくる人間はいたけれど、そそっかしいからよく何かに引っかけてしまうのだと弁明すればそれきり追求されることもなく終わった。
兄の肌に傷がつくくらいなら。兄がおかしな目で見られるくらいなら。そう、そして、兄の痛みを和らげる手伝いができるなら――僕はいくらでもこの身を捧げることができたのだ。





2
「ちょっといいかな」
この頃、僕はまだ中等部の三年で、同時に少しずつ兄の異変に気づいてきた頃でもあった。
リビングでソファに腰かけながら娯楽雑誌を広げていると、ドアが開いて兄が家に招いた友人が難しい顔で僕に声をかけた。兄は少し前に飲みものを買い足しに出かけたので、どうやら兄がいては話せない内容らしかった。どうかしましたかと言って、雑誌から手を離す。彼は神妙な面持ちで切り出した。
「あいつ、よく手に怪我しているだろう」
「手、ですか」
「包丁で切ったって言うんだが、それにしては量が尋常じゃないし、いつまでも治らないし、それどころか新しい傷がどんどん増えている。それに、相当な不器用だって指先だけならまだしも、手の甲なんてそうそう切らないと思うんだ。不器用っていうのも……あいつが? って不思議に思うよ。何をやらせてもそつなくこなすのに」
兄が家に連れてきたのは、後にも先にもこの人しかいなかった。僕らが通っていた学校は地元の中高一貫校だったのだけれど、彼と兄は中等部からのつき合いで、僕が知る限りでは兄と一番仲がよかった人だ。彼は兄よりひとつ学年が上で、はじめは面倒見のよい先輩と紹介されたのを覚えている。そのよしみで僕も可愛がってもらったものだ。
「君は何か知っているか?」
父はいない。兄と、僕と、母の三人暮らしだった。この家で台所に立つ人間は、母しかいない。台所に立って包丁を手にしている姿など見たこともなかった僕には、それが嘘だとすぐにわかった。人間が嘘を吐くときには大抵なんらかの理由を伴う。一番の親友と言っても過言ではない彼に対して吐いた嘘なら、それは何よりも隠し通したい何かがあるということだろう。何より兄が秘密にしているのは彼だけではなかった。僕や母が尋ねたときは、――先生の仕事を手伝ったときに紙や鋏で切ったとか、近所の野良猫を手なづけようとして失敗したとか、そういう理由ばかりで包丁という単語は出てこなかったのだから。
「……兄の言っていることは本当ですよ。最近、料理に目覚めたみたいです」
「そうなのか?」
「でもまだ全然下手で。いるんですね、そういう人。器用になんでもやっちゃうのに、料理だけは駄目だなんて」
「それなら、いいんだが」
まだ少し納得していないのか、彼は僅かに眉根を寄せて首筋を擦っていた。そうしているうちにビニール袋を下げた兄が帰宅した。
「あー、あっつかった! 汗やっべえよ」大きなひとり言を言いながらリビングのドアを開けた兄は、自室へ行く前にコップを取りにきたようだった。「ああなんだ、ここにいたのか、ロイ」
「暇だったからアルフォンスに構ってもらっていたんだ。コンビニまで歩いて行ったのか?」
「まさか、自転車だよ。でも暑すぎて死ぬかと思った。ちょっとここで涼んでってもいい?」
「どうぞ」
昔から僕らの部屋には扇風機しかない。唯一エアコン完備のリビングは、僅かな時間とはいえ真夏の日差しに晒された兄にとっては天国にも等しかっただろう。額から汗を流す兄にタオルを放り投げ、それを受け取った兄の手は絆創膏だらけだった。
「汗拭かないと風邪引いちゃうよ」
「サンキュー、さすがオレの弟。気が利く」
「俺も、アルフォンスみたいな弟がほしかった」
「アルはやんねーぞ」
「そんな睨まなくても取りやしないよ」
確か彼はひとりっ子だったと記憶している。両親も留守がちだからきょうだいのいる家庭が羨ましいと言っていた。
「あんたの冗談はたまに本気に聞こえる。まあ、アイス買ってきたから食おうぜ」
「溶けてないか?」
溶ける前に食うんだと言って、兄はそれぞれにバニラバーを手渡した。コンビニ価格で百円もしない安いアイスクリームを兄は好んでいた。
「ありがとう。兄さん好きだねこれ」
「牛乳は嫌いだと言って、基本的に牛乳を使うアイスクリームは食べられるというのはどうなんだ?」
「それとこれとは別だ、別」
「何がどう別なんだかさっぱりわからん」
「あんたは頭が固くていけない」
素早く袋を破いてバニラバーに齧りつく兄を、どこか呆れた目で彼が見ていた。他にも、兄はシチューが好物だったけれど、アイスクリームやシチューがよくて牛乳が飲めないというのは僕にもよくわからなかった。
「そういえば、さっきアルフォンスに訊いたが、お前が料理をしているというのは本当だったんだな」
兄が手を止め、僕へ視線を寄越したのは一瞬のことだった。
「そう、やっぱ料理のひとつでもできた方が、将来的にいいだろ?」
「なんだ、ハウスハズバンドにでもなるつもりか?」
「そうじゃねえよ。ひとり暮らしとかしたときにさ、ちょっとでも知識あった方が楽できると思って」
「……兄さん、ひとり暮らしとか考えてるの?」
迷ったけれど我慢できずに結局そこで口を挟んでしまうと、兄は少し困ったように微笑んだ。失敗した、と思った。兄にこんな顔をさせるのは本意ではなかった。
「まだわかんないけど、大学進学か、就職で、まあ、いずれにしてもこの家を出て行くことになるかもなってだけ」
「そう……」
料理の話は嘘だとしても兄の語る将来的な予見はまったくあり得ないことではなかった。いつか兄は僕を置いて出て行ってしまうかもしれない。兄弟だからといって、この先もずっと一緒にいられる訳ではないのだとこのときはじめて考えた。生まれたときからそばにいたのに、学校だって同じだったのに。気落ちした僕の額を、兄は笑って軽く叩いた。
「そんな顔するな。まだ先の話だし、全然、具体的な考えはないから」
「……うん」
この後も兄と彼は冗談を言い合って笑っていたけれど、僕はとてもそんな気分にはなれなかった。暫くしてふたりは兄の部屋へと引っ込み、僕もまた娯楽雑誌を捲りはじめたものの、中身は少しも頭に入ってこなかった。考えていたのは兄の傷だらけの両手と、近い将来のこと。僕らは別々の人間なのだから、別々の生き方をしなければならないのか、と漠然と思い至った。
日が落ちて帰宅する友人を玄関先で見送ってから、兄はまっすぐ僕のいるリビングまでやってきた。
「アル、ちょっと、話があるんだけど」
「なあに」
雑誌は既にテレビ台の横のマガジンラックに押し込んでいた。暇潰しのために買ったのにたいして暇潰しにもならない雑誌だった。
「あのさ……、」
後ろ手で廊下とリビングを繋ぐドアを閉めた姿勢のまま、兄はぴたりと固まってしまった。自分で吐いた嘘がばれたのだと兄は気づいた筈だから、おそらく切り出しづらかったのだろう。
「……その両手の傷の話?」
こちらから促してやると兄はうんと頷いて、それから小さな声で謝った。
「なんで謝るの」
「……嘘吐いた」
「僕たち……僕と母さんに言っていたことも嘘で、ロイさんに言っていたことも嘘だったの? どっちも嘘?」
「そう。ごめん」
嘘を吐かれていたというのは僅かなりと引っかかりはしたけれど、何もそこまで思い詰めた顔をしなくてもいいのにと思っていたのは、僕がまだ兄が隠したがっている事実を軽く見ていたからに他ならない。兄は嘘を吐いた理由にこそ背徳感を抱いていたのだ。
「そっか……」僕はそこで一呼吸置いた。「……じゃあ、それってなんの傷? 危ないことでもやってるの?」
兄は親に叱られた子供のようにぎゅっと目を瞑り、絆創膏の沢山貼られた指でシャツの裾を握り締めた。料理でもなければ紙や鋏によるものでも、ましてや猫に引っ掻かれたのでもない。そうそう両手を傷だらけにしている人間なんてお目にかかるものではないから、他の理由が僕にはまったく思いつかなかった。
「それは……大丈夫、だけど、うん。もう、やめるようにする」
「やめる? やめるって、何を?」
「うん。まあ、うん。心配しないで大丈夫だから、」
「ちょっと、兄さん」
「大丈夫、大丈夫」
それがまるで自分に言い聞かせているようだったから、しきりに繰り返される「大丈夫」の数だけ僕の不安は増していった。大丈夫――そう、兄はよく「大丈夫」と口にしていた。口癖のようなものだったかもしれないけれど、兄がそれまで大丈夫ではなかったときなど、僕は知らなかった。
「あ、話合わせてくれて、助かった。ありがとな」
「兄さん!」
僕の呼び止める声も振り切って引きつった音とともに扉は閉まってしまう。ああ、閉め出された、と思った。兄の心から。






3
コン、と控えめなノック音に我に返る。反射的に時計に目をやると、働きに出ている母が帰ってくるには随分と早い時間だった。
――兄さん?」
「ただいま、アル」
そこに立っていた予想外の人物に思わず上擦った声が出た。
「どうしたの? 外泊は明日からだったでしょ。ひとりで帰ってきちゃったの?」
「ううん、ロイさんがきてくれて……先生もいいって言ってくれたから。おかあさんは?」
「母さんは、まだ帰ってきてないよ。今日は少し遅くなるって言ってたかな。ロイさんは帰っちゃった?」
「下にいる」
「そう。じゃあ僕も着替えたらすぐに行くから、待っててね」
頷いた兄が階段を下って行くのを見送ってから、ほ、と知らないうちに詰めていた息が漏れた。急いでベッドの上に畳んで置いてあった部屋着に着替えて部屋を出る。
兄は今、近辺にある総合病院の心療内科に入院しているのだけれど、今日のように外泊を許された日にはこの家に帰ってくる。いつもは僕や母が迎えに行くことになっていたから、まさかひとりで病院を抜け出したのかと思って驚いてしまった。あの人も連絡してくれればいいものを。
「ああ、アルフォンス。久しぶりだな」
「ロイさん、迎えに行ってくれるのはいいですけど、一言くらいくださいよ。僕の携帯番号教えたでしょう」
「いや、驚かせてやろうと思ってな」
「心臓が縮みました」
兄とともにソファに悠々と腰かけた彼は、目論見が達成したようでご満悦である。
「大体大学は? 平日なのに」
「試験で完璧な解答を叩き出してやれば誰も文句は言わん」
まったく可愛げのないことを言うあたりも相変わらずのようだった。実際彼はとても優秀な男で、大学の教授陣にも一目置かれているのだとか。昔からこんな性格だからそれこそ様々な逸話が残っているのだけれど、とにかく一癖ある男だというのは間違いがない。
「そういう君こそ、今年は受験生だろう。こんな早い時間に帰ってきていいのか?」
「早いって、もう四時半ですよ。部活も入ってないし、授業が終われば帰宅するしかないんです」
「講習とかあっただろう、この時期は」
「ああ、教師の自己満の」
「可愛げのないことを言うようになったなあ」
「それはこっちの台詞なんですけど……だって本当のことでしょう? そう言うあなたや……兄さんだってまともに出てたことないじゃないですか」
「そうだったか?」
白々しくほらを吹くものだ。毎年受験生向けに学校側が行う講習という名の授業は、自分で問題を解き、おまけで教師の解説を聞く程度のものだった。それならはじめからひとりでやっていた方が効率がいいし、たしか兄さんや彼も同じことを言っていたと記憶している。
「……アル、怒ってんの?」
「怒ってないよ」
不安そうに身を竦めて僕の様子を窺う兄に笑いかけ、滑らかな頬を指の背で撫でてやる。兄に対する行為としては相応しくない。ただ、今の兄は著しく精神が後退しているという点を忘れてはいけなかった。
「兄さん、今日は何食べたい? なんでもつくるよ」
ソファに座り両膝を手で抱える兄と目線を揃え、やさしく尋ねる。小学校低学年辺りの児童だと思って接すると、時折反発的になることはあっても比較的塩梅はいいのだ。こちらが穏やかな態度であれば向こうも無闇に気を尖らせることはない。
「アルのごはんはなんでもおいしいからなー、迷う……」
「迷わなくても、今回は土日はうちで過ごせるんだからさ。明日も明後日もごはんつくってあげられるんだよ?」
「んー、うん、じゃあ、シチューがいい! 白いやつな!」
「だと思った」
兄の好物は昔から変わることはないから、兄が家に戻ってくるときには必ずシチューの具材を揃えている。兄の曇りのない笑顔が見たくて、単純によろこんでほしくて、僕はいつも兄のために料理に腕を振るうのだ。こちらの不安を煽るように繰り返し「大丈夫」と口にしては苦々しい笑みを浮かべていた兄はもういない。それがいいことなのか悪いことなのか、僕にはもう判別がつかないし、ついたところで何にもならない。考えるのは、兄の心の平穏ただひとつだ。兄が安らかであるならば、それが僕にとってのよろこばしいことだから。
頭が痛いと言って泣きながら自分の身体を傷つける兄を見たときの衝撃は、一生忘れられそうもない。兄の友人である彼が大学へ進み、環境が変わったことによる忙しさから兄との交流が一時期絶たれたとき、そのとき兄の精神状態はおそらく極限に達していたのではないかと思う。――見つけたのは偶然だった。隣り合わせの兄の部屋から啜り泣くような声が聞こえ、慌てて踏み込んだ僕を待っていたのは自分の手の甲を鋏で切りつけている兄の姿だった。呆然としながらゆっくりと兄に近づき、鋏を持つ手を押さえた。痛いでしょ、もうやめようよ、そう言うと、おにいちゃんの頭はこうしないとよくならないんだよと兄は言った。まるで小さな子供に言い聞かせるように、やさしい声で。
血を見てやっと頭痛が治まる。兄の発言は一部支離滅裂な箇所もあったけれど、要約すればそういうことだった。この時点でどうすればいいのかなど精々十何年しか生きていない僕に導き出せるものではなく、さらけ出された兄の脆い部分を周りに知られてしまうことが一番いけないことだと思ってしまった。だから僕はこの身を捧げた。そう、捧げたのだ。紛うことなく。
僕は心の中で白状する。兄のためのこの行為によって、僕は何よりも満たされた。僕というちっぽけな人間の存在意義がしっかりと確立し、この先も兄の人生に添えることを心の底からよろこんだ。一度加減がきかなくなった兄に深く傷つけられて病院へ搬送されるという、ちょっとしたできごとがあったけれど、それだって僕は、兄がそれだけ僕を求めてくれているのだといううれしさしか感じなかった。そんな僕に「可哀想に」という言葉が似合う訳がないだろう。
「なあ、アル、」あたたかい指先が僕の手に触れる。「今日は、一緒に寝るだろ?」
「勿論。一緒に寝ようね」
満面の笑みを湛える兄を見ながら、僕は人が一生で得る幸福の量や程度について考える。僕の中身はこれ以上ない程の幸福で満ち満ちている。僕はわかっている。兄の今は、兄が望んだものではない。人の不幸を喰いものにしているのは、僕も、同じなのだ。
僕は心の中で白状する。ナイフとフォークは、いまだ僕の手にある。























4
頭が痛い。常時靄がかかっているかのように思考が霞む。もうずっと、オレがいない。オレがいなくなって、どうしようもなく不安になるときがあって、たまらず泣き喚きたくなる。でもそういうときには絶対に弟が助けてくれる。オレの手を取ってくれる。色んなものを失ってしまったオレだけれど、弟だけはなくさずに済んだみたいだった。
頭が痛い。そばにいてくれる弟を傷つけるなんて、最低の兄だと謗られてもおかしくはない。少しずつ痛みが治まったところで今度は良心の呵責から心が痛み出す。身体中のどこを切り開いたってありもしない心が確かに痛むんだ。弟はやさしいからオレを傷つけるような言葉は一切使わないし、それどころかいつも笑顔でいてくれるのに、オレの目にはときどきとてもかなしげな色を帯びているように映った。それがオレの所為なのかと思ったらひどく心苦しくて、また、泣きたくなってしまう。
なあ、なあ、そんなお前に「可哀想に」と言ったら、お前は怒るんだろうか。

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