(さあ、だからさらば)





糖 
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重苦しい目蓋をどうにか抉じ開けると、部屋は真っ暗で何も見えなかった。ベッドから降りて締め切られたカーテンから外を見れば、雨はもう止んで煌々と月が地面を照らしていた。
今何時だろうと首を回すも、時計らしき物体は見当たらない。仕方がないのでドアを開けて階段を静かに下っていった。静かに、というのは、微かな話し声が聞こえたからである。おそらくは家主が誰かと電話でもしているのだろう、それならなるべく音を立てずにいるのが好ましい。
「……彼と喧嘩したんだってね、珍しい。…………はは、そうか。……ああ、わかっているよ、彼の気が済むまで置いておくから」
相手は誰だか訊かないでもわかった。エドワードはお節介な奴、と内心ひとりごちて階段に腰かける。
「……いや、いいから、ああ、それじゃ」
間もなくチン、と受話器の置く音がしたので立ち上がるも、なんとなく出て行きづらい。どうしたものかとエドワードが思案しているところに、ロイが具合はどうだと足音の主を見もせずに問うた。手にはコーヒーカップが握られている。参ったな、気づいていたのか。エドワードはなんともないふりを装って残りの段を下りた。
「うん、まずまず」
「そうか。熱はないみたいだったから、特に心配もしなかったんだがな」
「今何時?」
「午後十一時。あと一時間で日づけが変わるな」
「んげ! しまった寝すぎた……」
「どうせ徹夜していたんだろう、なら丁度いいじゃないか、また一眠りすれば」
「……アルはなんて?」
「よかった、もしかしたら路上で倒れてるかもって思ってて。じゃあ取り敢えず兄さんをよろしくお願いします。お腹空いたとかって文句言い出したら適当にあしらってくださいね―――あと、なんて言ってたかな……」
「いや、もういい、もういいから。後であいつしめてやる」
「そんなこと言うな。とても心配していたよ、本当に」
もうひとつカップを追加して、ロイはエドワードを手招いた。
「コーヒーでいいか」
「ん」
するりと伸びてきた手を振り払う理由もなかったので大人しく受け入れると、ロイの骨ばった指はエドワードの目尻をすっと拭っていった。そういえばなんだか目元が濡れているような、そんな気がしたけれどまさかなと思い、手渡されたカップを啜った。
「なんでアルと」
いくつかの問いかけがあったので、取り敢えずなんにでもききそうな無難な質問を投げかけてみる。まず先の電話はどちらからかけたものなのだろう、何故エドワードの居場所がわかったのだろう。ロイは憮然と答える。
「司令部から連絡があったんだ。鋼のを知らないかとね。訊けばアルフォンスが鋼のを探していると言うから、私は彼にひとまず連絡を入れることにした、それだけだよ」
「へえ。そう」
「そう」
こんな夜中にそんな話をしていたということは、もしかしたらアルフォンスは今頃までエドワードを探していたのかもしれない。そう思うと、少し、自分が情けなく思えた。そんな気持ちを敏い上司に気づかれないように、エドワードはずず、と音を立ててコーヒーを飲み干す。苦い味が舌の上に広がっている感じが、なんだか虚しかった。
「帰るなら、ちゃんと下も履いていけよ」
「帰るって、」
どこに。そう言おうとして、やめた。あまりにも馬鹿らしかったから。
「君の服はまだ乾いていないんだ。明日になればもう大丈夫だとは思うが。ああ、勿論ここにいてもいい。こんな夜中に子供を放り出すなど、常識的に考えておかしいことだからな」
「子供じゃないっつーの。……うん、じゃあもうちょっとここにいさせて」
「ああ」
もっと何か言うものと思っていたのだけれど、ロイが発したのは素っ気ないくらい、ほんの一言だけだった。そういえばいつも大佐はそうだった、とエドワードは空になったカップに新たにコーヒーを注ぎ足す。なんの前触れもなく押しかけてシャワーも拝借して、おまけに風呂の中で吐いて。それでもロイは追求したりしなかった。何も訊いてこなかった。そこのところが何よりも心地いいのだ。多分ふらりふらりとここへ無意識に辿り着いてしまったのも、それが大きく関係している。そう思う。





その後ロイがシャワーを浴びてくると言って消えてからリビングへ戻ってくる間、自分が何をしていたのかまるで記憶にない。ただ気づいたら恥ずかしいくらいの涙の粒が頬を転がっていて、それをどう処分したものか迷っている内にロイはまた熱いコーヒーを差し出した。嗚咽すら込み上げてこないエドワードに黙って、ただ黙ってコーヒーを。じっと黒い水面を見つめていれば涙がぽたりと落ちて、波紋を生んだ。







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080125
終わり。

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