もうすぐ孵る・1
リビングのソファに並んで座りだらだらとコメディ映画を観ていると、突然ディオが妙にうきうきとした調子でそうだ! と言った。コメディだというのにくすりとも笑えない映画は確かに退屈だった。退屈だったけれど、ディオの思いつきは大概ぼくが酷い目に遭うので、嫌だなあと思いながら彼を見やる。ディオの顔はさっきまでテレビに向けていたつまらなさそうなものから嬉々とした表情にすり替わっていた。ああ、嫌な予感しかしない。「ジョジョ、こんなくそがつくほどくだらない映画はもうやめよう。そんなことよりいいことを思いついたぞ」 「ええ、レンタル料金が勿体ないから最後まで観ようよ」 「うるさいな、ぼくが観たくないと言ったら観たくないんだよ。大体レンタル代だってぼくが払ったんだろう。いいからさっさと服を脱げ」 「いきなり何を言い出すんだよ! きみの思考回路はどうなっているんだ!?」 ディオは何をとち狂ったのだかぼくの了承も得ないままに、いきなりぼくの服を脱がしにかかる。勿論今の今まで観ていた映画にこんなシーンはちらりともなく、ディオがどういう思考の流れでこんな変態じみた要求をぼくにすることになったのかまったくわからない。ディオの考えることはいつも予想がつかないのだ。 「きみは本当に聞き分けがないな! ぼくの手を煩わせるなよ」 何をされるかわかったものではないのに安々と従えるわけがない。それでもディオは自分の言うことを聞くのが当然のようにふんぞり返ってぼくを見下ろしている。ソファの上での攻防はいつの間にかぼくがディオの下になっていて、どっちにしろぼくには逃げ場がなかった。ああもう、と半ば自棄糞になりながらわかったよと叫ぶと、漸くディオがぼくの上からどいてくれた。最初からそう言えとでも言いたげな顔だ。なにこれ腹立つ。 「でもちゃんと説明してよ」 「うるさいな。すぐにわかる」 「なんだって?」 ぼくの質問にはまともに答えてくれずに、ディオはバスルームへと入っていく。暫く待つとやはりうきうきとした足取りでディオが戻ってきた。浴槽にお湯を溜めているのだろうか。 「王さまごっこだ」 「王さまごっこ?」 鸚鵡返しに尋ねると、ディオはソファに腰かけ直したぼくの真ん前に跪く。当然ぎょっとするぼくを見上げ恭しい仕草でぼくの手を取った。あの高慢ちきなディオが一体なんの冗談か。いよいよ混乱してしまってかたまるぼくの手の甲に、ディオはそっと口づけを落とす。 「王さま、湯浴みのお時間です」 「な、なんだって?」 もうぼくはそれしか言えなくなってしまった。ディオは真面目な顔つきを少しだけ歪める。吹き出したくて堪らないのを我慢している顔だ。多分、心の中では盛大にぼくを馬鹿にしているのだろう。ディオの考えることはわからないまでも、ディオがぼくを馬鹿にしているというのは雰囲気で伝わってしまうものだ。 「さ、こちらへ」 ディオは慇懃にぼくの手を引きドレッシングルームへ連れて行く。王さまごっこと言われたからにはきっとぼくが王さまなのだろう。それなのに、何故か不思議なことにぼくの気持ちは奴隷市場へ直行する捕虜そのものだった。早く飽きてくれればいいものを。 「えー……とっとと脱いでください、王よ」 ぼくの着ているセーターを掴みかけて、ディオはそんなことを言った。絶対に自分で僕の服を脱がすのが面倒くさかったに違いない。いちいち反抗するのも疲れるので、ぼくは大人しく、それでも渋々と脱衣していく。先ほどディオに無理矢理ひん剥かれそうになった所為で、セーターの下のシャツのボタンがふたつほど飛びそうになっていた。 大人ふたりはゆったりと浸かれるであろう湯船にはもうお湯が溜まっていて、おまけにしっかりと泡立っている。先日ディオが面白半分で購入した入浴剤を入れたのだろう。ちらりと背後を確認するとさっさと入れとディオの視線が言っていたので、足先でお湯の温度を確かめてからゆっくりと足を浸けた。ディオのことだからてっきり熱湯でも用意していると思ったのだけれど、それは杞憂だったらしい。 「湯加減はどうですか?」 「……落ち着かないから、普通に喋ってよ」 「堪え性のないやつめ。ほら」 「うわっ!?」 鼻で笑われながら肩まで浸かると前触れなくシャワーを正面から頭にかけられる。反射的に目は瞑ったもののシャワーの勢いが強すぎて鼻に少しお湯が入ってしまい、ぼくは慌ててストップと声を張り上げた。 「ちょ、ちょっと、……うう……鼻が……きみはすべてにおいて突然すぎる!」 「声はかけただろう」 「ほら、だけね!」 じんわり痛む鼻を抑えながらディオを睨むと、当の本人はなんの悪気もないようでしれっとしている。 「じゃあ、あっちを向けよ」 後ろからならまだ安全だろうかと判断し、身体の向きを変えてバスタブに背中を預けた。勢いを緩めたシャワーで十分に頭を濡らされると、シャンプーらしき液体を頭皮に擦り込まれる。ここで漸くディオのやりたかったことが理解できた。要するにぼくの頭を洗いたかったのだろう。それならそうと最初に言ってくれればいいのにそうしないのがディオの面倒なところだ。 「気持ちいいかい?」 「……ん、……まあまあ……」 他人に頭を洗われるのはもしかするとはじめてかもしれない。ディオの指先が予想以上に繊細な動きをするので、なんだか妙に背筋がぞわぞわとする。それでも気持ちいいことには変わりがないのだけれど、素直に認めるのもなんだか悔しい気がして返事も曖昧になった。ふうん、とどこか面白くなさそうな声と同時にディオの指が離れる。機嫌を損ねてしまったかと一瞬不安になったものの、すぐにその手は戻ってきた。シャンプーを足されたらしい。 「泡が入るから目を閉じてろよ」 「うん」 ディオが手を動かすたびに泡が立ち、額から零れてきそうだったので慌ててそのとおりにする。すぐに目蓋の上を泡が流れ落ちた感触がした。 「ねえディオ、どうしていきなりぼくの頭を洗おうと思ったの」 「理由がないといけないのかい」 「だって……」 「映画がくそつまらなかったに決まってるだろう」 「くそくそって、そういう下品な言葉を使うのはやめたら?」 「あーうるさい、黙って洗われてろ。暇なら歯でも磨いておけよ」 またディオの手が離れた。泡の所為で目が開けられないぼくはディオの次の行動を待っているしかない。 「口開けて」 申し訳程度に開いた唇から何か棒状のものを突っ込まれる。おそらく歯ブラシだ。話しかけたら鬱陶しがられるしと仕方なく歯を磨きはじめたぼくの後ろで、ディオもまたぼくの髪に指を通す。いつまでつづくのだろう、この暇潰しは。 どちらも無言だけれどバスルームには泡立つ音が途切れない。湯船に浸かっているのも頭を洗われるのも気持ちがよくて、ついつい眠ってしまいそうになる。それでもなんとか気力だけで歯を磨きつづけていると、不意にやわらかい肌触りを首筋に感じた。なんとなく、それはディオの指ではなかった気がして、歯ブラシを一度口から抜いて問いかける。 「……ディオ?」 「うん?」 「いま、なにか、した?」 「何も」 今のぼくには何も見えない。そっけなく答えるディオのそれが嘘なのかそうでないのかわからず、訝りながらも歯ブラシを咥え直した。 「まあ、こんなものか。流すぞ」 「んえ!?」 またしても急な宣言を受け、すぐにぬるま湯を浴びせられる。慌てて下を向くと些か乱暴に頭を掻き混ぜられながら泡が洗い流された。これでやっと終わったかと思えば残念ながらそうではなく、シャンプーの後はどうやらコンディショナーの出番らしい。相変わらずぼくは目を閉じたままディオのなされるがままだ。 そうこうしているうちにコンディショナーもシャワーで流され、漸くぼくは瞬きをすることができた。視界にものが映るというのはこんなにも落ち着くのか。 「きみがきちんと磨けたかチェックしてやる」 次から次へとディオのやることは性急すぎる。一息吐く間もなく背中から伸ばされた手はぼくの顎を鷲掴みにし、有無を言わさず上向かせられると、ぼくから歯ブラシを奪い取り立ち上がったディオが口の中を覗き込む。泡と涎が混ざったものが喉に流れ落ちて飲み込みそうになるのも構わずに、ディオはあろうことか喉奥に歯ブラシを突っ込んだ。途端に猛烈な嘔吐感が迫り上がる。堪らずディオの拘束を振り払い、ぼくは湯船の中に唾液か胃液か判別がつかないものを吐き出してしまった。 「なに、する……っ」 「……きみが悪い」 嘔吐くぼくを見下ろすディオは、――なんだか泣きそうだった。ありったけの文句を言い募ってやろうとしたのにぼくはたちまち言葉をなくしてしまう。どうしたのと訊くべきなのにまるで舌がかたまってしまったように動かなかった。 リビングからはつけっ放しだったコメディ映画の陽気な音声が微かに流れ込んでくる。ディオのそんな顔を見るくらいなら、つまらない映画を観ていた方が何百倍もましだった気がした。 (20131110)
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