きみよりも先に気づいてしまった情緒の芽



もうすぐ孵る・2
 ディオが熱を出した。常日頃からぼくは腹を出して寝ようがずぶ濡れで放置しようが何をしても風邪は引かないと豪語していた彼が、熱を出した。はじめは彼も認めたくなかったようで散々熱を測り直していたけれど、漸く現実と向き合う気になったらしい。体温計を苦々しげに睨みつけ、ぱたりとベッドに沈んだ。
「やっぱりきみも人の子だったんだね」
「……どういう意味だいそれは」
 ディオに毛布をかけてやりながらぼそりと呟けば、熱で朦朧としている状態でも自分の悪口には敏感らしいディオが、じとりと咎めるような視線を投げてきた。
「これに懲りたら真冬に水浴びはもうやめなよ」
「健康療法だ」
「……熱を出しているのに?」
「繰り返すことに意味がある」
 どこで聞きかじってきたのだか知らないけれど、その妙な知識のもとに行った水浴びに効果があるようにはとても思えない。ぼくが目覚める前に、つまり朝早くからそれを実践したディオは、夕方にはご覧のとおりのありさまだった。学校にいる間中はなんとか平静を装っていたようでも、家に着くと気が抜けたのか突然倒れ込んだ。家には生憎誰もいなかったからぼくがディオを部屋まで引きずりベッドに寝かせたのだ。この重労働を考えるともう二度とやってほしくはない。
「馬鹿なこと言ってないで、きみはもう寝て。眠れないなら子守唄でも、読み聞かせでも、なんでもしてあげるからさ」
「馬鹿なことを言っているのはきみの方だろう。ぼくはもう幼児じゃあないんだぜ」
「そうかい? ぼくが熱を出したときなんか、きみはよくやってくれるじゃないか」
「それはきみが十四にもなって、いまだに幼児と同レベルだからさ」
「……嫌みを言う元気があるなら大丈夫そうだね。もうきみは何も喋らないで、おとなしくしていなよ」
 ぽん、と毛布の上からディオの身体を叩くと、煩わしいとばかりに手で追い払われた。
 ぼくが以前同じように熱を出して寝込んだとき、ディオは馬鹿だのなんだのと憎まれ口を叩きながらも看病してくれた。今度はぼくの番だ。ぼくがディオを看病して、元気にしてあげる。――最近のディオはどうにも変でおかしな態度ばかりを取るから、それも今回の発熱と関係しているのかもしれない。
 ぼくの頭を洗うとか変なことを言い出したあの日から、ディオはなんとなく素っ気ない。必要以上にぼくに接触してこないし、そのくせ何か言いたげな表情でぼくを見る。ぼくにはディオの考えていることなんてこれっぽっちもわからないから、ディオが教えてくれなければどうしようもないのに、ディオはそうはしない。じっと耐えている。そんなふうに見える。

 夕飯にチキンスープを持って行ってもディオは一口二口程度しか口をつけなかった。何か変なものが入っていたら困るとか失礼なことを言っていたけれど、あれは多分、本当に具合が悪くて胃が何も受けつけなかったのだと思う。薬を大量の水で流し込むとディオはまた眠ってしまった。手のかからない病人のおかげでぼくはやることがなくて、ディオのそばで学校の宿題を片づけることにした。ディオが静かだと、どうももの足りないというか、つまらない。
 そういえば、この間借りたコメディ映画もとてもつまらなかったのだけれど、やっぱりレンタル代が勿体なかったからひとりで最後まで観てみた。ストーリー自体すごくあり触れていて、ふたりの男性がヒッチハイクで世界を回る話だ。彼らは行く先々でいろんな人やものに出会い、別れを繰り返す。寒いジョークを織り交ぜながらヒッチハイクの旅はつづいて、ときどき親切にしてくれた女性に恋をしたりもする。へまをして拘置所で夜を明かすシーンもあった。たいした山場も落ちもなくひたすら冗長な映画は、まるで彼らふたりの日記を盗み読みしている気分だった。
 あれがぼくとディオだったらどうだろう。ぼくとディオのふたりきりで世界のあちこちを旅するのだ。きっとぼくらは寒いジョークを言い合うより先に口喧嘩をするだろうし、頭のいいディオのことだからへまをして捕まるとしたらぼくの方だろう。でも、恋は、どうだろうか。ぼくには少し前にとても好きになった女の子がいるけれど、どうしてだろう、ディオが誰かに恋をしている姿なんてとても想像できない。ディオだってひとりの男なのだからガールフレンドのひとりやふたりいそうなものなのに、女の子と連れ立って歩いているところをぼくは見たことがなかった。
 執拗なまでに女の子の影をちらつかせないディオは、いくらか潔癖なきらいがあるように思えた。

「……何してるんだ……明かりもつけないで……」
「起きたのかい?」
 もぞもぞと布団から這い出たディオが寝ぼけ眼でこちらを見ていた。指摘されてはじめて室内の暗さに気づく。いつからぼんやりとしていたのだか、机上の宿題はちっとも終わっちゃいなかった。テーブルスタンドの明かりだけつけてディオに体温計を差し出す。
「気分はどう? 一応、熱を測ってみて」
 言いながらディオの額に手を伸ばすと、だるそうにしていたのにも関わらず結構な勢いで打ち払われてしまった。熱で潤んだ瞳がぼくを見据える。
「ぼくに触るな」
 まただ、と思う。ぼくに一切触れようとせず、触らせもしない。それなのにその、何かもの言いたげな目。一体ぼくにどうしろというのだ。
「ねえ、ディオ。きみはおかしいよ。どうしちゃったの。ぼく、何かきみを怒らせた?」
 正直に言ってあのお風呂の件はぼくが被害者だと思うのだけれど、ディオははっきりとぼくが悪いと言ったのだ。ぼくが何かしたなら謝りたい。でもぼくには思い当たる節がない。ディオが何に怒っているのだか見当もつかないのだ。
 ディオはぼくの問いかけには答えてくれず、体温計を脇に挟むと目を閉じてしまった。何も言う気がないのなら無理に口を割らせることは本意ではない。仮にも今のディオは病人なのだから。
「……氷枕。新しいのにかえてあげるね」
 ディオの頭の下に敷いていた氷枕に手をかけると、平時よりも熱いディオの手がぼくの手首を掴む。
「……そばに、」
 そうしていつものディオからは到底聞けないようなか弱い声で、そう言った。
「きみが……よくわからないよ、ディオ。ぼくを拒んだくせに、今度はそばにいろって言うの?」
 具合が悪いとき、人は心細くなるものだと知っているのに、ぼくはわざと意地の悪い言い方をした。ほんの少しだけ、ぼくはディオに苛ついていた。払い除けた手も何も語らない口も、その、目にも。
「氷枕をかえるだけだよ。すぐに戻ってくるし、そうしたらきみのそばにいるよ。それでいいだろう?」
「ジョジョ、なんでもいい。ぼくが眠るまで何か喋っていてくれないか。この部屋は静かで、息が詰まりそうなんだ」
「何を言っているんだい、いつもきみが寝起きしている部屋じゃないか」
「子守唄でも読み聞かせでも、なんでもしてくれるんじゃあなかったのか? きみはぼくに嘘を吐くんだな」
「それはきみも幼児と同レベルだと認めることになるけど、いいんだね?」
 さすがのディオもこれには黙ってしまった。揚げ足取りなどするものではない、そうは思っていてもぼくの中の小さな種がむくむくと膨らんで、息をしている。きっと発芽も目前なのだ。ディオに対して優位に立てるときなどそうはない。ぼくがいなければディオは弱るばかりなのだろう。ぼくは、なんとも、心根の醜い人間であるらしかった。それでもぼくがディオを元気にしてあげようと誓ったのは本当だから、ディオの頼みは受け入れるに決まっている。
「……仕方ないなあ。それじゃあ、きみは最後まで観ようとしなかった例の映画の話でもしてあげようか? ああ、なんでもいいって言ったのはきみなんだから異論は認めないよ」
 ディオは一瞬、喉にものが詰まったような顔をしたけれど、なんでもいいと言ってしまった手前、文句はそのまま飲み込んだようだ。ぼくは一層気分をよくしてデスクチェアをベッド脇に寄せ、ディオが寝静まるまで映画のストーリーを話して聞かせた。語りながらもう一度主人公ふたりにぼくらを重ねてみた。そうして多分、ぼくは気づいてしまった。思い出したのだ。好きになった子に宛てたぼくのラブレターを、ディオがびりびりに破いてしまったことを。
「ぼくが誰かとつき合ったら、今度はきみは、どうするのかなあ。ねえ、ディオ。……寝ちゃったのかい?」
 穏やかに上下する胸がそれを肯定している。さっき体温を測ったとき熱は僅かに下がっていたようだけれど、夜中にはまた上がるかもしれない。ディオの頭を少しだけ持ち上げて氷枕を抜き取る。
「おやすみ」
 そっと唇を落とした額は、しっとりと汗ばんでいた。

(20131117)
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