目先の満足/20131108

(なんと憎し変声期)



 その歌声を聞いてしまったことはまったく不幸な偶然だったと言うしかない。

 可愛がっていた犬が死んでからというものどうにも沈み込んで自室にこもりがちだったくせに、その日は珍しく朝から庭へと出ていくジョナサンの姿がぼくの部屋から見えた。何を言ってもぼんやりとしたままの張り合いのないジョナサンには辟易していたので、ぼくはすぐにその後を追った。何か面白いことでもあれば儲けものくらいの軽い気持ちだったのだ。
 ジョナサンはすぐに見つかった。心ない殺され方をした犬の墓前に立ってゆっくりと息を吸い込むと、普段のそれとはまるで違う声で歌いはじめた。おそらく賛美歌だったと思うがこのときのぼくはまさに放心状態というやつで、まともに歌詞は聞き取れなかった。ただジョナサンの歌声だけがぼくの脳裏に刻み込まれた。
 ひとしきり歌うとジョナサンはその場にしゃがみ込んだ。背中を丸めて両耳を塞ぎ、小さく肩を震わせたと思えば聞こえてきたのは嗚咽だった。
「もう歌わないのかい」
 耳に手を当てたままでは聞こえないかもしれないと思いつつも背後から声をかけるとジョナサンの身体ははっきりと驚きで跳ねた。慌てて涙に濡れた頬を拭いなんでもない素振りでこちらを振り向いたその顔には意外にも笑みが浮かんでいたが、それは明らかに無理矢理がんばってつくっています、というようなものだった。泣いていたことを隠したかったのだろうか。ぼくだから知られたくなかったのだろうか。
「おはようディオ。きみもダニーに会いに?」
 そんな考えはこれっぽっちもなかったがジョナサンがあまりにもへたくそな笑い顔を見せるので、ぼくはああ、と仕方なく頷いた。
「ぼくの前では無理をしなくてもいいさ。泣きたいだけ泣けばいい」
「そんなわけにはいかないよ。ぼくはもう今日でかなしむのを終わりにするんだ。いつまでもぼくが泣いていたら、きっとダニーが心配すると思うから」
 死んだ犬が心配などできるものか。相変わらず頭の悪いことを言うものだと思ったが、ここでジョナサンの機嫌を損ねてしまっては意味がない。ぼくはもう一度ジョナサンの歌声を聞きたかった。
「じゃあ、また何か歌ってくれよ。その方がダニーもよろこぶだろう」
 そうかな、とジョナサンが言うので、そうだよ、とぼくは言った。
 ジョナサンはゆっくりと立ち上がり、どこか緊張した面持ちでまた深く息を吸う。たちまち朝の庭に響き渡るのは普段のジョナサンからは想像もできないほど美しい声。神が唯一ジョナサンにのみ与えたもの。
 他になんと形容すればいいのかわからない。ぼくは、それがほしいと思った。

 歌い終わると気恥ずかしそうにジョナサンは微笑んだ。ああ、ああ、たまらない。我慢ならない。ジョナサンの手首を掴んで草の茂みに引きずり込んだ。突然のことに動揺し抵抗するジョナサンの身体の上に跨がって左手で頭を押さえつける。反対の手でジョナサンの首元を緩めるとそっと喉仏を撫でた。人の手では決してつくられることのない天恵とも呼ぶべき楽器がここに眠っているのだ。腰元からナイフを引き抜いたぼくを見上げるその目にはありありと恐怖の色が浮かんでいる。ぼくは無我夢中だった。ゆっくりと首の側面にナイフを突き立てていく。途端に耳を劈くような悲鳴が漏れる。違う、ぼくが聞きたいのはそんな汚らしい音ではない。胸元を探ると丁度よくハンカチが出てきた。それをジョナサンの口に突っ込むと耳障りな音はいくらかましになった。興奮のあまり手が震える。どうしようもない。あれが、ぼくのものになるのだ!

 その歌声をぼくが聞いてしまったことは、まったくきみにとって不幸な偶然だったと言うしかない。
 かわいそうなジョナサン。きみが変声期を迎える前で本当によかった。ありがとう、礼を言うよ。きみにはもう聞こえていないかもしれないけどさ。


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