「アレン、」 彼が、僕の名をそういう風に、どこか感情の失せた声色で呼ぶようになったのは一体いつからのことだろう。 「お前の頬は、白くてきれい」 「―――ラビ……った」 僕の頬目がけて伸びてきた手を払わずにいると、感じる熱い痛み。 「知ってる? 白に一番映えんのは赤なんさ」 思わず触れればぬるりとした感触がそこにはあった。引っ掻かれたのか、と思い至る。 「ラビ……?」 確かめるように、僕は彼の名前を呼ぶ。 「―――誰のこと?」 寒気が、した。 「ど、したの。ラビ」 「どうもしないけど。お前がどうしたよ」 どうもしない訳がない。あれだけ冷えた目を向けたくせに、何もないだなんて到底思えなかった。けれど彼は、本気で、言っているのだろうか? 「なあ、ラビとか、誰のこと言ってんの?」 「―――………」 あまりのことに、言葉も失せる。今なんて言ったのと、訊き返すこともできない。 「オレのこと言ってんだったら、ひでぇな、そりゃねーよ。オレの名前は、そんなんじゃねぇもんさ」 「な、に言って、」 「アレン?」 ああ、また。 (色のない音) 「冗談やめてよ、キミはラビでしょう? そんなブラックジョーク、誰も笑えませんよ」 「ジョークって、え? お前こそ、性質わりーの。意味わかんねえ」 「意味わかんないのはこっちですよ。なんですか、オレの名前はラビじゃないとかって、も、全然意味わかんない!」 「……?」 小首を傾げるラビは、何か冗談を言っている顔ではなかった。けれど、彼の口からでるのはすべて、意味のわからない、そして悪ふざけのしすぎた戯言。 「え、まさか、本気……?」 「本気、って……逆にオレが訊きたいんですけど」 「やだ、やめてよ、そんなのってあり?」 「アレン? どうしたんだよ、なんか変さお前」 (―――変、て。何) 変なのはどっちだよ、そんな風に問い詰めることも、しようと思えばできた。けれどきっと、そんなことをしても事態は何も変わらない。今わかるのは、彼は、決して冗談の類でとぼけている訳ではないということだ。まずは、それ。本気で言っているということを、なんとか、飲み込む。 「……あの、ちょっと僕、行きたいところあるんですけど……」 「うん? どこ?」 「えっと、……医務室?」 「―――□□□□、どっか調子でも悪いんさ?」 「は?」 なん、だって? 「だから、□□□□は、どっか調子悪いのかって訊いてるんだけど」 「―――え、?」 「おい、いくらなんでも怒るよ?」 「…………なんか僕、ほんと、耳の調子、悪いみたいなんですけ、ど」 「まじで? じゃあ早く行かんと!」 そう言って―――ラビの姿かたちをした「誰か」は、僕の手を引く。 「あーでも、前から□□□□は人の話聞いてないところあったよな」 「……だれ、が?」 「お前が」 「あ……、」 どうにかこうにか繋がった。 僕は今、彼の中で、―――□□□□、という名前の。人間、らしい。 「はは……」 (そんなの、って) 上手く名前が聞き取れないことから察するに、それはきっと、違う言語なのだろうと思う。 わかったことは、これでふたつ。今、彼の名前はラビではないということと、僕の名前は□□□□だと、いうこと。 「あ、□□□□」 歩みを止め、彼は僕を振り返る。誰かの名前で僕を呼ぶ。 「そういや、ほっぺ。どしたん?」 ―――きっと、これはさっきキミがつけたものですよ、なんて言っても絶対に信じないのだろうな。だから、僕が答えるべき言葉はただひとつ。もう決まりきっている。 「ちょっと、不注意で」 「ふうん。気をつけろよー?」 「ラ、じゃない、えっと、……キミに言われたくないです」 「変な□□□□!」 (ここで笑おうと思えば無理矢理にでも笑顔はつくれる) 仕方がないから、暫くの間、ちんけな芝居につきあってあげよう。キミは僕にたくさんのものをくれたから、せめてものお返しに。 「あの、」 「何?」 「名前、なんて言いましたっけ?」 「うっわ、お前最悪。なに人の名前忘れてんだよ。オレは―――」 「……オレ、は?」 ううんと唸り、手を顎に添える。 「ああそうだ、オレの名前ね、」 「はい」 「△△△△っての。もう忘れんなよ!」 忘れんなよ、って。言われたって、そりゃ。 「―――……わかりました」 (どうにも聞き取れなかったのだから、無理でしょう) 「よし」 満足そうに彼は笑って、また僕の手を強く引く。この強引さは、何か大事なものを忘れてしまった今でも健在するのだと、改めて実感した。 「あれ?」 「……どうしました?」 それまでずんずんと、迷いなく進んでいた彼の足が、再びぴたりと立ち止まる。 「いや、あのさ……」 「なんですか」 「お前、いつ髪染めたん?」 多分、だけれど。頑張れば、かなりの無理を要すれば、ここでなんでもないように笑うのはきっと簡単な話、ではあるけれど。 「さすがに僕も、そこまで寛容じゃあないですよ……」 ここまできても、彼は本当に訳がわからない顔をするものだから、 「酷いなあ」 笑うことは、とてもできそうにない。 ごめんね、もう笑えない 070829 ええと、これにて澱みも終わりです。長い間おつき合いくださった方々へ、深く感謝の念を。 |