------------- 寄り縋った麗沢


僕はそれから四日ばかりを床に伏して過ごしました。父が亡くなり、養子と言えど実質ひとり息子である僕がこの家を引き継ぐことになるのですが、そこで生じたさまざまな問題も積み重なり、僕は寝台から抜け出すこともできない程身体を弱めてしまいました。一口に言えば、どこの馬の骨とも知れぬ異人に財産を相続する権利などないと主張する親類の方々の存在が僕を悩ませました。
父の家は代々続く由緒正しい家柄らしく、その当主である父が僕のような者を養子としたときもかなりの非難を浴びたようでした。その反対を押しきってまで父が僕と養子縁組をしてくれたことは、だからとても感謝しているのです。それこそ言葉にできない程に。そんな僕がこれ以上何を望むということもないのですが、このまま相続を放棄してしまうのもこれまた問題がありました。莫大な遺産を金の亡者である親類の方々がどうするのか、容易に想像できてしまったのです。彼らは意義のあることに金を使ったりしませんでした。他人のためにどうこうとか、そんなことはちらとも考えたりせず、自らの私欲を満たすためだけの道具としてしか見なしていなかったのです。その点父は素晴らしい人格者でした。かつての僕のような恵まれない子供のために尽くしてくれました。その父の遺志を彼らが継いでくれるとはどうしても思えなかったのです。そのため、僕はどんな手を使ってでも当主の座を勝ち取る必要があったのですが、この屋敷には僕の味方として尽力してくれる人間が殆ど存在しませんでした。唯一手を貸してくれると言ってくれた、生前父の執事を務めていた男が僕を励ましてくれなければ、僕はいまだに枕に顔をうずめていたことでしょう。
「あなたはどうして、僕の味方をしてくれるんですか」
僕はこう訊きました。すると彼は、それは息をするのと同じくらいとても自然なことであると答えました。
「オレ……私がこうして生きているのも若さまと同じ、あの方があってこその今の自分です。最下層にいた私を拾い、ここで雇ってくださったことには、感謝してもしきれない。そんな旦那さまの大切な忘れ形見をむざむざ見捨てるだなんて、どうしてできましょうか。――この家の使用人の大多数もそうである筈だが、……余程金に目をぎらつかせたお方々が怖いと見える」
彼は少しだけ皮肉ったようにそう言いましたが、心の底ではきっと仕方がないと思っている部分の方が大きいのだろうと思いましたし、僕もまた同じように思いました。
「皆あなたのように自分の意志を貫ける程、強くはないんですよ。金を持っている大人は、いつまで経ってもおそろしいものだから」
恵まれない子供というのはつまり、常に大金を相手にしているような人間に売られたり買われたりする子供のことを指します。その目的は観賞用とか奴隷とか、多種多様に渡りました。信じられない話と思うかもしれませんが、僕らはそんなふうに流されていたところを父に救われたのですから、これが事実としか言いようがありません。そういう訳でこの屋敷にはこの国の生まれではない人間が多く雇われていたのですが、ともかくも非合法にものとして売買されてきた僕らですから、養子でも雇われた身でも、いまだにこの家の一族には恐怖を覚えてしまうのです。
「……そう、若さま、ですがあなたはその大人たちと同じことをなさっていませんか。北の土蔵に、何を隠しておいでです」
彼は僕の手足が連れてきた男と同じ髪の色をしていました。だから僕は彼を見る度に、蔵に繋がれているであろう可哀想な男のことを思い出しました。何か懐かしいものでも思い出すように思い出していました。
「なんのこと? 僕は、何もしちゃいませんよ」
あの男を閉じ込めているのは僕の手足であって僕本人ではありませんでしたから、嘘は一言も言っていませんでした。まあ、はじめは僕のためにとやったことなのですが。僕はにこりと笑って彼の追及から逃れようとしました。すると彼は「成程、あの眼帯くんですか」とひとつ頷くような素振りを見せました。僕の手足は確かに右目を眼帯で覆っていましたが、彼はどうしても僕の手足を名前で呼んだりはしませんでした。手足の名前を知らない筈はないのにです。
「今更ながら、ずっと気になっていたので訊いてもよろしいですか? あの男、何故この屋敷に入り浸っているのです。表向きは書生となっているようですが」
「ああ、言ったことがなかった? 僕はてっきり、誰も何も言わないから、皆知っているものと……」
今度は間違いなく嘘でした。彼は困ったように苦笑して、知っていたのなんて旦那さまだけでしょう、と言いました。そういえばそうだったかもしれないと返しながら僕はどこから話したものだろうかと考えました。僕の手足は使用人としてではなく書生としてそばに置いていたものの、あれときたら勉学に励む訳でも家事を手伝う訳でもなく、ただのらりくらりと僕の後についてくるように生きていました。僕があれを手足と呼ぶように、余計なことは一切考えず僕の命令だけをただ忠実にきく傀儡としてこの屋敷の敷居を跨がせたのですから、それが正しいあり方だったのですが。
「あなたになら話してもいい。ただね、訊くけれど、それはなんの心配? 旦那さま? この屋敷? それとも、他の何か?」
「無論あなたの心配です、若さま」
彼は間髪入れずに微塵の揺らぎもない声音でそう答えました。ただ口調ひとつで信じられる程、僕は人間を信用していませんでした。口ではなんとでも言えますが、大事な本音の部分はどうだかわかりません。真意は極端な場合以外、どこにあるのか僕にはわかりませんでした。極端な場合と言うのは勿論、会う都度会う都度金以外の話を持ち出さない身内の人間です。
「私のことが信じられない、という目ですね。無理もない」
「だってあなたは、いつからかは忘れたけれど、……急に僕に対してよそよそしくなった」
自分でも驚いたのですが、このとき僕の口からは酷く不貞腐れた声が出ました。あまりにも子供のような反応に彼も吃驚した様子で、あなたはいい意味で何も変わっていないと零しました。
「僕は少しも変わらないですよ。最下層にいた頃と同じ……逆に変わってしまったのはあなたの方だ。喋り方だって……」
言い淀んで、やめました。何か今更掘り返すのも一層子供らしさをさらけ出すようで嫌だったのです。彼は僕のかわりにその続きを繋ぐように、昔と同じくだけた喋り方で話し出しました。
「……オレがはじめてこの屋敷にきたときは、まだ異人なんてのはお前とオレと、あと数人くらいだけだったよな。言葉だってあのときは全然伝わらなかったが、オレたちのような異人がよく思われてないことだけはわかったもんだ」
「……頭の、かたい人ばかりでしたからね」
「同じ境遇を過ごしてきたからって旦那さまからお前の世話係を命じられたときも、お前はなかなか心を開いてくれなくてな、苦労したよ。覚えてるか?」
「覚えてますよ、そう何年も昔の話じゃないし。――僕はね、今もそうだけれど、あの頃は今以上に人間が怖くて……父でさえその対象だった」
奴隷の身として売り払われた僕はどんなに暴力を振るわれたかわかりません。身体に触れずとも、直接心に刺さる言葉だって十分な暴力なのです。僕はその記憶がずっと消えませんでした。僕を救い出してくれた父だってそういう側面を持っているのではないかと疑っていたのです。僕を救ったというのは建前で本当は――などとあれこれ思案を巡らせては猜疑心に蝕まれていました。ただそうやって何年か父のそばで暮らすことでそうではないのだと漸く気づくことができたのです。父は周りに対して、勿論僕に対しても始終穏やかな態度で接していました。
「父が死んで、ああやって怯えていた時間がとてつもなく勿体のないものだったと思いました。もっと早く打ち解けていれば、僕はもっと幸福な時間を過ごしていた筈なのに。僕は馬鹿だった。人を見る目がなかった。ただただ、後悔するばかりです」
僕は目から溢れ出そうになる液体をどうにか押しとどめようとしたのですが、結局どうにもならずについには彼の前で泣いてしまいました。思えば父が死んではじめて僕は涙を流すのでした。彼はそんな僕をからかうでもなく、そっと僕の背に置いた手をゆっくりと上下に動かしました。子供扱いをされているのだとは思いましたが、単純に彼の手のひらの温度があたたかいことに、僕は言い知れぬ安堵を覚えました。
「あなたのそのあやし方は、今も健在だったんだね」
嗚咽を堪えてそれだけ言うと、彼はお前専用だと嘯きました。
「……でもね、***。父とはたった六年しかいられなかったけれど、本当の父と思うには、十分すぎる年月だったと思うんです。父もそうだったら、言うことないのにな……」
「……旦那さまは、確かにお前を惜しみなく愛してくれてたよ。遺産だってすべてお前名義に書き換えられていたし、遺言書にもそのように書かれていただろう? 何も心配することはねえよ。お前は本当に、あの人の息子だ。特別なことなんてしなくても次の当主はお前に決まるだろうし、もしそうじゃなくなったとしても、旦那さまが残したもんは、変わらず全部お前のもんだ」
「うん、ありがとう。……あなたを疑ったりしてごめんなさい」
「まあ、オレも、悪かったけどな。どうしても、一介の使用人と若さまじゃ、立場が違いすぎてさ。でもそれでお前が不安になるんじゃ元も子もないな。――これからは、ふたりきりのときだけまたこうやって話す。それならいい?」
「え……いいんですか?」
「ただお前の力になりたいと思うのは、やっぱりお前のことが大切だからっていうのが、一番大きいんだぜ。そんなこと、言わなくてもわかってくれてると思ってたけど?」
片目を閉じて軽口を言う彼に、逆に気を遣わせてしまっていたのだとやっとそこで気づきました。彼の言う言葉が何よりうれしくて、思わず彼に抱きついてしまいました。突発的に針が狂ってしまった現実が、本当はそんなことはまったくないのに、元に戻ったように錯覚してしまったのです。彼はお前の方こそ甘えん坊は健在だなと抱き締め返してくれました。そして僕はずっとこのぬくもりを求めていたに違いありませんでした。
「オレは……お前が可愛くてしょうがないよ」
そのままぐしゃぐしゃと僕の頭を撫で回す手つきは昔とおんなじにやさしかったのです。失った人の、父のかわりだとか思いもしませんでしたが、どうしてか僕はせつなくなってしまった程でした。
「……さっきの、あなたで言うところの眼帯くんの話だけれど……あれは別に、僕らに害をなすことはありませんよ。あれは僕の従順な手足で、その証に右目の目蓋に焼印があります。それを隠すために眼帯をしてるんです」
「……どうして……」
「あれも僕らと似てるんです。帰る場所もないと言うから、僕が拾いました」
「そうじゃない、どうしてお前が、あの男に焼き跡をつけたりしたんだ。誰かの所有物にされる痛みを知っているお前が」
「僕らと似てるだけで、同じじゃあありませんよ。あれは僕のものになりたいって言ったんだもの。僕はそれを叶えてあげただけ。望みどおりにしてあげただけ」
「……数日前も、唇の端が切れていたようだけど」
数日前というと、きっと男をはじめて蔵に入れた日のことだろうと思いました。僕は確かにかっとして手足の顔を殴り飛ばしていました。ひやりと嫌な汗が背中を伝うのを感じました。
「それは……ただの躾の一環で……殴りたくて殴った訳じゃありません。大丈夫、ちゃんと、手加減はしてるから、本気じゃないから!」
そうか、と彼は一歩後ろへ引きました。もしかしたら彼は僕を軽蔑したのかもしれませんでした。再び得ることのできたあたたかさをまた失ってしまうという恐怖が一瞬にして僕の身体を包みました。急に逃げて行く温度に縋りつくように彼の腕を掴んで僕は叫びました。
「いかないで……僕を離したりしないで!」
頭にあったのは彼を手離したくないという思いと、僕の手足への苛立ちでした。自分で拾っておいて、なおかつ自分で印までつけておいてなんでしたが、彼が僕を蔑んだりしたのならそれは手足の所為だと思いました。
「***……僕はあなたがいないと……」
「……あなたがいないと、何?」
「僕はあなたがいないと、ひとりじゃ立てない……!」
人間というのはこんなに脆いのだと自覚せざるを得ませんでした。僕はずっと自分自身が強いものと半ば言い聞かせて生きてきました。虚勢だろうがなんだろうが、どんな暴力にも屈しなければいつかきっと最悪から抜け出せると思っていたのです。そうしてそれは叶ったように見えましたが、僕はまた手酷い仕打ちを受けました。父という絶対的な存在を失ったことにより、僕の地盤となる地面が大きく傾いだのです。誰かの支えがなければ立つことすらままならないのです。つまり僕はどうしようもなく脆弱でした。
「父のかわりなんて言わない、あなたはあなただから。でも僕にはもう、あなたしか頼れる人がいない……周りは、敵ばかりだ。だからお願い、」
彼は数秒の沈黙の後、先程よりも強く僕を抱き寄せました。そのしたたかな抱擁だけで、後はもう言葉はいりませんでした。


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