------------- 輪をなした罪悪


久方ぶりに蔵へ足を踏み入れると相変わらずの冷たい空気が僕を刺しました。室内は先程僕の手足がこの中へ錠を開けて入っていくのが見えたのに、明かりは一切灯っておらず真っ暗なままで、呼びかけてもなんの返事もありませんでした。
「**! 僕の声が聞こえないの?」
暫く待ってみてもやはり何も応答が得られなかったので、僕は諦めていつも蔵に置いてある筈の洋灯を手探りで探しはじめました。僕の手足がここへ入ったのは確かなのに、一体なんの悪戯なのだろうかと思いながら入口付近の棚に手を伸ばすと、すぐに探しものは見つかりました。ゆらゆらと揺れる灯火を掲げると僕はすぐに蔵内の異常に気がつきました。いえ、気がついたというよりかは、目にしたという方が的確でしょうか。とにもかくにもそれを視界に収めた瞬間、僕は息を呑みました。声も何も出ませんでした。曲がりなりにも僕の手足は雄であったのだと知りました。そして彼がただ瞠目するばかりの僕の名前をどこか憂いを帯びた声で呟いたとき、酷い胸焼けが僕を襲ったのです。僕はこれ以上何か言われる前にと蔵を飛び出しました。扉がその衝撃で嫌な音を立てたのにも構わずに僕は一目散に自室まで走り抜けました。そうして辿り着いた部屋で僕は膝をつき、そのまま倒れ込むように床の上に寝転がりました。心臓が忙しなく脈打っている中で、今し方目撃した情景が鬱陶しく何度も何度も思い出されました。そうしているうち、今度は胃から嘔吐感が競り上がってきたのですが、僕にはこれをどう処理していいやらわかりませんでした。吐こうにももう一度立ち上がるだなんてとんでもない苦痛でしたし、かといってこのままやり過ごすのも土台無理な話でした。
そうこうしていると、何やら廊下の方で慌ただしい足音がこちらへ向かってきているような気がしました。そしてそれは気のせいではなく、この部屋の前で一旦停止したかと思えば、そのまま扉が力任せに開かれました。なんて無遠慮なのだろうかと叱ってやろうにも、一言でも口にすればすぐさま嘔吐してしまいそうだったのでやめました。突然の闖入者は床に転がる僕を見て訝しむように眉根を寄せましたが、すぐに状況を察したのか僕を抱え上げ、今きたばかりの道を走りながら引き返しはじめました。
「お前は本当、意味がわからねえ。全部がいきなりだ。さっきだって、もう、何がしたいんだよ」
そのまま連れてこられたのは手水場でした。僕がこうして苦しい思いをしている横で手足はずっとぶつくさ文句を垂れていましたが、元はと言えばこの男の所為なのです。この男が妙な行為を――ああ、折角忘れていたのに、僕はまた思い出してしまいました。
「……それは僕の台詞です。あんなものを見せられて、常人ならとても平常にはしていられない」
あの蔵の中で僕が見たものは、世にも汚らわしい行為そのものでした。淡い明かりが照らし出した先には、縄で手足を拘束された男、そしてその男を組み敷く僕の手足がいたのです。それはつまり、いつの間にか彼らは僕の与り知らないところで肉体関係を有していたということなのです。そのとき何をしているのかは一瞬にして理解できました。理解できましたが、そうする意味や理由などというのはまるで理解できませんでした。
「確かに僕はきみに、あの男をきみの手足にすればどうかと言ったけれど……一度だってあんな行為を、僕は強いたことがありましたか?」
「***、何怒ってんさ?」
「怒ってない。ねえ、僕が質問しているんです。あれは何? どういうことなの? ちゃんと説明して」
「説明……と言われても。生殖活動?」
複雑そうな顔をして手足はとんでもないことを言ってのけました。
「馬鹿なのきみは……! 男同士で生殖も何もないでしょう! 僕が訊いているのはそんなことじゃない、そんなことではなくて……!」
脇に立つ手足は、今はもうとても遠い存在のように感じられました。僕は手足のことならばなんでも知っているように思っていたのですが、ここにいる僕の手足は、既に僕の手から放たれてひとりで生きているように見えました。少し目を離した隙に誰か別の人間を据えられたように思ったのです。
「だって、***、お前が言ったんさ。オレの好きにしろって。だからオレはそうした。なのになんで文句を言われなきゃならない?」
僕は言葉に詰まりました。手足の言うとおりだったからです。僕は手足に、僕が捨てたものをどうしようが勝手だと言いました。それ以外は、たとえばあれをするのは禁止だとか、そういった類のことは何ひとつ言いませんでした。僕がするように、手足はそれらの範囲で自由に躾をしたにすぎないのです。けれどそこまでわかっていながら僕はどこか不満でした。僕の知らない時間を持つことや僕のそばにいないことや僕に歯向かうことといったそれらすべてが気に食わなかったのです。
――僕の手足なら、僕を困らせたりするな!」
僕はそう叫ぶしかありませんでした。言いたいことはあるのにうまく纏められそうもなかったからです。そうすると手足は一層顔を顰めて、またしても僕を混乱させるような言葉を口にしました。
「お前に欲情してたって言ったら、どうする?」
それを聞いたとき頭の中が真っ白になり、僕はただ立ち尽くすしかありませんでした。手足はそんな僕を見るなり溜息を吐いて更なる言葉を僕にぶつけました。
「お前は少しも考えたことがなかったんさ? オレがお前のそばにいる理由。誰でもよかった訳じゃねえよ。お前だから、さ」
「そんな、の、知らなかっ……」
「どんなに望んだところで手に入りはしないから、あいつをかわりにした……あいつの肌、雪みたいに白くて、お前と似てるんさ。体格だって細くて、お前みたいで、でも顔は似ても似つかないから、だから明かりもつけずにあいつを抱いた。お前を思い浮かべながら、あいつを――
「もういい! もういい、それ以上聞きたくない……」
手足が今の今まで秘めてきた感情をさらけ出したことについていけず、僕は手のひらを耳に強く押し当て崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込みました。もうこれ以上聞くのは耐えられませんでした。手足が頭上でまた何ごとか言ったように感じましたが、震える目蓋をきつく瞑りどうにかその場を凌ごうとするのに精一杯でその内容までは聞き取れませんでした。どうして僕だったのでしょう。僕の手足が僕に対してそのような感情を持っていたことがとても不思議でなりませんでした。そしてその身がわりとなって性を吐き出されたあの男を少しだけ不憫に思いさえしました。彼にだって彼の生活があっただろうのに、何故こんな目に遭わなければならないのかという文句のひとつやふたつ、おそらくは彼にもある筈でした。しかしこの屋敷に引き込んだのは僕なのです。僕の何気なさを装った一言が、今の結果を招いたのです。
「……全部……僕が悪いのか……」
その答に辿りつくのは至極容易でした。そしてこれより先は何も考えたくなかったのですが、僕の手足がそれを許してくれませんでした。手足は蓋をしていた僕の手を強引に剥ぎ取り、その上で少し怒ったようにそう思わせているのはオレかと問いました。
「だって僕が……僕があんなこと言わなければ、きみだってあの男を連れてきたりしなかったでしょう! 彼はねえ、僕のために、その人生を狂わせてしまったんだ! 僕がしたのは、つまりはそういうことなんだ!」
「落ち着けよ、なあ、どうしてあいつのことでお前がそんなに責任を感じなきゃならない?」
「知らない! もうわかんないよ! 僕がここへこなければ……父さんだってもっと、もしかしたらもっと生きられたかもしれないし、きみだって拾わずに――
きみだって拾わずに済んだのにときっとこのときの僕はそう続ける筈だったのでしょうが、それを最後まで言うことはできませんでした。訳もわからず喚く僕の口を手足はその唇をもって塞ぎました。反射的に身を後ろへ引いたものの、手足の大きな手が僕の首の後ろや背中を逃げられないように押さえていたものですから、それもまた憚られました。単純に口唇を割って入り込んでくる舌先は、荒々しく僕の口腔を蹂躙していきました。もっとも間近に感じる息遣い、ぞくりと粟立つ背筋、獣じみた雄のにおい、どれもが僕にとってはじめての経験だったのです。そうして永遠のような時が過ぎ、やっと解放されたとほっと息を吐いた頃には、僕の頭はぼんやり靄がかかったようにはっきりとしませんでした。
「わかって、***……どうか拾わなければよかったとか、言わないで」
僕の身体を掻き抱いて切なげに頬を擦り寄せる手足を拒むことなど、どうしたって不可能でした。


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