僕はその晩僕の手足に身を預けました。なんだかすべてがどうでもよくなった気がしました。奴隷身分として扱われていた頃に比べたら純粋に求められている今の状態の方が余程ましだと思ったのです。勿論彼の本意はわかりませんでしたが、それ以上に自分自身がよくわからなくなっていたので思考を止めました。 「なあ、***、どうして見ちゃったの。オレはお前に、酷いことはしたくないのに……」 手足が寝静まったのをよくよく確認してから僕は母屋を抜け出しました。そうして向かったのはひとりの男が監禁されている北の蔵でした。僕は彼を逃がしてやる気でした。僕が彼の人生を滅茶苦茶にしたのだから、僕の手で解放しなければならないと思っていました。 「……お前がここへくるのは珍しいな」 「あ、吃驚した、起きてたんですか」 洋灯を掲げると彼がやはりあの無表情な顔でいるのが見えました。ねえ、と呼びかけようと思い、僕は彼の名前を知らないことに気づきました。 「そういえば聞いていなかったんだけれど、きみの名前を教えて」 「俺の名前……? そんなものを聞いて、どうするんだ」 「呼ぶんですよ、それしかないでしょう。ねえ、なんていうの」 彼は気が進まないといったように、ぼそぼそと呟くように自分の名前を口にしました。彼の風貌によく似合う、この国らしい綺麗な響きの名でした。 「じゃあ***、きみを逃がしてあげます」 どういう風の吹き回しだと彼は不審げに表情を歪めましたが、僕は気にせず彼の背後に周り、彼を拘束していた縄を解きはじめました。僕の手足ときたら遠慮も何もなく彼を雁字搦めに縛りつけていたので、これではとても眠れなかっただろうと思いました。 「僕は暴力が大嫌いなんです」 おそらくもの心つく前から、僕はそれに支配され続けていました。痛みを感じない日などありませんでした。僕は暴力というものに酷く怯えていました。 「――お前、言ってることとやってること、矛盾してるぜ。あの眼帯野郎より先に手を出したのは、お前じゃなかったか?」 「そんなのはね、僕が一番わかっているんですよ。でも自分の気持ち、面白いくらいにちぐはぐなんだもの。きみはあれに乱暴されて怖くなかったの? 僕はいつまで経っても慣れないけれど……ああ、可哀想に」 彼の背中には無数の痣が浮かんでいました。よくよく目を凝らせばそれは背中だけではなく、全身にまで広がっていました。僕はそれらひとつひとつに丁寧に口づけを落とし、舌を這わせました。 「ばっ、……お前、何やってやがる!」 「何って、ただの消毒――襲われるとでも思いました? そんなことしませんよ、あれと一緒にされても困る」 「とにかく、それやめろ。くすぐったくて敵わん」 彼が不機嫌さも隠さずに身をよじらせるのがおかしくて、僕はくすくす笑ってしまいました。そういえばにこんなふうに笑ったのも随分と久しぶりな気がしました。 「……殴られるのも蹴られるのも痛いし、本当にそういう行為は嫌いなんですけれどね。僕はおかしいんだ、多分、ずっと前から。人間として大切な何かが欠落してるとしか言いようがない。誰かを酷い目に遭わせたくてしょうがないんです。こっ酷く痛めつけてやりたくて……わかる? わかりませんよね。でも僕がこんなことを言い出さなければ、きみは今頃こんな痛い思いをせずにいられたんです。だから恨むなら僕を恨んで。あれは単に、僕の言うことを聞いただけなんだから」 「それで……何故俺を逃がす?」 「僕が歩まされた道をね、今度は僕がきみに強要しているんだと気づいたら、そうしなければならないと思った。僕は父に救われたけれど、ここは人の出入りが何年もないし、きっと僕以外の誰もきみを救い出せないから。それだけです」 「お前も、今の俺と同じような境遇にいたと?」 「……手足が何をしていたのか、すべて知っている訳ではないけれど……それにしても、今夜のきみは饒舌ですねえ。前はちっとも反応してくれなかったのに」 はじめて会った頃が嘘のように彼はよく口を開きました。僕のことなどどうとも思ってなさそうなのに不思議なこともあるものだと思いました。それからすぐに、思いの外頑丈に縛られていた縄をなんとか彼の肌を無駄に傷つけることなく解くことができました。 「さあ、もうきみは自由だ。僕の気が変わらないうちに、さっさとお逃げ」 「……なあ、」 「ああ、気がきかなくてごめんなさい、路銀がいりますね。それにその薄着じゃあ寒くて外は歩けないし、」 今すぐ屋敷へ戻って必要なものを取ってこようと立ち上がったのですが、彼はそんな僕の腕を掴んで引き留めました。そして真摯な口調でこう言ったのです。 「そんなものいらないから、俺を暫くここに置いてくれ」 僕は訳がわかりませんでした。だってこんなにも手酷い扱いを受けているのに、どうして好き好んでここにいたいと望むのかとても理解できませんでした。もしかすると大幅に聞き間違いを犯してしまったのかもしれないと思い、僕は今なんと言ったのかと訊き返しました。 「俺は出て行かない。もう少し、ここに置いてくれ」 きっぱりはっきりと彼はもう一度そう言い切りました。今度は決して聞き間違いなどではありませんでした。 「……何故? だってきみは……とても下等な扱いを受けているのに? 人とも思われず……つらくはないの?」 「つらいとかつらくないとかじゃない。俺はここを追い出されたところでどこに行くあてもねえ。それなら、まだ飯と屋根があるだけましってもんだ」 「ふうん……馬鹿だね、きみは……」 折角僕が逃がしてあげると言っているのに、なんて馬鹿な男だったのでしょう。このとき僕の言葉どおりここから逃れていればこの先これ以上の苦痛を感じずに済んだだろうのに、本当に、彼はとんでもなく愚かでした。 僕は再び冷たく凍える彼を残したまま、蔵の錠をかけたのです。 |