------------- 定められた配役


次の日の僕は朝からとても不機嫌でした。僕は基本的に使用人が自分の部屋に立ち入ることを嫌っていました。だから誰もこの部屋には入るなと以前からよく言い聞かせていたのですが、父が亡くなる少し前に新しく雇われた女中がその約束を破ったのです。一部の例外はあるにせよ、僕は他人に自分の生活模様を見られること、他人の気配が部屋に残っていることがとても我慢なりませんでした。
「ごめんなさい、若さま。今日はとっても天気がよくって、朝日が降り積もった雪に反射してとても綺麗だったの。だから若さまにもお見せしたくて」
「そういうのを有難迷惑と言うんです。そんなもの、きみが無断で僕の部屋に立ち入りカーテンを開けたことの、なんの言い訳にもならない。次に僕の言いつけを守らなかったら、きみに暇を出す外なくなる」
正直、いまだに僕の頭の中は整理しきれない事柄で溢れ返っていて、誰かにやさしく接する余裕は持ち合わせていませんでした。だから僕は棘も隠さずに彼女を厳しく難詰してしまったのです。そんな僕を見かねてか、今は僕の執事である彼が紅茶を携えて僕を宥めにかかりました。
「そこらでしまいにしてあげたらいかがです。折角の可愛らしいお顔がいつまでも膨れっ面のままでは勿体ありませんよ」
「男に可愛らしいなんて、屈辱以外の何ものでもないですからね。……まあ、でも、今日は許してあげる。下がっていいですよ」
ばつの悪い顔をして最後にもう一度深く頭を下げ、彼女は僕の部屋から退室して行きました。彼女もまた黒髪の、あの男を彷彿とさせる顔つきでした。
「……彼女って、父が最後に拾ってきた子ですよね。それなのに僕が本気で解雇するとでも思ったんですか?」
「いや? 思ってない。そうじゃなくて、今朝のお前はなんだか一段と不機嫌だから、早いところ着地場所を確保してやろうと思ってさ」
「不機嫌なのは彼女が僕の言いつけを守らなかったからで……」
「なんにせよ、朝から腹を立てていたんじゃ今日一日は乗り切れないぜ」
彼の差し出す紅茶のカップを傾けながら窓を見遣りました。遮光するカーテンの働きもなく、窓からは眩しい程の朝日が降り注いでいました。確かに今日は彼女の言うとおり、外の景色は一面に銀色の美しさが広がっていました。今すぐ外へ出て行ってそこに倒れこみたいくらいでした。
「僕、昨日の晩、**に抱かれた」
思いがけずその告白はするすると歯節に出されました。それを口にするのになんの動揺もありませんでした。しかし彼にはそうでもなかったらしく、平静を失ったように食器を派手に床へ落としました。散らばった破片を拾い上げる素振りもなしに、彼は驚きを隠すことなど考えもしていない様子で僕の両肩を掴みました。そうして一言、嘘だよなと問いました。僕は嘘ではないと答えました。
「突然口づけられて、あれの部屋に連れていかれて、そこで抱かれた。僕はもうすべてがどうでもよくなって、抵抗も何もしなかった。おかしいですよね、僕は確かに――あなたが好きなのに。ただあれも僕のことをそういう意味で好いているのかはわかりません。だってあれは、僕のためにと北の土倉に連れ込んだ男にも、同じ行為をしていたんだもの。ねえ、愛なんてなくても、できるものなんだね。内緒にしていたけれど、僕はそういうのに子供みたいな理想を抱いていたんです。それだからとても衝撃的だった。愛し合っている同士がするもの、なんて思い込んでいたくせに、簡単に身体を手放した僕自身も」
手足に貪られたときのことは正直よく覚えていませんでした。僕の意識は一体どこへ飛んでいったのか不明でした。しかしそれはそれでいいことだと思いました。覚えていないなら覚えていないで、そのまますっかり忘れ去ってしまった方が得策な気がしました。あの行為は、おそらくは過ちだったのです。だってこの僕が、父に救われたこの身を自身で再び穢れに突き落とすだなんて、決してあってはならないことに違いなかったからです。
「ねえでも、もしかしたら僕は、父を裏切るようなことであっても、無自覚に罰をほしがっていたのかもしれなくて――鎖に繋がれているより、ずっと最悪な気分だよ」
僕を見下ろす黒い瞳を覗き込むと、嫌悪の浮かぶ顔つきの僕がそこにいました。僕はかぶりを振って頭の中に今なお浮かぶ情景を振り払おうとしました。そして相変わらず僕の両肩を掴む彼もさすがに軽蔑しただろうと思いました。彼は僕の首元に鼻を近づけると、だからか、とひとりごちるように呟きました。
「お前から、どうも気に喰わないにおいがすると思ったんだ」
「……そんなに移り香が残ってる?」
「ああもう、あいつのにおいだ。お前はただそれに狂わされただけだ。そうすることが普通のように錯覚させられただけだ。――お前はもっと気高くあるべきだ、だってこの家の当主になるんだろう、だから、そんなふうに自分を貶めちゃいけない」
――奴隷の烙印を押されたのに?」
僕の背中には一度奴隷身分となった者につけられる烙印がはっきりと残っていました。それは肉を削ぎ落とすでもしなければ一生消えることはありませんでした。こんな僕が常に気高い存在であるように見せるのは何よりの作為だと思いました。
「そんなものは、偽りの僕だ。本当の僕はご覧のとおり、汚いし醜いし……最低で最悪で……あなたも気づいているんでしょう。僕は人を殴らなければ気が済まないんです。手足にいつも何かしら痣があるのはそのためで、蔵におもちゃを連れ込んだのもそのためだ。気持ちがぐらつく度に僕がされたのと同じことをして、心の平静を保とうとした。ほら、そうしたら誰だって気がつく。僕に当主の器なんてないんだってね。……本当に、笑ってしまう」
そう言いながら、僕は少しだって笑えませんでした。とにかく侮蔑されるのがおそろしくて今までだんまりを決め込んでいたのに、すべてを暴露してしまいました。僕はこれ以上を嘘で塗り固めるのはできませんでした。そしてこのことを生きている父が知ったらどんなにか哀しむだろうと思いました。僕はこの、自身のおぞましい性癖をどうにかして捨て去りたいと願い、その理由での告白でした。彼も僕から漸く離れました。そして次に「これからあなたに酷いことをするが、赦してほしい」と言いました。彼は果物ナイフを取り上げ、僕を抱え込むようにしました。嫌な予感がして何をするのかと問えば、彼は無言で僕のシャツを捲り上げました。彼が何かを決意するように息を大きく吸い込んだとき、――熱い熱が僕の背に走りました。僕はあまりの痛みに大声を上げて一心に暴れ狂いました。彼は僕を空いた腕でしっかりと固定し、その肩で僕の口を塞ぎました。僕はなんとかしてこの激痛から逃げ出そうと身を大きく捩ったのですが大人の男の力にはどうしても抗えませんでした。そうして永遠かと思われる時間が流れたのち、やっと僕は解放されました。彼の手に握られた刃からは、床を目がけて赤黒い血が流れ落ちていました。
「……っ、あ、いった……! なんてこと、してくれたんだ……っ!」
「そのままじっとしていてください。何、少し抉っただけです。今手当てしますから」
「どうしてふたりきりなのにそんな改まった喋り方なの!?」
「失礼ながら、若さま。これはいち使用人としての行為であるからです。あなたが弱みにしている烙印を、できることならば綺麗に消してさしあげたかったのですけれど」
疼きに顔を顰め蹲っている僕のことなど見向きもせず、彼は飄々とした態度で手当ての準備を進めました。しかし僕が何より驚いたのは、僕を平気で傷つけてしまえる彼でした。少なくともこの数年を共に過ごした彼にできることではありませんでした。――つまり彼は僕のために、この烙印を消す以外で僕のために、このような強行を行ったのです。
「……ごめんなさい。あなたにこんなことをさせたくはなかった」
僕の厄介な性癖を受け入れてくれるばかりではなく、僕のために彼は同じところまで、僕が足を取られている境地まで堕ちてこようとしたのです。それは望外の喜びと存外の哀しみを僕に与えました。彼の傷を処置する手つきはとてつもなくやさしくて、僕は声を押し殺したまま泣きました。ただよくわからないいくつかの感情が相俟って、僕の頭の中は以前よりも遥かに混乱していました。僕は胸のうちで何度も彼に謝りました。


inserted by FC2 system