------------- 首を絞めた背約


そうして身なりを整えて朝の支度を終えた頃、誰かが部屋の扉を控え目に数度ノックする音が聞こえました。もしかしたら先程の女中かもしれないと思った僕の予想は外れました。若さまになんの用があるのかと執事は問いました。きっと今、僕はとても嫌な顔をしているに違いないと思い、扉に背を向けて来訪者を確かめようとしませんでした。それでも受け答えする声ですぐに誰だかわかりました。僕の手足は話したいことがあるとだけ告げました。
「お前と話したいことがある。だけどこいつには聞かれたくない」
「……どうして? 僕には話すことなんて何もないし……第一昨日のことなら、彼はもう知っていますよ。これ以上何を聞かれても困ることなんてないと思うけれど」
「お前は……この執事にだけはなんでも話すんさね」
「何を当たり前のこと……彼は父の次に大事な人だもの」
手足の声色はなんだか不穏でした。いつものような軽い口調はどこかへ跳ねのけて、ぎすぎすした感じがしました。それでも僕は振り向いたりしませんでした。これから自分はどうしたいのか、どうなりたいのか決めあぐねている途中に手足と目なんかを合わせれば、きっと望みもしない方へ流されてしまうだろうと思いました。そんな僕に呆れを抱いたのか、手足は大きく息を吐き出しました。それがなんだか僕への当てつけのように思えて心地が悪くなりました。
「お前はいっつも、いっつも父親父親。口を開きゃそればかりだ。そりゃ、オレみたいなならず者も追い出したりしなかった、人格的に優れた人だった。でもその旦那さまは死んだ。死者は生者に関与なんかできねえんだから、お前が気にすんのは、そしたらこいつだけだよな?」
「……何が言いたいの。遠回しなもの言いにはうんざりだよ」
「お前が内側で飼っているばけものを、こいつは知ってんのかってことさ」
――なんだか彼の言葉がすんなり腹に落ちました。ばけもの、と僕は声には出さずにその言葉をなぞりました。そうです、この身のうちには息を潜めたばけものが住んでいたのです。正に相応しい表現だと思いました。
「お生憎さま……彼はね、そんな僕でも受け入れてくれたし、それだけじゃない、同じところまできてくれましたよ。心苦しかったけれど、何より幸福なことだと思った」
どうしてオレじゃ駄目なのかと、酷く切ない声が僕の背中を撫でました。僕はわかっていたのです。手足は僕と同じように、とてつもなく脆い生きものだと。手足には思い上がりでもなんでもなく、真実僕しかいないのです。しかし僕はそうではないのです。その上ずっと僕のそばに置いてどんな頼みも聞いてもらって、それなのに本当にほしいものを手に入れようとするとき、僕はそんな手足を切り捨ててしまおうとしているのです。
「きみに恨まれたって、しょうがないね。きみのことは好き……でも僕たちが一緒にいたって、いいことなんか何もない。何ひとつない」
「なんでそうやって割り切ってしまえんの、お前。オレはお前といるのが、その空気が、本当に好きだった」
「傷の舐め合いみたいな毎日が?」
言えば、手足は一瞬言葉に詰まったようでした。それは僕の言うことが真実であるという何よりの証拠でした。
「きみの抱えている過去を、僕は一度だって問い質したりしたことはなかったけれど……きみの心が深く傷ついていたのは、知っていたから。僕もきみも、そばにいてくれるなら誰でもよかったんでしょうね。それが、致死性の高い毒だとも知らないで」
僕はこの頃、自分と一番近い人の隣にいることで、胸に空いた空白を埋められたように思っていました。それは単なる思い過ごしにすぎないのに、それを認めるまでこんなに時間がかかってしまいました。僕たちがお互いにどうしようもなく弱かった所以です。双方にとって益のあることではないとどこかで気づいていながらも、その甘い毒の香りが忘れられずにとうとうここまできてしまったのです。
「それでもオレはお前がいい。――お前じゃなきゃ駄目なのに、それでもお前は、オレを捨てるの」
「だって気づいてしまったんだもの。きみに抱かれた後、ものすごく虚しくなった。ちっとも心は埋められていなかった。きみと生きていったってしあわせになんてとてもなれないって、僕は気づいてしまったんです」
僕はとても惨いことを言いました。手足の顔なんてとても見れたものではないと思いました。言わば手足は僕の半身と言ってもいいかもしれません、その半身を手放す決意をここで揺らがせてしまってはいけませんでした。それがふたりのためであると疑いもなく盲目的に信じていました。
「きみももう自由になって。僕に縛られたりしないで」僕は声が震えないようにするのに精一杯で、他を気にかける余裕など少しもありはしませんでした。「長い間苦しめて、本当に、ごめんね」
紛うことなき離別の言を口にしたとき、喪失に痛む一方で、自分が心の奥で安堵の息を吐いていることを知りました。どうして今僕はほっとしているのだろうかとあれこれ思考を巡らしましたが、思いつく限りの理由はどれも口にするのも憚られる程最低なものばかりでした。
それがお前の本音かと、ぽつりと手足は零しました。深い絶望と失望が混じっているような色でした。相変わらず振り返ることはできないまま、そう、とだけ僕は返しました。葛藤が形となって頬を滑り落ち、それ以上長く喋ることもできなかったのです。僕は本当に卑怯な人間でした。泣きたいのは僕ではなくて向こうだろうとわかっていながらどうすることもできませんでした。
「さあもういいだろう。若さまの命に逆らうつもりか? さっさと荷物を纏めてここから出て行け。二度と、足を踏み入れるな」
「なあこれで! 本当に終わりなのか!? オレじゃあ、駄目なのか!」
駄目だよと僕が告げるより執事が彼を追い出した方が早かったのかもしれません。これでよかったのだと僕は何度も何度も自分に言い聞かせるように呟きました。ただどうやっても淋しいという感情だけは拭い去ることができませんでした。
お前は正しいことをやったのだと、執事が僕の肩に触れました。だから泣く必要はこれっぽっちもない、と。正直、このときの僕にどんな言葉をかけてくれようがそれらは上滑りするばかりで、この理不尽な人生を反芻してしまうのを止められはしませんでした。人生というものは常に理不尽さが蔓延していると誰もが感じているのかもしれません。それでも僕はこの道を生きるしかなかった僕という人間の、多大なる不運さを呪うしかなかったのです。
「***、僕は……こんな結末を予想したことは、一度だってなかったよ」
最愛の養父に愛されていたあの日々が、最高に輝かしかった時代なのだと、改めて痛感せざるを得ませんでした。
――不意に、痛烈な悲鳴が響き渡りました。その声に驚き椅子を蹴飛ばすように立ち上がると削がれた肉が引き攣って僕は蹲りました。呼び慣れた僕の名前を口にして、執事は僕の肩に手を添えゆっくりと立ち上がるのを手伝ってくれました。今のは一体なんだろうと呟くと彼は確認してくると言って部屋から出て行きました。どうも先程の絶叫は建物の外から聞こえたような気がして、僕は自室の窓を開き左右を確認しました。頭の中には今朝叱りつけた女中の姿が浮かんでいました。確かに彼女の声だったと思ったのです。それも気の所為だったかもしれないと窓を閉めた少し後、こん、と遠慮がちに窓ガラスを叩いた音が聞こえ、振り向くと――白い背景には似つかわしくない、赤い髪の男がそこに立っていました。にこりと、背筋が凍るような笑顔を携えた、よく見知った顔でした。
「ここ、開けて」とガラス一枚隔ててもよく通る声で僕の手足は言いました。僕はにこにことした笑顔がどうしてつくり出されるのかわからず、逆に不安に思いました。先程あれだけ突き放された人間が短時間でこうも気持ちを切り替えることができるのか甚だ疑問でした。僕が躊躇していると、手足は一層隻眼を細めて笑いました。僕に、笑いかけました。
「***、お前の大事なものを、奪ってあげる」
「……大事な、もの?」
「そんなのないって思ってる? お前にわからなくても、オレは知ってるさ。お前は旦那さまが大好きだ。旦那さま亡き今、あの人の面影を失うことは――つらい筈だよな?」
「まさか……蔵の彼のことを言っているの?」
「違う。旦那さま縁のものだ。もっと身近に、いるだろ?」
僕は部屋中を見渡しましたが、当然ながらまだ執事は帰ってきていませんでした。僕は嫌な予感がして手足が顔を出す窓ガラスにへばりつくと、ガラスはがたがたと音を立てて軋みました。
「おいおい、割れたらオレの顔は滅茶苦茶になる」
「何をした!?」
本当はここを開けて嬉々とした手足の首元を掴み上げたいところでしたが、僕の最低限の理性がそれをさせませんでした。そうしたとき、いいことが起こる筈がないと本能的に察知していたのです。
「……旦那さまに繋がるものを、つまりお前が大事に思うものを、オレがこの手ですべて壊す。オレを捨てたお前への罰さ。お前もよくやるじゃないか、粗相をすれば、仕置くだろう」
「お前、どちらが犬か、忘れたのか!!」
「一度飼い犬に手でも噛まれて、痛い目に遭えばいい。――本当はどちらが上だったのか、よくわかるだろうさ!」
手足のあまりの言いように僕は眩暈を覚えました。目の前にいるのは僕のよく知った手足ではありませんでした。この――男は、段々と、被った皮を剥いでいたのです。近頃感じた違和感はそれだったのです。従順なふりをしてずっと僕を欺いていた、これがこの男の本性だったのです。
「お前が最大限に痛いと思うやり方を取る」
――それがきみの、復讐のやり方なの」
「泥水を啜って生きてきた汚い子供は、真っ当な方法を考えつかない大人に成長するしかなかったみたいだな。内側から汚染されれば、どうしようもないだろ?」
ぎり、と僕は手足に気取られないように奥歯を噛み締めました。手足の言うことはよく思い当たってしまったのです。僕にも似たような経験をしたことがありました。それは自分の意志とは完全に別離していて、直そうと思ってすぐに直せるようなものではありませんでした。
「……きみがそんな酷いことを、する筈ない……きみはそんな人間じゃない」
「自信がなさそうなのは、お前がオレのことを実はなんにも知らなかったから? オレはお前に捨てられたくなかったから、必死でお前の望むオレでいたよ。それは本当のオレじゃない。お前の命令だけ聞いて、お前の都合のいいように動く。……それに値するだけの見返りがあったからさ」
今は、と僕は小さく零しました。窓越しでも十分に手足に届いたようでした。――いえ、もう僕の手足はどこにもいません。
「お前がオレを切り離したんだ、***」
死の宣告をされたような重苦しさが僕の喉に詰まりました。自分で自分の首を絞めるとはこういうことかと、僕は静かに、けれどはっきりと自覚したのです。


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