------------- せり上がる内膜


手足を拾ったのには訳がありました。
まだ父の屋敷に引き取られて間もなくのことでしたが、僕は言葉も満足に伝わらない、伝えられない中をたったひとりでいました。執事の彼や他の異国の使用人たちも雇われる前でした。この国の言葉がわからず口を噤むことの多い僕を不憫に思ったのか、父がその後段々と彼らを雇っていってくれたのでした。
手足と出会ったのもその頃でした。屋敷の前に打ち捨てられたように転がっていた汚らしい大きな袋に、僕は最初人が入っているとはまったく気がつかなかったのですが、訝しんで眺めているうちにそれはもぞもぞと動き出し、やがてひょこりと赤い頭を出してきたのが手足でした。鎖骨辺りまで伸びた赤というよりも橙に近い髪の間から覗いた、利発そうな緑色の瞳が印象的でした。身体は襤褸のようなものを纏って全体的に薄汚れているのに、その目だけはくすみがなくあまりにも綺麗で、これはもしかすると神さまからの贈りものなのではないかと思いました。僕は手足に手を差し伸べました。手足も不思議そうに僕を眺めた後、その手を重ねました。聞き慣れた言葉でお前の名前はなんだと尋ねるので教えてやると、手足はにこりと微笑みました。その日から、僕にはどんな無茶なことでも喜んでやるような、忠実な手足ができたのです。
ああ、そして、これが分岐点だったのでしょう。
彼はあの日と殆ど変らないような清らかな笑みで僕を見ていました。そしてその手は赤く濡れていました。最下層にいた頃、何度となく目にした色でした。僕は自分や他人の、所謂人間の身体に流れる血の色を知っていました。
「まずは、と思って、旦那さまに遠い奴からはじめてみた。最後に旦那さまが連れてきた、とても可愛らしい黒髪の女中」
僕は目を眇めました。彼の言っていることは本気であることはわかったのですが、本当であるのかどうかまではわかりませんでした。確かに彼の掲げる手のひらには紛うことなき血液がべっとりと付着していました。しかしそれが誰のものであるかは、見ただけではわかりっこないのです。
「……彼女は今どこに?」
「天国に」
彼は飄々とそんなことを言いました。馬鹿にしているのかと思いましたが、ここで怒鳴れば二度と平静は取り戻せないような気がして、僕は動揺を滲ませないように努力しなければなりませんでした。
「そうじゃなく、彼女の身体はどこにあるのかと訊いているんです」
「知りたければついてくればいい。お前は殺さないから」
「そんなこと、誰が信じると思うの」
「オレを裏切ったお前を、そんな簡単に楽にさせると思うのか? オレはどっちでもいいけど、お前の所為でこの屋敷の人間はすべて死ぬ、ってことは、覚えておけよ」
楽しそうに嬉しそうに笑う彼を見て、僕は身震いしました。あまりにもおそろしいことを簡単に言ってのけてしまう彼が、悪魔のように思えました。
「ごめんじゃ足りない。そんなんじゃお前の罪は滅ぼされない。自分の都合のいいように、なんでもうまくいくと思うな」
「そんなこと、思ったことはない。僕はいつだってうまくいかない世界を呪っていました。父さんのことだってそう。こんな立派なお屋敷に引き取られたからっていい気にもなっていない。僕はあの人がいてくれればそれで、よかったんだもの。十分だったんだもの」
「お前の言うところの父さんが、オレにとってのお前なのに」
一瞬だけ、彼の目の奥が不安定に揺らぎました。凶悪な笑顔の合間に見え隠れするそれを僕はとても愛おしく思ったのですが、彼の気持ちに応えてやることはできませんでした。僕の好きと彼の好きは同じようで非なるものだったからです。
「それなのにお前は旦那さまのかわりをすぐに見つけて、オレはひとり残された。どうして許せる? どうして祝福してやれる? 心根が醜いのは重々承知しているさ、だけど――憎いものは憎い! お前が大切に思うものすべてを壊してやらなきゃ気が済まない! オレはもう二度と、二度とひとりになりたくない……っ、でも、それでも、オレがこうしてたったひとりになることが、もし運命だと言うなら、お前も同じように……!」
彼はすべてぶちまけた後、喋りすぎたというように渋い顔をしました。そして僕に窓を開けるよう手で示しました。
「……元々、僕だけしあわせになるつもりはなかったよ。……本当だよ……」
だから僕は手足の望むとおりにガラスの窓を開け放しました。そして広がる雪の上に踏み立ちました。真っ白いものとばかり思っていた雪上からは、彼の手から零れ落ちたのだろう血痕がちらちらと視界に映り込みました。この血は誰のものかわかりませんでしたが、彼のものでないことだけは確かでした。
「……それで、彼女に何をしたんです」
「最後の晩餐に招待したんさ。ただし晩餐といっても招いたのはお前だけ。彼女は、まあ、食前酒みたいなもんか」
「フルコースって訳? 食べたこともないくせに、笑わせる」
「さっきも言ったけど、オレのことなんか何も知らないくせに、そっちこそ、笑わせる」
どきりとしました。それを手足に気取られたくはなかったのですが、寒さのための白い吐息が一瞬止まったのを隠し通すことはできませんでした。
「……オレのことなんて、知ろうともしなかったもんな。当たり前か」
「それは……! きみも、訊かれたくないと思って……」
「オレはもっと訊いてほしかった。オレのこと、もっと知ってほしかったのに、お前はそうしなかった。オレのことなんか、本当はどうでもいいと思っていた、証拠さ」
「違う、きみが大事だったから、不用意なことを尋ねて傷つけたくなかった。だって僕なら訊かれたくないもの。過去のことはつらい記憶でしかないから。よく、言うでしょう。自分がされて嫌なことは、他人にもするなって」
詭弁だ、と彼は鼻で笑いました。
「オレがあの執事だったらどうなんだ? お前はもっと、あいつに色々と、それこそ深いところまで尋ねようとしたんじゃないのか」
「それは……」
「図星か。なあ、***。ひとつ賭けをしよう」
「賭け?」
「蔵に置いてる男の身体をばらす。どれだけで死ぬか、賭けよう」
何を馬鹿なことを言っているのだろう、とそのときは思いました。人の命を賭けにするなど、どうしたって正気の沙汰ではありませんでした。しかし、彼は僕という人間をよく知っていました。
「何を、馬鹿なことを。そんな賭けに乗る訳にはいかない。彼の人生を、これ以上狂わせていい筈がない」
「情が移ったのか? そう言うならはじめからあんなこと言い出さなければいい。お前がはじめに望んだことだろう、今更調子のいいこと言ってんじゃねえよ。――お前が勝てば、オレは大人しくここから出て行こうと思ったけど、まあどうしても嫌だっていうなら、仕方がない」
「……どういうこと?」
「賭けの内容さ。お前が勝てばオレはここからすぐに出て行くし、もう誰も傷つけない。お前の大事な奴に金輪際手出しはしない」
「きみが、勝てば?」
「屋敷の人間全員殺す。お前もオレのものさ。もっともお前がこの賭けに乗らなかった場合も、似たような事態になるけど」
「ひっ、卑怯じゃないか! そんなの、そんなの……っ」
「勘違いするなよ、***。オレはこんな賭けをする必要はないんさ。だから選べ、ふたつにひとつだよ」
彼は酷くやさしい笑い顔を、僕に向けました。
「……きみは、ずるい人だ……僕が選べないのを、知っているくせに」
僕の大事な人を守れるなら、僕はなんだって、悪魔にだってなれるのです。そしてそれを教えてくれたのは、彼でした。


inserted by FC2 system