------------- わたしの厄災


「それで、話をずらされたけれど、彼女は今どこに。……生きているよね?」
「ちょっと腕を切ってやっただけさ」
おそるおそる尋ねると、雪を掻き分けでどんどん前へ進んで行ってしまう彼は、立ち止まることもせずにそのまま答えました。
「女性の肌に傷をつけるなんて……」
もし傷跡が残ってしまったらどう責任を取るつもりなのかと問い詰めたかったのですが、彼は不機嫌さを隠しもせずに殺さなかっただけありがたいと思えと言いました。なんという言いぐさなのかと思いましたが、先程聞いた尋常ではない叫び声の割に軽傷で済んでいたことに僅かにほっとしたのも事実でした。あのまま彼に殺されてしまっていたのでは、冷たく当たってしまった罪悪感がどうしても拭い取れないままいたような気がしました。
僕たちはまっすぐに男がひっそりと息づいている筈の蔵へ辿りつきました。あのとき男を逃がしていればどんな選択肢が提示されたのかわかりませんが、皺寄せがすべて彼に及んでしまったことにはそれこそ罪の意識しか感じませんでした。蔵の錠を下ろし、彼はゆっくりと扉を開きました。奥の方で、男が寒そうに身体を丸めているのが見えました。彼は明かりを灯し、僕に扉に内側から鍵をかけるよう言いました。内側に鍵などついていないと言うと、取っ手を縄で括っておけというなんとも無茶な要求を寄越されましたが、なんとか開きづらいようにはできたと思いました。まあいいかと彼が言ったのを聞いて、僕は次はどうすればいいのか尋ねました。そんな僕たちの様子を、黙って男は眺めていました。これから自分の身に何が降りかかるのか、何をされるのか、わかっているのかもしれないと思いました。
「わかってるな? これは賭けだ」
「わかっています、でも、どういう風に賭ければいいのか……」
「下から順に切り離す。そして右から左。足の爪五枚、足の指五本、足首、膝、股関節、そしたら次は腕だ。手の爪五枚、指五本、手首、肘、肩。ここまでやったら、まあ普通は、さすがに死ぬだろう。だから今言った中で、どこでこいつが死ぬのか、それを賭ければいいさ」
「そんなの、どこを切っても放っておけばそのうち死んでしまうと思うけれど」
僕は男の顔を直視することができませんでした。きっと彼は今の会話だけですべてを理解したことでしょう。そして逃げられないと観念して抵抗することもしないのでしょう。そんな男が不憫で、そして合わせる顔がありませんでした。彼を僕らのつまらない諍いに巻き込んだ張本人はこの僕なのですから。言い訳も、何も、できる筈がありませんでした。
「猶予を儲けよう。そうだな……ああ、五分毎に次へ進む」五分、と言って彼は開いた右の手のひらを僕へ向けました。「これならいいだろ」
「……あと、もうひとつ。彼女の……あの女中の無事な姿を見せてください。きみの言うことはもう信じられない。彼女が無事でないなら、この賭けも成立しない」
「わからない奴だな。大事なことだからもう一度言う、オレは、この賭けをする必要がない。オレの言うことが信じられまいとどうだろうと、お前は自分の大切なものを守るためにはこれに乗るしかない……そもそもあの女ひとりに、どうしてお前がそこまで言うのか理解に苦しむ。数度会っただけだろう、殆どどうでもいいんじゃないのか」
「そんなことない……! 何回会ったとか、そういうことじゃない」
仕方がないと言うように手足は息を吐き出し、そして蔵の隅を指差しました。よく見ると暗がりの中に誰かが倒れているのが見えました。
「あれさ。どうしてもってんなら確かめてみれば? 気絶してるだけなのがわかるだろ」
僕は一も二もなく駆け出し、彼女のそばに膝をつきました。口元へ耳を寄せるときちんと息をしていることがわかり、腕を切られた以外には目立った外傷もなく、僕は心底安心しました。
「僕は……僕は自分が恥ずかしい……過去の自分が、何より恥ずかしい。何故きみに、あんなことを言ってしまったのか、ずっと後悔してるんだ。だってなんの権利があって、僕は誰かを不幸にさせることができるんだ? そんなこと、できる訳がない。神さまじゃないんだから。もう僕の所為で、誰かを不幸にすることは、嫌なんです」
「そういうお前の鬱屈した気持ちは、オレだけが知ってた。あいつだって……あのいけ好かない執事だって、理解してくれはしなかった。そうだろう? お前は誰でもいいから自分と同じ目に遭わせてやりたくて……自分が負った痛みを誰かに知ってほしくて……お前は笑って手を振り翳す。傷つけるために。醜くて残酷な、性根だ」
「うるさい……っ、うるさいうるさい!」
あまりにも図星を指されて、僕はほぼ反射的に否定の語を叫んでいました。そんなことは彼に指摘されずとも僕が一番よくわかっているのです。だから懺悔のつもりで男を逃してあげようと思ったのです。
「無駄口を叩くな! 今、そんなこと話している時間じゃないでしょう……!」
「Yes, My Lord.そしたら賭けろよ。こいつは、どこまでいったら死ぬ?」
「………………右足、股関節……」
僕は迷って、迷いに迷って、それだけ言いました。
「わかった。じゃあそこまで切り落としてもこいつがまだ生きていたらオレの勝ち。こと切れたら、お前の勝ち。それでいいな?」
何もよくはないと思いながら、僕はゆっくりと頷きました。男の死を願っているような賭けの内容におぞましく感じました。その間も、やはり男はなんら反抗することなく、おとなしく壁に凭れているのみでした。心中で、ごめんなさいと、謝罪を呟きました。あのとき無理にでも放り出しておけばよかったと切に思いました。行くところがないからどうだと言うのでしょう、生きていればなんとでもなるのに、死ねばそこで終わりなのに、僕はそれを知っていたのに、どうして彼の頼みを聞いてしまったのでしょう。
そんな僕の葛藤など少しも意に介さず、かつて僕の手足であった彼は着々と準備をはじめていきました。男を地べたに座らせたまま柱に縛りつけ、両膝両足首に縄を巻き両足をひと纏めにした後、先端が太い鋏のような工具を手にしました。いよいよ彼の言う賭けがはじまるのかと思うと急に現実味を感じ、おそろしくなりました。ここから逃げたいと、強く望みました。
「……***、こいつの足、押さえてて」
「……どう、やって……」
「そいつの膝の上乗って、ああ、そいつに背中を向けてな。お前軽いから、ちゃんと動かないように押さえつけてろよ」
彼の言うとおりに僕は男の膝に跨りました。正直言って、目を合わせずに済んだことに一瞬ほっとしたのですが、よくよく考えるとこれは生爪を剥がすところをまざまざと見せつけられる位置だとそのときはじめて気づきました。おそらくこれは彼の意図に違いありませんでした。耐えられず目蓋を強く閉じて俯けば、すぐさま目を瞠っていろと窘められました。
いくぞ、というあまりにも軽いかけ声と共に、彼はその工具を男の爪に宛てがい――形容するのも憚られるような、あまりにも酷い音を立てて、一気に剥ぎました。そこには血も涙もありませんでした。背後からは断末魔のような声が上がり、身体が跳ね、眼前では血溜まりができつつありました。
「うあ……、あ、ああああああ」
僕は今まで同じようなことを、似たようなことをやってきたのです。人を痛めつけて、痛がるさまを見て楽しむ、そこに快楽を見出す――人間の所業としてあまりに歪んでいることは、明らかでした。
「……何、叫んでるんさ。まだまだ序の口だろ、こんなのは。まだ一枚剥がしただけだぜ? さあ、五分おこう。そうしたら、次は第二指だ」
「やだ……もうやだ……もう許して……っ」
「一体誰の台詞だよ、それは!」あろうことか、彼はけたけた笑い出しました。「それを言うなら、こいつだろうが。なんでお前がそんなこと言うんだよ」
「見ているのが……直視しているのがつらいんだ……! もう見たくない、もうあんな、苦しみ悶える声なんか、聞いていられない……! 狂いそうだ!」
――狂えよ、いっそ」
工具を掲げ持ち、彼は底冷えのする声音でそう言い放ちました。数秒前はあんなに笑っていたのに、それもどこかへ押しやったようでした。僕は誰の目も、まともに見られませんでした。
もう戻ることはできないのです。時間は止まりもしなければ巻き戻ることもしないのです。そんな単純なことを、理解するのが遅すぎました。
――ぼくはもう、とっくに、くるってる」
人間性を手放した瞬間に僕は狂いはじめていたのでしょう。どこで手放したかの記憶は定かではありませんが、そんなことは些細なことでした。今を、僕は、僕らは生きているのですから。
僕は男から立ち上がり、彼がどこかから調達した工具箱に近づきました。もう行く先がどうなろうと知ったことではありませんでした。僕は僕の手で縁のようなものを断ち切らねば何も終わりはしないのだと悟ったのです。どうにか逃げようとしたからこんなにも最悪の事態を招いてしまったのです。すべては僕の弱さにありました。だから、僕は、この手で終わらせなければならないのです。
「これが、僕らの、運命だと言うならば」訝しがる彼の目の前で、僕は金槌を取り出しました。「――引き金は、僕が」
「や……めろ……」
彼のこんな表情ははじめて目にしました。僕もこんな風に、恐怖に怯えた顔をしていたのでしょうか。見下ろすかつての手足はすっかり震え上がり、僕の手元を凝視して青褪めていました。驚く程、僕は冷静でした。ある一線を越えてしまったようでした。最早、怖いものはありませんでした。
「やめてくれ……っ!」
彼は無様にも腰を抜かしたまま、尻で床を舐めるように後ろへ下がりはじめました。僕はそんな彼を、哀しいとも、面白いとも、なんとも思わずに見下ろすのみでした。身に振りかかる危険を感じ取り、いち早くそれから遠退こうとする、それが人間なのです。僕はゆっくりと歩を進め距離を詰め、右手の凶器を振り翳しました。ごめんねと一言添えて、彼の頭蓋骨に狂気をうずめました。
神さまからの贈りものを壊してしまった僕は、永劫赦されることはないでしょう。それでも構わないと、思いました。
「な……んで……」
ゆっくりと、彼の身体が土埃の被る床へ沈み込みました。彼の頭からは僕らとなんら変わらない色をした血が流れ出たことに、僕は安堵しました。
それでも彼のすっかり澱んでしまった深緑が哀しくて、あの出会ったときのような清澄さを湛えた瞳を失わせてしまったのは僕だと思うと切なくて、金槌を手放した手で彼を掻き抱きました。せめてひとりではいかないように、さいごまで僕がそばにいてあげたかったのです。
彼は僕の耳元で、乾いた舌で僕の名前を呼びました。
そうして耳に響いた言葉は、酷く拙い、
「アイシテ、ル」
この国の――愛のことば、でした。


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